…ふぅ、とあたしは小さなため息を吐いた。

小岡優子

いかがなさいましたか、あん様

小さなため息のつもりだったのだけれど、聞こえていたようだ。


九条家に来て早3週間。


すっかり仲良くなったお世話係の小岡優子さんが、微笑みを浮かべたままそう訊いてきた。

あん

…なんか、緊張してきて

それは結婚式会場の控室。


ウェディングドレスに身を包み、メイクも髪型も完璧にして、あとは時間を待つだけだった。


鏡台の前の椅子に腰かけ、念入りに最後のチェックだ。
鏡に映る自分は、自分とは思えないほどきれいだった。


…とはいえ、あたしは緊張のせいで頭が真っ白になっていた。うまく呼吸もできない。
 

今日の朝、緊張で吐きそうだと告げると、そんなに緊張するほどのものでもないとあの人は言っていたけど、それは無理な話だ。
 

あたしは、なんとか落ち着こうとしていた。
最近そうするとしてしまう癖がある。
左の耳たぶを触ってしまうのだ。


そこには、出会ったばかりの頃、怜一郎さんがくれたピアスが輝いている。


ピンクダイヤの、かわいらしいピアス。
転校が決まってすぐ、怜一郎さんに強制的に開けられたのだ。


あのころ怜一郎さんは

怜一郎

ピアスを見るたび俺のことを思い出してほしい。

と言っていたけど、今はその通りになっている。


このピアスを見ると、怜一郎さんが近くにいるみたいで、落ち着く。


あれから、何個かピアスは買ってもらったのだけれど、やっぱりこれが良くて毎日これをつけていた。


世界に、ひとつしかない、怜一郎さんからの初めてのプレゼントだから。

小岡優子

九条家の方々のほとんどが来られるのですよね。…あん様の緊張もわかります。

…そう、それだ。
今日の結婚式には、あたしの知り合いはほとんどいない。


今後のこと――つまり、いつか訪れる終わり――を考えて、友達や知り合いは呼んでいないのだ。


呼んでいるのは、ごく近い親戚。


お母さんと、伯父さん、叔母さん、いとこたちと、それからおじいちゃん、おばあちゃんだけだ。

みんなには、学生結婚を隠すため、とごまかしておいた。
 

…だから、今日の参列者のほとんどは九条家の方々なのだ。
 

小さな式だからと言われたけど、あの人の“小さな”ほど信用できないものはない!

あん

…はぁぁ、今なら死ねそう…

小岡優子

大丈夫ですよ、あん様。みなさん、あん様のお美しさに見とれてしまいますわ。

あん

そんなお世辞いらないっ

本当に、こっちは大変だっていうのに!
今にも、口から心臓が飛び出そうだ。


そうして、あたしがそっぽを向いた時。

怜一郎

入ってもいいか?

控え目なノックの音が響いて、そんな声が耳に飛び込んできた。

小岡優子

怜一郎(れいいちろう)様。どうぞ、あん様の準備はもう整っていますわ。

あん

…ぇ、ちょ、ちょっとっ…

…まだ、心の準備ができていないのに。
優子さんは勝手にそんな返事をしてしまっていた。

あん

ま、まだ、もうちょっと待っ…

怜一郎

そうか。なら、入るぞ。

あたしは待ってと言ったのに、聞こえなかったのだろうか、怜一郎さんはドアを開け入ってきてしまった。


グレーの燕尾服姿が、よく似合っていた。
背が高くて痩身の怜一郎さんは、やっぱりこういう格好が一番似合う。


でもいつもとは少し違う。
髪もきれいにセットして、いつもよりもっとかっこよく見える。

そんな怜一郎さんの姿に、あたしはしばらくの間見とれた。


そうして、あたし達はしばらくの間、一言も言葉を発せずに見つめあっていた。


その時間は、永遠に近いものにさえ感じられた。

小岡優子

では、ごゆっくり

我に返ったのは、微笑みながら退出する優子さんを見た時。


それは、怜一郎さんも同じだったのだと思う。
ふたりが視線をそらした瞬間は、まったく一緒だった。

3.「縮まる距離」(1)

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