春休み3日め。

あん

本当に大丈夫なの?

と尋ねるあたしを無視して、怜一郎(れいいちろう)さんはベッドから起き上がった。
 
今、8時30分。
 
昨日、怜一郎さんは過労で倒れてしまった。

さすがに今日は遅くまで寝かせておこうと、あたしも怜一郎さんにあわせてまだベッドの中にいた。

しかし怜一郎さんは、どうやら早くお出かけしたいらしい。
 
あたしがいるというのにためらいもなくパジャマの上を脱ぎ捨てた。

細身ながらも引き締まった上半身が現れる。

あん

ちょっ…!?

あたしはとっさに布団を顔のあたりまで引き上げた。
 

あん

…本当、常識ない、この人…!

怜一郎

そんな反応すんなよ。
…初めて見るんじゃあるまいし。

…そうは言っても恥ずかしいことには変わりない。
もともと、そういうことには慣れてないのだ。
 
そろそろ着替え終わったころかなぁと布団をどけると、怜一郎さんの顔が思ったより近くにあった。

あん

なっ

怜一郎

おまえも早く着替えろよ。

そう言って、ネグリジェのリボンに手をかける。

しゅるしゅるとリボンが解かれて、下着が見えそうになったところで我に返った。

あん

ちょっ、…ばか!

あわてて右手で服を握り、左手で怜一郎さんの胸を叩く。

…ダメージは0。
怜一郎さんは楽しそうに笑ってる。
しまった。右手で叩けばよかった。

あん

もう、着替えるからあっち向いてて!

怜一郎

はいはい

怜一郎さんがむこうを向いたのを確認すると、あたしはクローゼットを開けた。

…どの服を着よう?
やっぱり、ドレッシングルームまで取りに行こうかな…?
 

ふと、怜一郎さんの方を見る。
怜一郎さんはいつものスーツ姿ではなかった。

黒のシャーリングパンツに、グレーのチェックのシャツ。

…私服も、かっこいい。
その時ふと、怜一郎さんがこちらを見た。

怜一郎

どうした?

意地悪に笑うこの人は、きっと全部わかってやってる。

あん

…別に。今日どこ行くのかなって思って。

あたしは再びクローゼットの方へと目を向けた。
その中の一着が目に留まる。
…あ、このワンピ。

怜一郎

決めてないな。
…お前の行きたいところでいいよ。

あたしはピンクのワンピースを手にした。

あん

買い物行きたいな。
…ていうか、怜一郎さんと街歩いてみたい。

彼氏と買い物デート。
友達の話聞くたびに、すごくうらやましくて、憧れになってた。

それに、街を歩いてるあたし達を見れば、みんなきっとあたし達のこと、本当の愛し合ってる者同士だと思ってくれる…

あん

…だめ?

あたしは不安そうな目をして怜一郎さんの方を見た。

この目をして、怜一郎さんがだめだなんて言ったことは、今まで一度もない。

怜一郎

いいんじゃないか、買い物デート。

あたしは予想通りの返事に、微笑みかけて――

あん

あ!あっち向いててって言ったでしょっ

忘れかけていたことを思い出した。
…危うく、ネグリジェ脱ぐとこだった。

怜一郎

おまえが先にこっち見てきたんだろ。

あん

いいからあっち!

怜一郎さんは文句を言いながらもおとなしくあたしの言葉に従った。

それを確認してから、あたしはネグリジェを脱ぎ、ワンピースに袖を通したのだった。

怜一郎

…遅い

あたしが身支度を済ませ階段を下りると、怜一郎さんは玄関のところで待っていた。

あん

ごめーん

できるだけ急いで怜一郎さんのもとに駆け寄る。

…そんなあたしを見て溜息をついた怜一郎さんは、あたしの着ているワンピースを見て、怪訝そうな顔をした。

怜一郎

おまえ、そんな服持ってたっけ?

…気づいてくれた!
あたしはうれしくて、思わず笑顔になった。

あん

これ、この間結人(ゆいと)さんがつくってくれたの。

そう、今日着てきたのはあのワンピースだ。
 
本当は怜一郎さんの前で一度着てみせたのに、あの時は全然気づいてくれなかった。

…だから、その仕返し。

怜一郎

おまえさ、デートの時に他の男からのプレゼントなんて着てくんなよな。

そんな上機嫌なあたしに対し、怜一郎さんは不機嫌そうにそう言った。

あん

…もしかして、やきもち?

怜一郎

だったらなんだって言うんだよ。

怜一郎さんは仏頂面のまま、玄関の扉を開けた。

あたしはすごく幸せな気持ちのまま、怜一郎さんの後に続いた。

あん

…あれ?

外に出たあたしは、なにか違和感を感じた。
池(いけ)さんの運転する車が来ていない。

いつもならばあたし達が外に出るころには、このあたりに…
 
すると、怜一郎さんはすたすたとどこかへ歩きはじめてしまう。

あん

まって…

その方向は…車庫?
 
怜一郎さんは車庫に入り、数多く並ぶ車の中の1台に近づいた。

鍵を開ける。
あたしは目を疑った。
…この、車って…
 

****!!
 

車を見て固まるあたしとは裏腹に、怜一郎さんは運転席に座ってしまう。

あたしはまだ動けずにいる。
そんなあたしに溜息をついて、助手席のドアを開け放った。

怜一郎

乗れよ

あん

え、あ、うん…

あたしは言われるまま車に乗る。
…すごい、左ハンドルだ。

それに、新しい車のにおいがする。
絶対、ほとんど乗ったことないはずだ。

そもそも、怜一郎さん…

あん

運転なんてできるのね。

怜一郎

おまえ馬鹿にしてんのか。

あたしが思わずそう口にすると、怜一郎さんは不機嫌そうに言った。

怜一郎

今時、身分証明に免許証は必要だろ。

あん

ま、たしかにー

正論であるぶん、怜一郎さんに言われるのには腹が立ったが。

怜一郎さんは慣れた手つきでエンジンをかけると、そのままハンドルを握った。


…やっぱり、男の人の運転している姿ってかっこいい。


とはいえ、本当にちゃんと運転できるのか心配だったが、怜一郎さんは普通に運転し、あたし達は目的の場所についた。

6.「波乱の幕開け」(1)

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