はぁ……、はぁ。

 レディアヴェール王国内、西端の地……。
 朧気に揺らぐ視界の中、胸元を押さえながら森の中を歩いていた男は、ぐらりと古木の側に膝を着いた。

主様……、上手く撒けたようにございます。

……そう、か。じゃあ、少しは、こほっ、ぐっ。

 古木の根元に腰を下ろし、その年老いた幹に背を預けた男は、自身の眷属たる妖の頭を弱々しい手つきで撫でてやった。
 確かに、周囲の気配に注意を向けなおしてみても、追手や害となる者が近づいてくる様子はない。
 ふぅ、と息を吐き、男は冴えわたる月の姿を見上げる。……どんなに手を伸ばしても届かない、優しい光。まるで、『彼女』の穏やかな笑顔を見ているような、そんな気になる、天上の宝玉。
 もう二度と、この腕に抱く事は出来ない……、遠い世界の、愛しき巫女。

困ったものだな……。せっかく、ゆっくり眠れると、そう……、安心していたのに。

主様……、もう、あの場所は使えません。やはり、……『あの御方』にお願い申し上げた方が。

……。

 長年共に寄り添っている眷属からの再度の提案に、男は困ったように首を振った。
 確かな手ではあるが、……合わせられる顔など、ない。この手で犯した罪は拭い切れぬ程に多く、永遠に血塗れたまま。
 都合の良い時だけあてにするなど、愚かとしか言いようがない。
 だから、男はその『希望』を胸の奥から消し去る。
 これは自分の問題だ……。迷惑はかけられない。
 自嘲の意を込めてその双眸を細めると、男は自分の胸元に手を添えた。
 どんなに時が経っても、『彼女』の想いがそこに生き続けているかのように、淡く光り続ける水色の石。これは、昔……、彼が初めて心から愛した少女が贈ってくれた物だ。
 瞼を瞑れば、懐かしい日々が切ない胸の締め付けと共に蘇ってくる。
 幸せにしたかった……。一緒に生きたかった。
 全てを失い、見知らぬ世界に放り出されたどうしようもない自分を、心の底から愛してくれた少女と。

すまない……、すま……、ないっ。

主様……。

 頬を伝う涙を、その小さな舌で掬い取ってくれる眷属の小さな身体を抱き締め、男は泣いた。
 初めて得られた幸せと、初めて失った幸せ。
 もう二度と、……どんなに願おうと、男がそれを手に入れる事は出来ない。
 もう、二度と……、永遠に。

撫子

ふぅ……。朝のお仕事終わりっと。そろそろお師匠様の所に戻ろうかなぁ。お昼も近いし。

 ほんの少し、肩の荷が下りたような気がしたあの日から二週間。
 撫子は相変わらずフェインリーヴの弟子としての多忙な毎日を過ごしている。
 

撫子

お師匠様も今日は珍しく朝一番からお仕事頑張ってるし、少し早めに席をとれるはず。

 いつもは昼まで寝ている事が多いフェインリーヴも、きっと今日は上機嫌で大食堂の席に座れる事だろう。それが終わったら、今度は午後からの薬草採取に同行する約束をしているし、うん、今日は本当に充実した一日になりそうだ。
 そんな風に、撫子が満たされた思いで王宮内の回廊を急いでいると……。

撫子ちゃ~ん!!

撫子

ん?

 自分を呼ぶ年若い男性の声と、後ろから聞こえてくる駆け足の音。
 振り向いてみると、以前に何度か言葉を交わした事のある騎士団員の姿が近づいてきた。
 

撫子

え~と、確か……、ロルスさん、ですよね? どうしたんですか?

うん!! 覚えててくれて嬉しいなぁ。あ、実はね、君の事を探してたんだ。

撫子

私を、ですか?

 薬学術師の弟子である自分にどんな用があるのかは読めないが、撫子は首を傾げながら騎士団員の言葉の続きを待ってみた。
 もしかしたら、騎士団長のレオトからフェインリーヴへの伝言か何かを届けに来てくれたのかもしれない。
 しかし……、愛想の良さそうな顔をした騎士団員ロルスは、何故か恥ずかしそうに撫子を見下ろしてくる。

あの、ね……。もしよかったら、なんだけど、次のお休みの日に、あの……、その、い、一緒に、どこかに行かない?

