あん

あ、えっと…、零川あんです

そう言って頭を下げる。


それから、再び頭を上げて、そこであたしは初めて九条誠太郎を見た。

思わず息を呑む。


窓から差し込む光を浴びて、こちらを向くその人には、かつて見た写真では感じられたカリスマ性も、自信も見当たらなかった。


穏やかに微笑むその人は、ごく普通の、人生の疲れを感じさせる老人だった。


最早自らの足で歩くこともつらいのだろう。
車椅子に腰掛けている。


そしてなによりも――
 

…この人、目が見えていない…?
 

こちらに顔を向けているものの、まったく視線が合わない。

九条誠太郎

あんさんか。…話は聞いているよ。あなたの顔が見たい。こちらへ来てはくれないか?

しわがれた声にも、威厳は感じられない。


あたしは先程の緊張も忘れて、九条誠太郎のそばに寄った。


のばされた深い皺の刻みこまれた手を、そっととって自らの頬に持っていく。


あたしの顔を撫で、顔の形を認識した九条誠太郎は、優しく微笑んだ。

九条誠太郎

…綺麗なお嬢さんだ。どこか、怜一郎の母親に似ている

涙を浮かべながらそう言った。

九条さんのお母様である九条いずみ様は、彼が小さい頃病気で亡くなったのだと聞いた。


そんな方に似ていると言われて、なんだかじんと胸が熱くなってしまう。

九条誠太郎

怜一郎は、なんでも自分で抱え込む癖があるんだ。…そんな時は、君が怜一郎を支えてくれないか

あとから、九条誠太郎の病気のことを聞いた。


長年巨大な九条グループを率い、大きな責任を抱え無理をしてきた体は、もう限界だったのだという。


加齢黄斑変性という病気で片目の視力を失い、もう片方の目もほとんど視力がない状態。


昨年の秋には心筋梗塞で倒れ、なんとか一命は取り留めたものの、右足に麻痺が残りあるくのもままならないのだという。

九条誠太郎

怜一郎を、ひとりにしないために

日本屈指の九条グループ会長の姿はなかった。
そこにいたのは、孫を心配する、ごく普通の老人だった。
 

先見の明を持つ天才は、視力を失い、もうなにも見ることはできない。
 

なぜか涙があふれてきて、あたしはそれを隠すように老人の手を取った。


深いしわの刻みこまれた、痩せた小さな手。
やさしく、そっとその手を包み込む。


それから、微笑みを浮かべた。


老人の目に映ることはないけど、それでも、感じてもらえればと思った。

あん

わかっています。絶対に怜一郎さんをひとりになんてしません。…お祖父さま

老人の目から、静かに涙が零れおちた。

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