衝撃的な再会から三日後。
授業を終えて校門を出ると、見慣れない車が止まっていた。

行くぞ。早く乗れ

三日間、何の音沙汰もないと思ったいきなりこれだ。しかも、命令ときた。
咲子が口を開くよりも早く、和泉は強引に咲子を車に乗せ、連れ去った。
一条子爵や誘拐犯より、この人の方がよほど極悪なのではなかろうかと思うのだ。

どこへ行くの?

助手は大人しくしているのが一番。尋ねると、和泉は素っ気なく一言。

一条邸だ

現場へは行かないんですか?

とっくに調査済みだ。犯人の手掛かりは見つからなかったが、一条家の馬車を目撃した人物はいた。馬車は確実に山道を通ったということになる

つまり、馬車は山道に入るまでは、普通に走っていた。
鹿乃子が誘拐されたのは、山道に差し掛かった以降のことで間違いない。
和泉の仕事の早さに、咲子は舌を巻いた。本当に有能な人だ。頭の回転の速さと言い、想像力、発想力、全てに目を見張るものがある。
これで性格が良ければ完璧なのだが、天は二物を与えない。
それにしても、何故、助手の自分が置いてきぼりにされたのか。その一点が、癪(しゃく)に障ったが、全ては鹿乃子のためだ。
胸の辺りのもやもやを無理やり飲み込んで、外を眺める。
見慣れた景色が通り過ぎていくのをジッと見つめていると、不意に、輿入れの馬車に乗り込む鹿乃子の姿が浮かんだ。

鹿乃子……一体、どこにいるの?

知らない人に突然攫われて、知らない場所で一人不安と闘っているのでは。想像するだけで、胸が締め付けられる思いだ。
きっと、怖くて堪らないはずだ。

いや、不安だったのは誘拐される前からよ。

鹿乃子の輿入れは、見慣れた町を離れて、見知らぬ世界に一人放り込まれるのと同じだった。
見慣れた景色が見えなくなっていき、徐々に輿入れ先が近づいていくのだ。
わずか十五で、大役を任された鹿乃子の不安と恐怖は、和泉の言う『赤の他人』の咲子には計り知れない。
少なくとも、咲子が鹿乃子の立場だったら全力で抵抗しただろう。
鹿乃子は、反抗も出来ず輿入れの日を迎え、誘拐されてしまった。
遠ざかっていく町並みを見ながら、鹿乃子は何を思っていただろう―――

私に力があれば、鹿乃子を守れたのに

後悔しても仕方ないのに、気づけば唇を噛みしめていた。
このままではいけない。咲子は拳を強く握りしめた。

待ってて鹿乃子。必ず、助けてあげるから

……

一言の会話すら交わさぬまま、車は一条子爵邸の前で止まった。
幸運にも一条子爵夫妻は留守で、家令の宮澤(みやざわ)が二人を迎えてくれた。彼は一条家に長く仕える使用人で、鹿乃子の執事でもある。輿入りの際も同行していた。

恐ろしいことです。背の高い大男がいきなりお嬢様を攫って、山の方へ消えました。追おうにもこの年です。みな男を見失い、屋敷へ引き返しました。情けないことです

たった数日で、一条邸は火が消えたようだった。宮澤も、他の使用人も面やつれし、淀んだ空気が屋敷全体を包み込んでいた。
和泉は宮澤と数人の使用人から話を聞き、最後に車庫へ向かった。
咲子は、和泉に言われて屋敷の見取り図を調達したり、宮澤たちの証言をまとめていた。

事件当日、鹿乃子嬢が乗っていた馬車だ

文明開化を皮切りに、交通手段は華々しい発展を遂げた。馬や馬車、人力車を見かけるのは少なくなっていた。
一条子爵家は、輿入れの際、古い因習に則って馬車で相手方の家に向かう。本邸には、馬車専用の車庫と、厩舎も備わっている。
馬車は二頭立ての四人乗りで、あの日は鹿乃子と執事の宮澤、女中が一人乗っていた。空席には、鹿乃子の嫁入り道具が置かれていた。

夜中、執事たちは一条邸に戻った。馬車を車庫に収め、鹿乃子嬢が誘拐されたことを子爵夫妻に伝えた。当事者、目撃者の証言はどれもこのようなものだったな

はい。別に、可笑しな点はなさそうですけど

考えが足りないのは、相変わらずだな

イラッ

毎回のように、一言も二言も余計だ。人の神経を逆なでるするのが、和泉の特技なのではないかと思えてきた。

犯人は何故、高価な貨物ではなく、娘の方を攫ったんだ?

