さらに三日後。
咲子は和泉と共に一条邸を訪れた。大広間には子爵夫妻を始め、宮澤を筆頭とした使用人たち全員が集まっていた。
忙しなくその場を行き来する者、服の裾を握りしめ震えている者。全員が、不安を露わにしていた。
彼らの先頭に立った和泉は、こほんと咳払いしてからぽつぽつと語り始めた。
さらに三日後。
咲子は和泉と共に一条邸を訪れた。大広間には子爵夫妻を始め、宮澤を筆頭とした使用人たち全員が集まっていた。
忙しなくその場を行き来する者、服の裾を握りしめ震えている者。全員が、不安を露わにしていた。
彼らの先頭に立った和泉は、こほんと咳払いしてからぽつぽつと語り始めた。
お集まり頂き感謝する。今日、ここに集まってもらった理由は、鹿乃子嬢の誘拐事件の全貌(ぜんぼう)について明らかにするためだ
前置きはいい! 鹿乃子は……
人の話は黙って最後まで聞くことだ。貴族が、その程度の礼節も弁(わきま)えられないのか
こんな場でなければ、声をあげて笑いたいところだった。
和泉に窘(たしな)められた叔父は、渋々閉口した。
一週間ほど前、鹿乃子嬢は輿入れの最中に誘拐された。犯人は大柄な男だった
はい。間違いございません
使用人を代表して、宮澤が大きく頷いた。
だが、実際は、鹿乃子嬢は誘拐などされてはいなかった
予想もしないどんでん返しに、周囲がざわめいた。
咲子は、ぎゅっと袴の裾を握りしめて、和泉を見守っていた。
何を仰いますか! お嬢様は……
馬車には事件当初、四人と花嫁道具が乗っていた。帰宅時は三人。だが、馬車の轍の深さは行きと帰り同じだった。人一人分の重さが減ったはずが、妙だとは思わないか?
!!?
宮澤の表情が、青ざめた。傍から見ても分かるほど、狼狽えていた。
拳を握りしめる手に、力がこもる。
現実から目を逸らさない。鹿乃子のためにも、向き合うのだと決めて、咲子は和泉に付いてきたのだ。
鹿乃子嬢は誘拐されてなどなかった。自宅に戻る馬車に乗っていて、その後、姿を晦ましたのだ。おそらく、君たちが鹿乃子嬢を変装させ連れ出したのだろう。誘拐は周囲を混乱させるための偽装工作だったというわけだ
宮澤!! 鹿乃子はどこにいる?
落ち着け。あなたは鳥頭(とりあたま)なのか。人の話は最後まで聞け
時々、和泉がカッコよく見える。子爵相手にこの態度。逆らえさせない威厳を感じるのが、すごい。
宮澤に掴みかからん勢いの子爵を止め、和泉はさらに続けた。
輿入れの最中に事件を起こしたのは、鹿乃子嬢の結婚を破談にするためだ。花嫁が誘拐される不祥事を子爵は隠し通すだろう。そして、頃合いを見計らって代理の花嫁を改めて輿入れさせる。そこまで計算づくだ。つまり、これは誘拐ではない。狂言誘拐だ。首謀者は誘拐された鹿乃子嬢本人だ
なっ、何を言う? 鹿乃子は……
鹿乃子嬢の行く先はすでに分かっている。彼女の意思は、これを読んでもらえばわかる
和泉は懐から一通の手紙を取り出した。数日前、町はずれの宿場で匿(かくま)われている鹿乃子から託されたものだ。
手紙を読んだ子爵夫妻は、顔を真っ赤にした。
ふざけるな! 好きな人と一緒になりたいだと、認められるか! 鹿乃子はどこにいる?
……
子爵は、怒りにまかせて、手紙を握りつぶして捨てた。咲子はそれを慌てて拾い上げて、丁寧に広げた。
子爵の怒りの矛先は、宮澤から和泉へと向いた。けれど、和泉は表情一つ変えない。
短絡的且つ短気なあなたの性格を見越して、鹿乃子嬢はお連れしなかった。鹿乃子嬢が幽閉されてしまいそうだったからな
鹿乃子は気丈にも同行を申し出たが、咲子と和泉が止めた。
子爵が激昂し、彼の感情が鹿乃子にぶつかることも安易に想像できたから、連れて行かない方がいい。満場一致で決めたことだ。
言え! 格上の相手に嫁がせてやろうと、私がどれほど苦労をしたと思っている! 鹿乃子の幸せのために、私は……
いい加減にして!
