あん

おかえりなさい

ドアが開いて、今度こそは怜一郎さんの帰宅だった。

怜一郎

…ただいま

そう言って差し出された鞄を手にする。

靴を脱いでスリッパに履きかえた怜一郎さんは、鞄を再び手にすると片手であたしのことを抱き寄せた。

怜一郎

…疲れた

本当に疲れたような声に、あたしは少し不安になる。

あん

大丈夫?

怜一郎

…ああ、もう大丈夫だ

確かに怜一郎さんは、最近忙しい。

正式に九条グループの次期会長として発表され、先週から本社の新しいプロジェクトの責任者だという。

若い女性向けの、お肌に優しく、かわいいコスメシリーズを作るらしい。

ネーミングからすべて、怜一郎さんが指揮を執るらしく、最近はよく夜中まで起きて仕事をしていた。

怜一郎

…ちょっとキス

そう言って顔を寄せてくる。

恥ずかしいが、疲れているんだし、拒むのはかわいそうだ。

そう思い、あたしがそのキスを受け入れようとしていたところ――

結人

…見せつけてくれるねー、怜一郎

後ろからのんきな声がして、ふたりして慌ててお互いの体を離した。

のんきな声の正体は言うまでもなく結人さんだ。
 

見られていることにも気づかず、あやうくキスしてしまうとこだったと、あたしは恥ずかしくてうつむいた。

怜一郎

なんで結人いんの?

疲れを浮かべた顔により一層疲れの色を濃くして、怜一郎さんは訊いてきた。

あん

えっと…

結人

ちょっと暇でね―

けろりと答えたのは結人さんの方だった。

怜一郎

暇って…。それでわざわざ人ん家まで来るなよ。

そう言うものの、こういうことは慣れているようで、怜一郎さんはお手伝い頭の大橋(おおはし)さんを呼ぶと、部屋を準備するよう言いつけた。

この広い邸には、ゲストルームがたくさんある。

はじめの頃、好奇心で邸探検をした時には、いくつもあるホテルの一室のような部屋がなんの部屋なのか全く分からなかった。

ゲストルームと聞いた時は、こんなに人が来ることもないだろうにと、無駄の極みを感じたものだ。

結人

しばらくこっちに泊まってもいーい?

怜一郎

どうせだめって言っても泊まるんだろ?

一見嫌そうには見えるものの、怜一郎さんが本当はこの言い合いを楽しんでいることはすぐにわかった。

そんなふたりの様子を、あたしはうらやましい気持ちで見つめていた。

結人

こっちにいる間、あんちゃんの服作ってもいー?

怜一郎

あんの服?…どうした、急に

結人

んーっとねー

柔和な笑顔のまま、結人さんはあたしに近づき肩に触れると、くるっとまわして怜一郎さんの方に向けた。

結人

あんちゃんってさ、かわいいじゃん?

怜一郎

…ああ

あん

…なっ…

ものすごいお世辞だ。

そうわかっているだろうに、怜一郎さんがそんな風に返事をするものだから、あたしはひどく慌てた。

…申し訳なくて仕方がない。

結人

あんちゃん見てるとどんどんデザインが溢れてきちゃうんだよねー。あんちゃんはさ、どんな服でも似合うから。

そう笑顔で言われるのはうれしいが、すごくいたたまれない。

怜一郎

確かに、そろそろ新しい服を買わなければいけないと思ってた

…あんなにあるのに!?

あたしは怜一郎さんの言葉に軽く驚いた。

怜一郎

まあいいけど…。おまえ、あんに手出すなよ?

結人

あたりまえじゃーん。怜一郎の奥さんに手なんて出したら日本じゃ生きてけないよねー

軽口を叩く結人さん。

…でも、なんとなく笑えない。
本当に生きてけなさそう…。

怜一郎

…。とにかく、部屋で話そう

そう怜一郎さんが言って、あたし達は部屋に戻った。
その日の夕食は、いつもより騒がしいものとなった。

pagetop