◇第二章 秘密の逢瀬(3)
◇第二章 秘密の逢瀬(3)
リーゼロッテとフォルカーが月下の逢瀬をするようになってから1週間が経った。
ふたりは毎晩身を寄せ合ってダンスを舞い、互いを知ろうと沢山の言葉を交わし合う。
リーゼロッテは自分だけが知っていた夜の秘密をたくさんフォルカーに教えた。
夜にしか鳴かない鳥や虫がいること、その音色がとても美しいこと。
流星がよく見える季節は決まっていて、日数と方角を計算すれば必ず沢山の流星が眺められること。
そして、滅多に見られないが夜には白い虹がかかることも。
自分の知らない世界を知っているリーゼロッテのことを、フォルカーはますます神秘的に思い、惹かれていった。
フォルカーさま、お月さまの捕まえ方を知ってます?
ある日、そんな不思議なことを聞いてきたリーゼロッテに、フォルカーは見当もつかないとばかりに夜空を見上げてから首を傾げる。
すると彼女は噴水の水を両手で掬い、その小さな水面に映る月を見せながら、
ほうら、捕まえた
と悪戯に微笑んだ。
まるで子供のように無邪気なリーゼロッテに、フォルカーはクスクスと肩を竦めて笑ったあと、額にそっと口付けた。
リーゼロッテ。俺は誰かと居てこんなに楽しいと思ったことはない。どうかこれからもずっと、俺の……友達でいて欲しい
フォルカーの瞳は情熱に煌めいて、頬も紅潮している。
真摯な口調で、けれど甘やかな声で言われてしまい、リーゼロッテの胸は早鐘を打った。
私も、フォルカーさまと居るときが一番楽しいです。これからもずっと仲良くしてください
彼の想いに応えるようにリーゼロッテも言葉を紡ぐ。
けれど、ダンスをして、会話をして、それだけでは寂しいと無意識に胸の奥が痛んだ。心の底で誰かが『もっと、もっと』と何かに餓えている。
もっと……私はフォルカーさまに何を望んでいるのかしら?
己の内から湧き上がる欲求が何かも分からないリーゼロッテは、彼の友達でいられることを幸せだと思う。
けれど、同じように胸の内に抑え切れない欲求を抱え、それが何かを自覚しているフォルカーにとっては、自分の発した『友達』という言葉が苦しくてたまらなかった。
この時代、皇族や王族は公妾という妻以外の愛人を公に囲う制度があった。国同士の政略結婚が当然だった時代、皇帝や王は身分を問わず本当に愛しい女性にその立場を与え、公に愛を育んだ。
それはどこの国にもある制度で、決して恥じる文化ではなかったのだが、生真面目なフォルカーはこれを良しとは思わなかった。
公の制度とはいえ所詮は不貞であるという蔑みと、娼婦のように性を武器に王の寵愛を受けようという女の卑しさがフォルカーには許せなかったのだ。
けれど。リーゼロッテと出会い生まれて初めての恋を知ってしまった彼は、そんな自分の信念に悩まされる。
彼女を愛したい。この先ずっと、何十年だって
もし自分が皇太子などではなくただの貴族や平民だったのなら、リーゼロッテに求婚すれば済む話だ。
けれどフォルカーの立場でそれは許されない。彼はすでに国益のための結婚が決まっているのだから。
だとしたら、リーゼロッテを手元に置いておく方法はひとつしかないのだが――。
……いや、やはり彼女を公妾などにしたくはない。純粋な彼女をそんな汚らわしい立場におくだなんて、許せない
何度も自問しては首を横に振る。
自由恋愛など出来る立場ではない以上、フォルカーはリーゼロッテに愛を囁き唇を重ねることは出来ないのだった。
ある朝食の席でのこと。
代々、家族全員で朝食をとる習慣のあるコルネリウス家は、皇帝も皇后も皇子たちも揃って食卓に着くが、フォルカーはこの時間があまり好きではなかった。
……またか
斜め向かいの席に座る義母、バルバラ皇后の姿をチラリと見やり、フォルカーはそっと眉根を寄せる。
朝食の席だというのにバルバラは夜会のように髪を盛り、そこに金と宝石で出来た髪飾りをたっぷりと飾っていた。
過剰に胸が開いたドレスの胸元にも、見たことのないデザインの首飾りが下品なほどピカピカと光っている。おそらく東洋の商人辺りから買い付けたものだろう。
バルバラは貪欲な女だった。
元は小国の公爵令嬢だったのだが、前皇后が亡くなるとあらゆる手を使って皇帝に近付き、女の武器と狡猾さで皇后の座を射止めたのだ。
皇后になってからもその欲は増すばかりで、彼女は常に人の上に立たないと気が済まなかった。
舞踏会では異国から買い付けたドレスと宝石で身を飾り、誰よりも派手に美しく装って賞賛を浴びなければ満足しない。
そのために使う金は惜しみなく、コルネリウス家の財政にあきらかな影響を及ぼした。
たびたびサロンを開いては新しい宝石商人を呼び客に贅を見せつける義母に、フォルカーは危機感を抱くようになった。
国の税金で好き勝手をするバルバラを野放しにしておいては、いつか国民から不満の声があがると。
父帝にバルバラを諌めるように苦言を呈したこともあったけれど、彼女を愛する温厚なディードリヒはそれを杞憂だと笑うだけだった。
バルバラは私と共に国のこともよく考えてくれている。大丈夫だ。それに、着飾るのは女の嗜み。可愛いものじゃないか
