◇三章 禁じられた初恋(1)
◇三章 禁じられた初恋(1)
リーゼロッテ、これを着なさい
そう言ってディーダーが裾の長い紫の外套を差し出してきたのは、まだ陽の沈まない午後の時間だった。
眠りから目覚めたばかりのリーゼロッテは、何故こんな時間にディーダーが部屋にいるのか分からずキョトンとする。いつもならばまだ公務の時間のはずなのに、と。
不思議に思いながらも外套を受けとり、ゼルマに手伝ってもらって身支度を整え、その上に外套を羽織った。
外套は大きく、小柄なリーゼロッテのくるぶしから手の先まですっぽり包んでしまう。しかもフードまでついていて、それを目深に被ると顔の半分が隠れてしまった。
動き難い……
足払いも悪く視界も不安なものを着させられ、思わず不満の声が零れる。
けれどディーダーはまるでコートハンガーのようになっているリーゼロッテを見て満足そうに頷いた。
うん、これなら肌も隠れるし顔も見えない。バッチリですね
そう言ってリーゼロッテの頭からフードだけ下ろしてあげると、楽しそうな笑みを浮かべ彼女に視線を合わせた。
リーゼロッテ、今日はこれからあなたを街につれていってあげます。ちょっと動き難いですが、これを着ていれば日光が肌に当たらないし眼も影になって守られるから安心ですよ
私を、街に……!?
ディーダーの言葉に、リーゼロッテは目を丸くした。
日光に弱い彼女は長時間外には出られない。だから活動時間は夜に限られていたし、ましてや昼間の街になんて行けるはずがなかった。
けれど、この宮殿につれてこられるとき馬車から少しだけ見えた街に、リーゼロッテは憧れを募らせていた。人が大勢いて皆楽しそうで、見たこともない店が建ち並ぶ光景。
夜でもいいから行ってみたいとディーダーにお願いしたことはあったけれど、夜間の街を女の子が出歩くのは危険だとして却下されてしまっていた。
それがまさか、昼間の街につれていってもらえるだなんて、とリーゼロッテは嬉しさのあまり瞳をキラキラと輝かせて喜んだ。
ところが、彼女の耳にもっと嬉しい言葉が届く。
それも、ただ遊びにいくだけじゃありません。フォルカーさまとご内密のデートです
フォルカーさまと!?
あまりの驚きに身を乗り出して瞳を真ん丸くする少女に、ディーダーは思わず笑ってしまいそうになりながら話を続ける。
フォルカーさまは最近政務がお忙しくお疲れなんですよ。そこで今日は数時間ほど休みをとって息抜きをしていただく予定です。
リーゼロッテ、あなたの役目はフォルカーさまと楽しい時間を過ごしお疲れを癒してあげること。とても重要な役割ですよ。出来ますか?
わざと大げさに言ってみせれば、リーゼロッテはポカンとしていた表情を真面目に引きしめ、力強く頷いて見せた。
はい。私、フォルカーさまのお役に立ちたいです。あの方が心からくつろげるように、誠心誠意お供させて頂きます
うん、うん。いい心構えですね。では参りましょう。先に馬車に乗って殿下を待ちますよ
リーゼロッテの返事に満足して、ディーダーは自分も外套を羽織ると早速部屋から出ていった。
内密のデートとはいっても皇太子を無防備に外に出す訳にはいかない。
ディーダーはじめ、護衛の兵も装備の上に大きめの外套を羽織り、近衛兵だと市民に気付かれぬよう同行する。
そして同じようにフードのついた外套で顔を隠したフォルカーが、ディーダーとリーゼロッテの待つ馬車へと乗り込んできた。
フォルカーさま……!
いつも夜空の下で会っていたので、陽の光の下で見るフォルカーはなんだかいつもよりさらに煌めいて見える。
リーゼロッテは馬車の中なので中腰になって挨拶をすると、正面の椅子に座ったフォルカーを思わずうっとりと眺めた。
すまないな、リーゼロッテ。急に付き合わせてしまって。日光は大丈夫か? 身体が辛くなったらすぐに言え
ご心配ありがとうございます。でも、この外套のおかげで大丈夫です。肌をみんな隠してくれますから
大きな布地にすっぽりと包まれてしまっているリーゼロッテを見て、フォルカーは口もとに手を当ててクスクスと笑った。
まるで父親の服を悪戯で着ている幼児みたいで愛らしい。
そうか。お前の顔がよく見えないのは残念だけど、一緒に出かけられるのなら贅沢も言えないな。かわりに今日は沢山の場所に遊びにいこう。市場で買い物をして、港で船も見せてやる
わあ! 私、港を見てみたかったんです! 海って大きいのでしょう?