ぱしんと、小気味いい音が響いた。
咲子が、子爵の横っ面を叩いたのだ。
口では散々生意気なことを言う姪だったが、手を挙げたのは初めてで、一条子爵は度肝を抜かれたようだった。
咲子は、間抜けな顔をする叔父の襟首を容赦なく掴みあげ、巨体をぶんぶん揺さぶった。
その時、一言でも鹿乃子が幸せだと言ったの? 言わなかったでしょ!
莫大な持参金と名誉のために、あなたは鹿乃子を売っただけよ! 幸せだなんて、ふざけないで
頭の中が爆発したようだった。言い表せない強い感情が身体中を駆け巡って、咲子は突き動かされるように叔父に掴みかかっていた。
こんなのでも、一応叔父で、鹿乃子の父親だ。理不尽な罵声を浴びせられようと、暴力を振るわれようと、自分から手を出したりしないと決めていた。
礼儀も慎みも、忘れてしまった。
お姉様、西園寺様、どうか見逃して下さい。お願いします!
鹿乃子は理不尽な結婚を強いた両親へ、不満は一言も言わなかった。「見逃して欲しい」と、咲子たちに頭を下げた。狂言誘拐は、彼女なりの思いの伝え方だったのではないか。その気持ちを、どこまで踏みにじれば気が済むのだろう。
優しい彼女はきっと怒らない。だから、咲子が代わりに怒る。ようやく分かり合えた鹿乃子の想いを、ありったけぶつけてやる。
鹿乃子は好きでもない人と、苦労しない一生を送るより、好きな人と苦しくても一緒に過ごせるほうがいいって、言ったの! ちゃんと書いてあったでしょう!
しわくちゃの手紙を、咲子は大声で読んだ。
好きな人と一緒に暮らしたい。鹿乃子の手紙には、彼女の一途な思いと両親への愛が綴(つづ)られていた。それ聞いた宮澤たちは、主の名を呼びながら啜(すす)り泣いた。
お父様、お母様、親不孝をお許しください。それから、私は今、とても幸せです
宿でこの手紙を書きながら、鹿乃子も泣いていた。「お父様、お母様」と、ずっと繰り返し呟いていた。
鹿乃子は両親を愛していた。それなのに、この人たちは鹿乃子を子爵家の道具としてしか見ていない。これほど腹が立つことは初めてだ。
鹿乃子の気持ちが分からない? これでもあなたは、娘の幸せだなんて言えるの?
同感だな。娘の幸せを願うなら、伯爵家との縁談にこだわる必要もあるまい。この手紙は非常に分かりやすく、己の願望を綴られている。これを読んでもなお、伯爵家への輿入りにこだわるのならば、娘の幸せという言葉とは矛盾している
鹿乃子お嬢様はお一人で家を出られようとしていました。ですが、お嬢様のような箱入り令嬢が一人で市井に出るなど無謀だと、私達は力を貸しました。私達の立場などどうでもいい。ですが、お嬢様のお気持ちを無下になさるのなら、旦那様でも許しはしません
鹿乃子の想い、咲子の行動に、子爵夫妻以外全員が背を押してくれた。
口々に告げられ、子爵夫人は蒼白な面持ちで倒れた。
どうせすぐに……どうやって生活を……私はただ幸せにしてやりたかった
安心したまえ。鹿乃子嬢の就職先は、私が斡旋(あっせん)してやる。彼女は芯が強く優しい女性だ。すぐに、いい勤め先が見つかる
和泉の小さな親切大きなお世話発言に、叔父も、とうとう泣きわめいた。
鹿乃子のこと、愛してるじゃない
叔父夫婦を見て思った。
咲子の愛情とは違う形ではあるけど、二人はやっぱり鹿乃子の両親だ。
叔父の最後の呟きは、彼の本心だ。
咲子は、神様にそっとお願いした。
私たちを導いてくれて、ありがとうございます。
二人の思いが、鹿乃子にも届きますように。