鹿乃子を人質にした方が、身代金を取れると思ったからじゃないですか?

だとしたら、何故身代金の要求がない?

それは……

分かっていたら、これほど悩んだりしない。

では、質問を変えよう。何故、馬車をご丁寧に車庫に仕舞った? 主が誘拐されたんだぞ。一刻も早く、屋敷の人間に事の次第を伝えるべきだろう

和泉が咲子に詰め寄った。咲子は負けじと、口を開いた。

嫁入り道具はとても貴重な品です。それを守るために、とっさに行動したのでは?

嫁入り道具は、花嫁の思い入れのある品、両親が婚礼を祝うために用意した高価な品が揃う。子爵夫妻も伯爵家への輿入れに相応しい衣装や宝飾品を用意したはずだ。盗まれたら大変だ。
我ながら、よく出来た推理だ。
和泉は「まだまだだな」とでも言いたげに、首を横に振った。

鹿乃子嬢が攫われた時、彼らは犯人の後を追ったと証言している。馬車は置き去りだ

御者は残ったかもしれません

ならば、今回も御者が残るはずだ。馬の目付だって必要だ。それにだ!

和泉が馬車の轍を指さした。
鹿乃子が誘拐されたあの日は、雨が降っていた。庭には、轍(わだち)の跡がくっきりと残っていた。

見たまえ。馬車の位置から考えると、こちらが行き、こちらが帰りのものだ。行きは御者を含め四人、帰りは三人乗っていた。だが、轍の深さはどちらも同じだ

和泉は物差しで深さを測ってみせた。結果は、どれも同じだった。
咲子は眉根を寄せた。

一人減っただけです

人一人の重さを甘くみてはいけない。深さがまったく同じなど、可笑しいだろう

それが何だっていうんです?

馬車を仕舞わなければいけない理由があったとすれば、答えはただ一つだ。
鹿乃子嬢が、馬車に乗っていた。この家に戻り、その後、彼らに連れて行かれた

表情一つ変えず告げられたのは、残酷な推理。咲子の表情が凍りついた。

つまり、宮澤たちが犯人だと?

宮澤は、優秀な執事だ。鹿乃子が生まれた時から、彼女に仕えている。鹿乃子のことを誰よりも尊重し、大切にしてくれた。
宮澤は、咲子にもよくしてくれた。月読邸に鹿乃子を連れてきてくれたのは宮澤だった。一条子爵夫妻は咲子と鹿乃子が会うのを。代わりに、宮澤たちが鹿乃子を密かに遊びにつれ出してくれた。
宮澤だけじゃない。鹿乃子に仕える人たちは、そういう人達ばかりだ。

君が持ってきた見取り図によれば、車庫の近くには使用人専用の裏口がある。ここからなら、鹿乃子嬢を誰にも見つからず連れ出せる。
調べたところ、家令を筆頭とする鹿乃子嬢の使用人の中には、多額の負債を背負っている者もいた

身代金の要求は、まだありません!

事件からすでに数日が経過しているが、未だ犯人からの連絡はない。身代金を要求するような手紙の一通すら来ない。
身代金目当てに誘拐したなら、すぐにでも連絡が来るはずだ。

これから来る可能性はゼロじゃない。それに、一条子爵夫妻は使用人からあまり好かれていないようだ

一条子爵はとても高慢ちきな人物で、子爵の肩書を振りかざし、暴利を振るうことも多い。
自分が後ろ盾となった有名作家や、画家の独立を阻んだり、新興商家相手に横柄な取引を強要したこともざらだ。それでいて、目上の貴族には人が変わったように愛想がよくなる。
子爵夫人も、貴族の出で夫と同じように傲慢で我儘な人だ。
夫婦そろって、気に入らない使用人を勝手に首にしたり、折檻したり、悪い噂が絶えない。
一条子爵の碌でもない為人は、今に始まったことじゃない。
それに、一条子爵に恨みがあるなら、直接本人たちを狙う。宮澤たちが鹿乃子を巻き込んだりするはずない。

鹿乃子嬢の結婚に乗じて、誘拐すれば、一条子爵夫妻は相当困るはずだ。子爵家の面子を潰すことも出来る

だとしても、機会はいつでもあったはずよ。それに、宮澤たちが鹿乃子を傷つけるなんてありえない! 鹿乃子を大切にしていた人たちをそんな風に疑うの?

至極真っ当に推理したまでだ。そこに大切にしていたかどうかなど、私情は関係ない

そんなことない!