ああ、海も船もとても大きい。きっと驚くぞ
楽しそうに会話を弾ませるリーゼロッテとフォルカーを眺めて、ディーダーは今日のデートを提案をした自分を心底褒めてやりたいと悦に入った。
最近面倒な政務が立て込んでいるフォルカーにとって、この休息は必ず癒しになるだろう。
我ながら君主思いですねえ。褒章ものですよ
そんな、三者三様の思いを乗せて、馬車は午後の晴れ空の下をゆったりと進んでいった。
皇都に隣接する港町につくと、フォルカー一向は馬車を降り歩いて市場へと向かった。
ここは船での貿易が国内で最もさかんな街で、商業的な賑わいはもちろんのことながら、異国の服飾や音楽、娯楽など目新しいものに貪欲な洒落者や若者が多く集まることでも有名な華やぎの街でもある。
街道は流行の服装を纏った男女で溢れ、道化師が不思議な楽器を鳴らして人を集めている。外来国の異人も多く、ターバンやクーフィーヤ姿の者も見られた。
……すごい……
初めて見る街の賑わいに、リーゼロッテは衝撃のあまり声も出てこない。宮殿にも人は多くいたが、ここは桁外れだ。夜空の星よりたくさんの人がいるのではないかと思える。
そしてその誰もが好き好きな格好をしており、思い思いの行動を取っていた。揃いも揃ってジュストコールを着て厳しい顔をしている宮殿の役人たちとはまるで違う。
それは堅苦しい宮殿で毎日を過ごすフォルカーにとっても、自由で心くつろぐ光景に映った。
ここはいつ来ても活気に溢れているな。リーゼロッテ、人が多いからはぐれないよう気をつけろ
初めて見るものばかりで目をあちこちに泳がせているリーゼロッテを振り返り、フォルカーは声をかける。
それに気付いたリーゼロッテは慌ててフォルカーに足並みをそろえるが、変わった格好の人間や風変わりな看板を見るたびについつい足を止めてしまった。
フォルカーさま。あの方、お洋服に絵が描いてあります。不思議、どうやって描いたのかしら
あれは東洋の木綿でアンディエンヌというものだ。木彫りの版を押して染色するらしい
ねえねえフォルカーさま! 見てください、道端で音楽を奏でてる! なんて楽しい音色……
あれはリュートだな。弦を指で弾いて音を出すんだ
わあ、人が集まってきた。みんなダンスを踊って……。いいなあ、私も一緒に踊りたい
好奇心に目を輝かせっぱなしのリーゼロッテに、少し離れた後方からついてきていたディーダーが苦笑して咎めに入る。
こらこら。リーゼロッテ、気持ちは分かりますがあなたがはしゃいでどうするんですか。あなたはフォルカーさまに楽しい時間を過ごして頂くために同行しているのですよ
ご、ごめんなさい。そうでしたわ……
すっかり自分の役割を忘れてしまっていたリーゼロッテは、慌てて背筋を伸ばしピョコンと頭を下げる。
けれどフォルカーは片手を向けて宥めると、
気にするな。お前がはしゃいでる姿を見るのはなかなか楽しい
と、顔を綻ばせた。
あそこを曲がると市場のある路地だ。たくさんの店が出ているぞ、存分に目移りするといい。欲しい物があれば買ってやろう
優しいフォルカーの言葉に、リーゼロッテは頬を紅潮させ満面の笑みを向けると
ありがとうございます!
と礼を述べて、弾む足取りで彼の隣に並んだ。
市場通りにはさまざまな屋台が建ち並び、入ってきたばかりの野菜や果物から異国の料理に菓子、装飾品に香水、はては薬や漢方の類まで売っている。
目がチカチカするほどのカラフルさに、菓子の甘い匂いやスパイスの辛い匂いが混じった不思議な空気、聞きなれない異国の言葉まで飛び交っていて、リーゼロッテにとってここはまるで不思議の国だ。
そこの旅の方! 東洋のお菓子はどうだい? 美味しくて腹が膨れるよ!
活気ある売り子に声をかけられ、フォルカーとリーゼロッテは揃って足を停めた。
見れば浅黒い肌をした中年の男が、黄金色をした菓子を皿に並べて売っている。
ジャレビーか、揚げたてで美味そうだな。ひとつもらおうか
フードで顔を隠しながらフォルカーは男から菓子をひとつ買うと、それを手で分けリーゼロッテに半分渡した。
まるで縄を丸めたような不思議な形の菓子を受け取り、リーゼロッテはそれをマジマジと眺めた。手触りは柔らかく、上質なパンのようにも感じる。
フォルカーが面白そうに見つめる中、リーゼロッテはおそるおそるそれを口にしたが……、
っ!?
初めて味わう東洋のスパイスの香りに、驚きのあまり目を真ん丸くしてしまった。
ははは、あちらのスパイスは独特だからな。最初は戸惑うが慣れてくるとこのエキゾチックな香りがクセになる
そう笑ってフォルカーもパクリと菓子を口にして「うん、美味い」と満足そうに述べる。
はあ……市場とはすごいのですね。こんな香りの食べ物があるなんて、夢にも思いませんでした
よほど衝撃だったのか未だに目をパチパチしばたかせるリーゼロッテを見て、フォルカーは可笑しそうにクスクスと笑った。それに気付きリーゼロッテは頬を赤らめながら拗ねた顔をする。
わ、笑わないでください。だって本当に驚いたんだもの……
ちょっぴりいじけてしまった少女の姿が可愛くて、フォルカーはますます目もとを緩ませるとフードの上からそっと彼女の頭を撫でた。
その優しい手が嬉しくて、けれどなんだか恥ずかしくて、リーゼロッテはモジモジと顔を俯かせる。
そんなふたりの姿は中睦まじい恋人にしか見えず、身分を隠した皇太子と類稀なる美貌の少女だとは、誰ひとりとして気付くことはなかった。
【つづく】