あたしはこれから先のことを考えて、頭を抱えた。そんなあたしに対し、九条さんは

怜一郎

そういえば

と、思い出したように話を続ける。

怜一郎

おまえ、どうして学校を辞めなかったんだ?

あん

どうしてって…

怜一郎さんの言わんとしていることはわかった。


学校に行けば、行くだけ働く時間は減る。


しかも奨学金付となると、学校生活に手を抜くことなんてできない。


学校を辞めさえすれば、授業費無料とはいえ、なんだかんだ言って教科書だ参考書だ模試だと掛かるお金はいらなくなるし、働く時間、休む時間は圧倒的に増える。
 

それをわかっていながら、それでも高校へ通い続けていた理由。



それは。

あん

あたし、大学行きたかったの

怜一郎

夢でもあるのか?

あん

…夢?そんなものあるわけない

大きな借金を抱えるはめになって、もう夢なんて忘れてしまっていた。


…昔の自分に、夢というものがあったのかさえわからない。

あん

3000万もの借金となれば、これから先、…ううん、あんな連中相手だもの。
破格の利息を付けられたってわかりゃしない。
下手したら死ぬまでずっと、この借金と付き合っていかなきゃならないかもしれない、そう思っていたの。

無意識のうちに、ぎゅうっと手を握りしめるのは、かつての恐怖のためだろうか。

あん

それだったら、今はつらくても、大学まで行って、それからちゃんとした職に就くべきだと思ったの。
いまどき高校中退なんて、バイトだってできない時代でしょ。
それは、学歴がなくても成功してる人はいるわ。
…でもそんなの、よっぽどの実力者か、よっぽど運がいい人。
…あたしには無理。だから

怜一郎

合格だ

感情が抑えきれなくなって、涙が出そうになっていた。


そんなあたしの手に、九条さんは自分のそれを重ねて、言った。

怜一郎

それでこそ、俺が認めた女だ

勇気づけるように微笑んでみせて、彼は手に力を込める。

怜一郎

もう大丈夫だ。…もう、終わったから

さっきはあんな横暴を言っておきながら、どうしてこんなふうに優しいことを言うのだろう?

あん

九条さんは、やさしいね

そう言うと彼はふっと鼻で笑った。

怜一郎

今更だ。…それと、九条さんなんて他人行儀な呼び方はやめろ

九条さんはあたしの頭をくしゃっと少し乱暴に撫でた。

怜一郎

おまえだって今日から九条だろ。さっきじじぃのところで呼んだみたいに、怜一郎と呼べ

…そういえば、お祖父さまのところでは流れにつられて“怜一郎さん”と呼んだ気がする。


さっきの言葉といいなんだか恥ずかしいことを言った気もするが、気のせいということにしておこう。

あん

そうね、怜一郎さん。あたしのこともあんって呼んでくれてかまわないわ。改めてよろしくね

これからしばらく続くことになるであろう偽装の結婚生活。
 

どうせなら楽しまなきゃ損だわ。
 

あたしがよろしくと手を差し出すと、怜一郎さんも手を差し出してくれた。


優しくて大きな手。
大切にしたいと思った。







それから、1時間後。
 


あたしと怜一郎さんの署名がなされた婚姻届は無事役所に提出され、あたし達は正式な夫婦になった。

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