怜一郎

俺の姉は、恋愛で失敗をした。一番目の姉は売れないミュージシャンと一緒になって家を勘当された。二番目の姉は失恋から研究に走った挙句、あのザマだ

ふぅ、と短い溜息。

怜一郎

それで、じじぃは俺に条件を出しやがった

あん

…それが、結婚?

怜一郎

ああ、そうだ

その時の彼の顔を、あたしは一生忘れないだろう。
彼は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

怜一郎

25歳の誕生日までに、俺が結婚しなければ九条グループはほかのやつの手に渡る。九条グループの傘下にある3つの会社のどれかが頂点に立つ

あん

あなたの25歳の誕生日って…

あたしは知っていた。大森さんと下川さんが教えてくれていたのだ。

怜一郎

…あぁ、明日だ

その時、彼の寂しそうな笑顔を見て、もしかしたらこの人にはほかにちゃんと結婚したい人がいたのではないかな、と思った。

怜一郎

どうせ結婚するなら、頭がよくて、からかいがいがあって、――そしてなにより、弱みを持っている女がいいと思った。その方が退屈しないし、あとで脅迫されることもない。

あん

それが、あたしだったってわけね

自分で言うのもなんだが、頭は良い方だ。
近所で有名な進学校で、学年10位以内に入り奨学金をもらうくらいには。

そして、九条さんはたしかにあたしをからかって楽しんでいた。
男の人にあまり免疫のないあたしの反応は、さぞかしおもしろかっただろう。



きわめつけは3000万もの借金。


…完璧だ。

怜一郎

ここに婚姻届がある

彼が懐から取り出した一枚の紙。
まぎれもなく婚姻届だ。

あたしは慌てた。

あん

ちょっと待って、あたし、契約を受けるなんて一言も…

怜一郎

…おまえは、もうちょっと賢いと思っていたんだが

そう言って、彼はあたしの腕をとった。
そのままぐい、と引っ張られる。


バランスが崩れて、ベッドに倒れこんだ。
あたしは息を呑む。


彼は表情を浮かべないまま、あたしの上に覆いかぶさってきた。


それから、酷薄な笑みを浮かべる。

怜一郎

俺と結婚さえすれば、今の生活から抜け出せるんだぞ。こんなにいい話が他にあるか?

彼の微笑みは、まるで最初からあたしの出す答えを知っているかのようだった。

あん

…ないわ

怜一郎

そうだな

彼のすらりとした手が、あたしの髪を優しく撫でる。

怜一郎

おまえに、拒否権なんかねぇんだよ

彼のすっとした切れ長の目が、だんだん近づいてくる。


あたしは静かに目をつむった。


唇に、やわらかくてあたたかい感触。
熱くやさしいくちづけに、あたしの頭はぼぅっとなった。
 

間もなく日付が変わる。
九条さんの25歳の誕生日。
 

もう、あたしはきっと彼から逃れられない。
 

そんな予感を感じながら、あたしは意識を手放した。
 


静かな眠り。
…何日ぶりだろう。
 

誰かが、眠るあたしの髪を、やさしく撫でていた…。



はじまりはひとつの嘘。



その時のあたしは、彼のついたとんでもない嘘に、気づくことさえできなかった。

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