自分でも驚くほど、大きな声が出た。
真っ赤な他人のくせに、あたかも知ったような顔をして優しい彼らを陥れるなんて。
腹立たしい―――和泉も、それを覆すだけの推理が導き出せない無力な自分も。

大切に思っていたから、遠く離れた輿入れ先にまで付いて行ったの。本当に、本当に、大切に思っていたから……でなきゃ、出来ないよ

手塩をかけて育てたお嬢様を、望みもしない結婚相手の元に連れて行くなんて、辛すぎる。
大切なお嬢様を一人ぼっちにしないために、宮澤たちも必死だった。空っぽの馬車から、そんな光景が見えるのだ。

気丈な叫びに、次第に嗚咽(おえつ)が混じる。

どうして、この人の前で泣いているのだろう。
分からない、人に弱いところを見せるのが、一番嫌だったのに。今まで抑えてきた感情が、咲子の意思を無視しで溢れていく。

私情かもしれないけど、私は信じたいの。
確かに、人なんてお腹の中で何を考えているか分かんないけど、優しくしてくれた。好意ってそう簡単に裏切れるものなの? 私はそう思わない。優しくしてくれた、そういう人の心を、信じるのはいけないことじゃない

咲子は必死で拙(つたな)い言葉を紡いだ。
和泉にこの感情を理解してもらうのはきっと難しい。ただ伝わって欲しい。人は恐ろしい感情を持っているけど、優しさも持ち合わせていること。
人を支えてくれるのは、いつだって人で、どんな事情があろうと、あっさり貶(けな)してはいけない。

随分長い時間をかけて、言うことは尽きた。すでに涙は止まっていた。

…………すまない

!!?

傷つけるつもりはなかった。ただ、私はこういう性質(たち)で、自分では正しいことを言ったつもりなのだが、他人(ひと)を怒らせてしまうことがある。昔、兄に怒られたことがある。その時の兄は、今の君と同じ目をしていた

相変わらず堅苦しい言葉。ただ、いつもと違って、優しさが滲んでいる。

だから、泣くな

和泉は、ぎこちない手つきで頭を撫でてくれた。
慣れないせいで、痛いし、上から圧迫されているようで、慰められている感じはあまりしなかった。
ただ、和泉が反省して、謝ってくれていることは十分伝わった。
和泉は人の気持ちに疎(うと)い。真面目で頭のいい人だが、人の感情をくみ取るのが下手だ。
鉄面皮じゃなくて、ただ不器用なだけだ。

許します。西園寺さんの言い分は正しいです。可能性の一つとして納得します。でも、私はそうは思いません

では、君の意見を聞こう

私は、鹿乃子が望んだと思っています

攫われたのではなく、自発的に姿を消した。
ようは、家出だ。
鹿乃子のために、宮澤たちは手を貸した。
誘拐は家出をごまかすための作戦。つまり、狂言誘拐。

鹿乃子は結婚するのが嫌だった。だから、家を出ようと思った。両親に見付からないようにするには、輿入れの最中にするしかなかった

一条子爵だって、鹿乃子が手放しで結婚を承諾したとは思っていないだろう。彼女の周囲に、息がかかった使用人を配置して、監視していたはずだ。万が一の事態が起きないように。
ただ、輿入れの際となればそうもいかなかった。
鹿乃子自身の希望もあっただろうし、何より子爵自身もここまでくればという安心感もあっただろう。
それを逆手に取ったのだ。
そして、彼女を思う人々が、彼女の願いを叶えるために共犯者となった。
勿論、鹿乃子の本音は分からないので、推測にすぎないが、和泉は真剣な顔で聞いてくれた。

君は馬鹿なようで、本当は賢いのだな。能ある鷹(たか)は爪を隠すとは言うからな

!!?

あまりにも意外なことを言われて、拍子抜けしてしまった。
一拍遅れて、褒められたと気づく。
鼓動が大きく跳ねた。

馬鹿は余計です

そうなのか……

頬を膨らませて抗議するが、すぐに口元が綻んだ。
なんだか、嬉しい。
その時、和泉が相貌を崩した。口元が小さく綻んだのを、咲子は見逃さなかった。
笑った顔は意外にもあどけなく、可愛い。心臓が早鐘を打ち始めた。

ねえ、もう一回!

何を言っている?

無自覚なのか、本人は訳が分からないという様子で、きょとんとしていた。
狡い!

それより、君の仮説を踏まえて、私も推理してみた。今から検証に行くが、来るか?

勿論!

即答すると、和泉がまた柔らかく微笑んだ。
咲子は神様に祈った。

どうか、鹿乃子が無事でありますように。
あと、恨んだりして、ごめんなさい。

王子様は名探偵!? 其の三

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