数日後。
咲子は自転車で家を出た。
天気は快晴。雲一つない青空が、どこまでも広がってた。
鼻歌交じりでペダルを踏むと、愛車が風を切って進む。
やっぱり、気持ちいい。車を出すという、執事の申し出を断って正解だった。
一際豪奢(ごうしゃ)な洋館の前で、自転車を止めた。
数日後。
咲子は自転車で家を出た。
天気は快晴。雲一つない青空が、どこまでも広がってた。
鼻歌交じりでペダルを踏むと、愛車が風を切って進む。
やっぱり、気持ちいい。車を出すという、執事の申し出を断って正解だった。
一際豪奢(ごうしゃ)な洋館の前で、自転車を止めた。
来たか。今日は、機嫌が良いな
ええ。ものすごくね
そう言う和泉も、なんだか嬉しそうだ。
鹿乃子の婚約者だった伯爵が贈収賄(ぞうしゅうわい)の罪で逮捕された。一際大きな見出しが新聞の一面を飾り、関係者は大騒ぎらしい。
これで、鹿乃子の結婚は正式に白紙!と、朝から頬が緩みっぱなしだ。
それにしても、和泉が、あの西園寺家の人だったなんて……
どうりで態度が大きいわけだ。口に出さないが。
西園寺家は、明治維新に活躍した英雄の家系で、侯爵位を持つ富豪だ。
叔父夫妻も、侯爵位を持つ家柄の和泉相手では、いつものように振舞うわけにもいかず、渋々従っていたのだ。
所詮は次男だ。それに、肩書で呼ばれるのは好きではないな
和泉が、自分のことを明かしてくれたのは、事件が解決した翌日だった。
鹿乃子の勤め先が決まったと、わざわざ咲子の家まで伝えにきてくれた時、
実はだな……その……鹿乃子嬢の勤め先は西園寺家……私の家だ
!!?
珍しく慎重な和泉の口から告げられた言葉に、咲子は、
それで根性曲りなのね
と、笑った。
和泉は眉間に深い皺を刻んでいたが、咲子を咎(とが)めはしなかった。
君は、こんな私を何とも思わないのか?
別に。肩書だけがその人の全てじゃないから、どうでもいいわ
肩書一つでは分からないことが沢山ある。
優しいとか、優しくないとか。
器用だとか、不器用だとか。
肩書よりも大切なことは、この世界にたくさんある。
身分が高い人ほど徳があるとか、そういう道理はこの世には存在しない。
肩書だけで、人の価値を決めつけてしまうのは、その人のことを見ていないのと同じだ。
いいところや、悪いところ、何も知ろうとしないなんて勿体ない。
それに、咲子も肩書で為人(ひととなり)を決めつけられるのは好きじゃない。
それより、お茶にしましょう。良い紅茶が入ったって、聞いたんだから!
和泉の手を取って、咲子は彼を急かした。
和泉は、きちんと手を握り返して、咲子を案内してくれた。「食い意地が張っているな」と、余計な一言を付け加えるのを忘れずに。
エスコートまでなら完璧なのに。まあ、それが和泉らしい。
今日は気分が良いから、大目に見てやろう。
和泉に案内されてやって来たのは、中庭だった。屋敷と同じく洋風な造りの中庭では、薔薇が大ぶりの花をつけていた。
お姉様!!
鹿乃子!!