大らかなのか呑気なのか。フォルカーと違い、バルバラの行為に脅威を感じていないディードリヒは妻を咎めることはしなかった。
けれどフォルカーはやはり安心することは出来ず、業突張りで自分の欲のために国を省みない義母のことを軽蔑し、警戒するようになる。
そしてもうひとつ。義母のことでフォルカーが気分を曇らせていることがある。それは婚約者であるロマアール王国のアレクサンドラ姫のことだ。
どういう訳かバルバラとアレクサンドラは仲が良い。
互いのサロンに何度も招待しあっているし、そもそも、この婚約をすすめてきたのも元はバルバラだったのだ。
バルバラと気が合うだけあって、アレクサンドラもまた欲の強い女だ。
自分より美しい女を嫌い、宮廷を追いやられた侍女や夫人は数知れない。
美容と服飾に多大な金を掛け、それが財政を圧迫すると、他国の領地を奪えと父王に戦争を提言したという噂まである。
バルバラのことだけでも頭が痛いのに、アレクサンドラと結婚したらこの悩みがさらに倍に増えるのかと思うと、フォルカーはウンザリとした気分になった。
けれど、国益になるこの結婚には両国とも祝福ムードであり、フォルカーは皇太子としてアレクサンドラを妻にする選択しかないのであった。
憂鬱そうな顔ですねえ
午前の政務を終え自室で休憩をとっているフォルカーに、ディーダーが声をかけてきた。
午前の謁見で、ロマアールとの交易路に勝手に関所が設けられ通行費を取られたと商会からの訴えがあった。まったく、どうなっているんだ。我が国と婚約をし友好を結んだからといって、好き勝手が過ぎるんじゃないのか、あの国は
フォルカーは大きな溜息を吐き出し鬱陶しそうに片手で髪をかきあげる。
やはりあのアレクサンドラの母国といったところか。フォルカーとの婚約を機に、どうも態度が横柄になったような気がする。
すでに何度か起きているロマアールの一方的な横行に、フォルカーは果たしてこの婚約が本当に国益になるのかと疑問を抱くようになってきた。
それはそれは、気の重くなる話ですねえ
空になっていたフォルカーのティーカップに新しい紅茶を注ぎながら、ディーダーは同情の相槌を打つ。そして。
そんな憂鬱な気分の時こそ、可愛い女性に癒してもらわなくてはね。今日は早めに仕事を切り上げてリーゼロッテと晩餐を共にしては如何です?
飄々とそんな意見を口にして、フォルカーの目を真ん丸くさせた。
お前っ……! どうして……
リーゼロッテとの逢瀬はゼルマ以外知らないはずだった。
特にこの面倒な側近には気付かれぬよう注意し、逢瀬の時間は必ず公務を与えて動けなくしていたというのに。
あれ~? 僕が気付いてないとでも思ってました? これでも人の変化には鋭いんです
リーゼロッテが教えた覚えのない歌を口ずさんでるなーとか、見たことのない本が彼女の机に増えてるなーとか。そうそう、僕のいない間に誰かさんがくれたお菓子を食べ過ぎて、晩ご飯が食べられないなんてこともあったっけ
ディーダーがつらつらと語るのを聞いて、フォルカーは頭を抱え項垂れた。この狡猾で鋭い側近を、甘く見ていたと反省する。
最近僕だけ妙~に残業が多かったですしね。まあ、その時間帯に誰かさんが邪魔されたくないことをしてるんだなーってことぐらい察しがつきますよ。ね、フォルカーさま
分かった分かった。お前に黙っていたのは悪かったよ。けれど下衆な勘繰りをするな。俺は彼女とダンスを踊って会話をしていただけだ
おやまあ、そうなんですか?
とぼけた声を出すけれど、そんなこともディーダーはお見通しだ。リーゼロッテが破瓜を迎えたならば、近くに居る自分が気付かぬはずはないと。
そして、散々公妾や寵姫を否定してきたフォルカーが、そう易々とリーゼロッテを抱いたりしないことも分かっていた。
けれど、引き合わせてから十日も経たないうちに人目を忍んで逢瀬するほどの進展を見せたことに、ディーダーはひとまず満足する。
リーゼロッテは……良い友達だ。それ以上でもそれ以下でもない
気持ちを見透かされるのが癪で、ディーダーはぶっきらぼうにそう言うとテーブルの上にあった書類を手にとり、無理矢理話を中断させようとした。
何にせよ、フォルカーさまの憩いになれば幸いです。そのために僕は彼女を紹介したのですから。これからも仲良くしてあげてください
ニコニコと嬉しそうな顔をする側近の笑顔は、素直そうでもあり何やら企んでそうでもある。
結局はこの男の思惑どおりなのかと思うとフォルカーはなんとも苦々しい気持ちになったが、あの愛しい少女に引き合わせてくれた功績だけは認めざるを得ない。
そして、繰り返しディーダーが言っていた“愛しい女性の存在が癒しになる”ということも。
……良き友人を紹介してくれたことだけは礼を言う
ぶっきらぼうながらも礼を述べれば、ディーダーは
いえいえ、感謝には及びません
とだけ穏やかに応えて、テーブルの空いたカップを片付けた。
ふうわりと部屋に残る紅茶の香りはリーゼロッテに贈ったものと同じで、フォルカーはその馨香を感じながら、疲弊していた自分の神経が癒され安らいでいくのを感じた。
【つづく】