九条さんから逃れるようにして仕事に戻ると、あたしは大森さんと下田さんのふたりにひとしきりからかわれた。それから仕事を終え家に帰ると、いつもどおり2時近かった。




あん

ただいま

という小さなあたしの声に、返事はない。

これもいつも通り。
だが、ひとつだけ違うことがあった。


小さな台の上に、いつもはあるはずの夜食がなかった。
 

なによりもまず心配になって、あたしはふたりで寝るのに使っている部屋を開けた。


具合でも悪いのだろうか。
部屋の明かりをつけて、あたしは息を呑んだ。
 

部屋に、いつもなら敷かれているはずの布団がない。
それなのにお母さんは横になっていた。


…いや、倒れていた。


お母さんの横にひっくり返った洗濯かごがあって、洗濯物が散らかっていた――…。






――過労だ、と言われた。
このまま無理をさせるのは良くないと。
 

確かに、こうなるのではないかという不安はあった。

母は、今までこんな苦労をしたことなんてなかったし、もともと体が丈夫な人ではなかったからだ。


それでも、会うときはいつも笑顔だったから、油断していたのだ。
 

お母さんは眠ったままで、あたしも一緒に一晩病院で過ごした。


疲れがたまっていたのかいつの間にか眠っていて、起きたのは昼過ぎだった。


お母さんはすでに起きていて、

あんママ

ごめんね

と言われてしまった。


起きてもなにをする気にもなれなくて、学校もバイトにもいかず、あたしはお母さんに付き添っていた。


日が暮れて、やっとあたしはお母さんの病室を後にした。



でも、あたしは家には帰らなかった。
 

あたしが向かったのは、夜の街。


あたしはその日から、クラブで働くことにした。
清掃業より、いくらか儲かる。


そしてそれが終わったら…
 


このままでは病院代も払えない。



あたしには、お金が必要だったのだ。






その頃、九条グループ本社では。

小森さん

それが…あんちゃん、この仕事辞めたみたいなの

怜一郎

…辞めた?

 九条怜一郎が、零川あんの退職の話を聞いて驚いていた。

怜一郎

どうして…

と怪訝そうにつぶやいた時、彼のケータイが鳴る。


慌てて出た後、彼は眉をしかめて、すぐに走ってビルを出て行ってしまった。
 


残されたふたりの清掃員は、目を合わせた後楽しそうににっこりと笑った。

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