王宮に勤めている者だけが見られる書物も、民間向けに開かれている施設の書物も、城下町の本屋に並ぶそれらも、どんなに目を通しても撫子の望む答えを綴っていない。
けれど、それでも……、空いた時間に元の世界への帰還方法を探してしまうのは、自分の住処に戻ろうとする帰巣本能のようなもの故か。
う~ん……。やっぱり私程度の立場じゃ、得られる知識なんて限度があるわよね
王宮に勤めている者だけが見られる書物も、民間向けに開かれている施設の書物も、城下町の本屋に並ぶそれらも、どんなに目を通しても撫子の望む答えを綴っていない。
けれど、それでも……、空いた時間に元の世界への帰還方法を探してしまうのは、自分の住処に戻ろうとする帰巣本能のようなもの故か。
姉様……
世界と世界を繋ぐ魔術などが存在していれば、それが、世間一般に知られていたりなどすれば、きっとどの世界でも面倒な問題を抱え込んでしまう要因となるだろう。
だから、万が一、その方法が確立されていたとしても、撫子の手の届く場所には……。
わかりきっている事をまた調べ始めてしまったのは、――。
凶獄の九尾の件が片付いたら……
出来るだけ早く、撫子は元の世界に帰りたいと、前よりも強くそう思うようになった。
いつまでも異分子である自分がこの世界の世話になるわけにはいかない。
だから、……早く、早く、本来在るべき場所に、帰らなくてはならない、と。
元の世界に戻ったら、また忙しくなるんだろうなぁ……
凶獄の九尾が消えても、向こうの世界では妖の類が絶える事なく人に仇名している。
被害が大きくなる前にそれを収め、人々が平穏に暮らせるように力を尽くす……。
それが、私の役目……
撫子くーん、何をやってるんだい?
え? あ、レオトさん。こんにちは。ポチもね
ワンッ!
王宮図書館の窓際の席で本のページを捲っていると、物憂げな撫子の隣に男が腰を下ろしてきた。
優しそうな笑みを纏う騎士団長レオトの傍らには、いつものように愛犬、いや、愛狼ことポチの姿もある。
また、元の世界への戻り方を調べ始めたのかな?
はい……。もしかしたら、目新しい情報でも見つかるかな、と思いまして
本当に?
……くしゃりと、兄を思わせるような優しい手つきで頭を撫でられた撫子は、見透かされていると気付いた。
気を紛らわせる為に、無駄だとわかっている調べ物を再開し始めた事を……。
ロルスの件が、尾を引いてる?
いえ……、それは、もう、大分楽にはなったので、大丈夫です
先日の、騎士団員ロルスからの誘いの件は、確かに撫子の心に傷を残している。
断っても誘いを重ね続けたあの声音が、自分を見つめていた、捕らえようとしていたあの目が。
だんだん、気持ち悪くなってきて……
師匠のフェインリーヴが助けに入ってくれなければ、一体どうなっていた事か……。
ロルスが、男性という生き物が怖いと、暴力的なものとはまた違う意味で、恐れを抱いた。
けれど、フェインリーヴに対してだけは違った。
自分を守ろうと背に庇ってくれたあの人の広い背中が、ロルスを追い払ってくれた少し怖い声が、振り返った時に、心配そうに自分の顔を覗き込んでくれた表情が……。
凄く……、安心できた
けれど、その胸に抱き締められている時に思った。
弟子である自分を、心を尽くして守り世話をしてくれているフェインリーヴにこのまま甘え続ける事は、――依存に繋がる、と。
さらに厄介だと感じたのは、保護者の立場を担ってくれている彼に対し、依存以外の何かが胸の奥で騒いでいるという事。
そして、それは……、決して自覚をしてはいけない感情だと、撫子は気付いている。
だから、その事を考えないように別の事で頭をいっぱいにする為に、こうしているというわけだ。
無理はしなくていいよ。ロルスのやった事は好意の押しつけでしかないからね。けど、もし撫子君が許してくれるなら、一回でいいから、アイツの謝罪を受けてやって貰えるかな?
アイツって、……ロルスさんからの、ですか?
駄目かな?
正直に言えば、まだ会いたくはない。顔も見たくないし、声も聴きたくない。
けれど、お人好しな撫子は、精一杯の笑顔を浮かべて頷いてしまう。
レオトさんが同席してくださるなら……
有難う。庇うわけじゃないけど、今は頭も冷えてるし、普段通りのアホっぽい頑張り屋に戻ってるから、前よりは怖くないはずだよ。それに、何かしようとしたら、俺が斬り捨ててあげるから安心して
ふふ、ありがとうございます
自分を安心させようと繰り返し頭を撫でてくれるレオトも、安心できる人の一人だ。
けれど、やっぱり違う……。フェインリーヴに触れられた時に感じる、少し切ない疼きが生まれない。
撫子はレオトと他愛のない話に移りながら、自分の中で強くなっていく特別な感情を、また見て見ぬふりを決め込んで流す事にした。
出張、ですか?
あぁ、明日から一ヵ月ほど、俺はこの国を離れる
急なお知らせ、ですね……
師匠からの出張予告に撫子が目を丸くしたのは、レオトと話をした日の夜の事だった。
いつものように、フェインリーヴの研究室で寝る前の勉強会を開いて貰い、一生懸命さと真面目が取り柄の撫子は、薬草学の復習を頑張っていたのだ。
時折、間違いを指摘したり、質問に答えてくれていたフェインリーヴが頃合いを見計らったかのように告げた知らせ。
撫子は首を傾げながらも、どこに行くんですかと尋ねた。
二つ向こうの国、ロエルゼンだ。俺の友人が珍しい新種を見つけたと連絡があってな
薬草大好きなお師匠様なら、そりゃあ飛びつくお話ですねぇ
滞在期間と往復を合わせても、最初に言った通り、一ヵ月はかかる。その間は見習いとしての仕事を普段通りにこなし、何かあればレオトを頼れ。いいな?
そう告げると、フェインリーヴは自分がいない間の注意事項を、まるで子供を相手にするかのように延々と続けてきた。
いつも通りのお師匠様の顔、いつも通りの思い遣りの深さ。
ひとつでも破ったら、あとでお仕置きだからな? わかったか?
ふふ、はい。ちゃんとお師匠様との約束を守って、お帰りをお待ちしています。だから、道中お気をつけて、何事もなく、無事に帰ってきてくださいね
当たり前だ。賊が出ようが、事故に遭おうが、大した事はない。お前がこっそり期待している土産に関しても、落とさずに持って帰って来てやる
そんな、いつもの他愛のない師弟の微笑ましい日常を、撫子は失いたくはない。
いつか、元の世界に戻る日が来るとしても、その時もこうやって、師匠と弟子の顔で、笑ってお別れをしたい。互いに良い想い出を胸に、それぞれの世界で生きて行く。
それが一番良い事だと、撫子は胸の奥の何かを抑えつけながら、彼に笑顔を向け続けながら思った。