二人はぎゅっと抱き合って、再会を喜んだ。
一条家を出た鹿乃子は、西園寺家のメイドとして働いている。鹿乃子の愛する彼も、西園寺家の庭師として雇われたそうだ。
鹿乃子に会いたいのと、和泉が外国から仕入れた新しい紅茶とお菓子に釣られて、咲子は西園寺家までやって来たのだ。
中庭には、小さめのテーブルが用意されていて、和泉がベルを鳴らすと、お茶やお菓子が次々と運ばれてきた。
鹿乃子もメイドたちに混じって、一生懸命、働いていた。
可愛い。頑張って鹿乃子! 火傷しないように……
従姉妹の可愛すぎる働きぶりに、人知れずため息を吐いた咲子だった。
しばらくすると、給仕が一段落したので、和泉は鹿乃子以外のメイドを全員下がらせた。
仕事の邪魔をしないよう、鹿乃子に声をかけるのを避けていたことに、和泉は気づいていたらしい。彼なりに、気を遣ってくれたのだ。
驚いた。まさか、彼があの伯爵家で働いていたなんて
時間が経つほど、話に花が咲く。
鹿乃子は、ほんのりと頬を染めて、彼との馴れ初めを語ってくれた。
晩餐会に呼ばれた時に知り合って。お互い立場を気にして、何も言えなかった。でも、彼に結婚の話をした時、初めて気持ちを打ち明けられて。私も変わらなきゃって
鹿乃子は幾度も伯爵家を訪れていたが、意中の彼に夢中で、伯爵のことは少しも覚えてなかった。恋は盲目(もうもく)とはよく言ったものだ。
同行していた両親も当然、娘の淡い初恋に気づいていなかった。伯爵家の機嫌を取るために精一杯だったと思うと、苦笑いが込み上げた。
鹿乃子の狂言誘拐は公表されなかった。大病を患い、遠い田舎町で静養していると発表された。
先日、子爵夫妻が自ら月読家を訪れた。
鹿乃子に身体に気を付けるよう言っておけ
鹿乃子をよろしくお願いします
夫婦そろって、そう鹿乃子へ託(ことづ)けていった。これから、夫妻は田舎の別邸に身を移すそうだ。
叔父たちの心境にどんな変化があったのか、咲子には測れない。
ただ、二人はもう鹿乃子の縁談に執着していない。
娘の思いが、両親をも突き動かした。今の、子爵夫妻なら、少しは好きになれそうな気がしたのだ。
それに、婚約がきっかけで、鹿乃子は彼と恋人になった。子爵の苦労も、真逆の方向ではあるが、報われていたと知ったのは、全てが終わった後だった。
幸せそうに働く従妹の姿を見るのは、すごく嬉しい。咲子まで幸せな気分になれる。
次はお姉様の番よ。お姉さまにうんと良い方が現れるよう、毎日神様にお祈りします!
なんて可愛い! 心の声が思わず漏れそうになった。
身内の欲目を抜きにしても、鹿乃子は美人だ。恋をしてから、ますます美しく成長しているように思うのだ。
やっぱり、恋の力は偉大だ。
あ! お姉様、紅茶のお代わり淹れますね。お菓子もありますよ、どれにします?
覚えたての給仕をしながら、くるくる表情を変える鹿乃子。その姿は、以前よりも輝いている。
目標は、自分たちで稼いだお金で結婚式を挙げることだそう。次の一歩に向けて、今は一生懸命働くのだと、逞しく宣言されたばかりだ。
いつか、白無垢を着た鹿乃子が新しい門出を迎える日が来る。
想像するだけで、目頭が熱くなる。
今の鹿乃子を見ていると、本当に幸せそうで、羨(うらや)ましい気持ちにさせられる。
恋か……
水姫池の精霊は、愛する男のために、精霊であることを捨てた。
鹿乃子も、恋した人のために、家と家族を捨てる決意をし、今を掴んだ。
運命というのは、思いがけない形で転がってくるのかもしれないと、この頃思うのだ。
食い意地の張ったお転婆なお姫様に、いつ王子様が現れるのか。見ものだな
見世物みたいに言わないで下さい!!
今日とて、和泉は絶好調だ。
それさえなければ恰好いいのに。まったく。
湯気の立つ紅茶に口付けると、薔薇の甘い香りがした。
和泉のおすすめだけあって、びっくりするほど美味しい。
本当に、幸せだ。
咲子は神様に感謝した。
運命の出会いは、すぐ傍にあるかもしれない。
(終)