撫子

……はい?

セルノの町、あぁ、王都から結構離れてるんだけど、その町で面白いイベントがあるんだ。夕方までには帰れるし、どうかなぁ?

 ……大量の疑問符が、撫子の頭の中から溢れそうになっている。
 次の休み? 一緒に、セルノの町に? ……何故?
 普通の少女であればすぐに呑み込めるお誘いの言葉だが、そういう経験が皆無の撫子は暫し思考の行き先を失ってしまう。

撫子

騎士団の皆さんとの遠出に、私も一緒に誘ってくださっている、という事、でしょうか?

え? あぁ、違う違う!! 完全にプライベートのお誘いだよ!! 俺と、撫子ちゃんの二人!! 馬も手配するし、食事も全部俺が奢るからさ。一緒に行かない?

撫子

……。

 男性からの逢引きのお誘いなんて初めて受けた。
 奇妙な感動を覚えながら、撫子は言葉を失う。
 癒義の巫女としての立場に在った撫子は、恋物語の類に興味はあっても、それを自分自身の現実の事として味わう事は皆無だった。
 その後遺症だろうか?
 ロルスからの誘いには初めての感動を覚えたが、ただ、それだけだ。
 年頃の少女が抱くようなときめきは、何故か湧いてこない。

何か予定があったりする?

撫子

いえ……。とくには、ないんです、けど。

 ロルスと出かけたいかと問われれば、あまり興味はない、が簡単な答えだ。
 大体、撫子はロルスの事をよく知らない。
 名前と顔が一致する程度の知り合い手前レベル。
 そんな人と遠出なんて、乗り気になるはずもない。

撫子

お気持ちは嬉しいんですけど、お師匠様のお許しがないと外には行けないんです。すみません。

大丈夫だよ!! 騎士の俺がいれば何も問題なんかないし!!

 何が、どう安心できるのか、説明してほしい。
 たとえ国に忠誠を誓っている騎士からの発言だとしても、彼をよく知らない撫子にとっては何の安心も得られない。
 それに、自分の保護者を自負しているフェインリーヴは、撫子が危険な目に遭わないようにと、その行動を一部制限しているのだ。
 もし、撫子がロルスに興味があったとしても、勝手な行動は許されない。
 だから、撫子はもう一度言葉を重ねる。
 

撫子

本当に駄目なんですっ。それに、私と一緒に行っても楽しめる保証なんてないですよ? ね? だから、他の女性を。

本当に、駄目……? 俺、前から撫子ちゃんの事ずっと見てて、真面目で一生懸命なところに惹かれてて……。もっと知りたいな、って、そう思ってたんだ。

撫子

えっと……。それは、どうも、ありがとう、ございます。

撫子ちゃんの事も知りたいし、俺の事も知ってほしい。だから、一緒に一日を過ごしたいなって、そう思ってて……。ねぇ、駄目かな? 絶対変な事なんかしないしっ、王宮にも無事に送り届けるからっ。

撫子

あ、あのっ、ち、近いですっ!!

 逃がしたくない。そんな鬼気迫る思いを押し付けられてくるかのように、撫子はロルスに距離を詰められる。左腕を掴まれ、顔を寄せられ……、もう一度誘いの言葉をかけられてしまう。

撫子ちゃん……。

撫子

うぅっ、は、放してくださいっ!!

 積極性が間違った方向に突き進んでいるロルスから逃れようと身を捩るが、流石は騎士というべきか。
 どうすれば動きを抑え込めるのか熟知されている。
 撫子がロルスに興味がなくとも、逆は違う。
 ロルスは、撫子を自分が意識する特定の女性だと感じているらしく、熱っぽい眼差しで見つめながら耳元へと唇を寄せてくる。

撫子

嫌だ……、嫌だ……、気持ち悪い!!

 妖や魔物に対しては容赦なく気丈に振る舞えるというのに、何故か……、全身が寒気に襲われて動けない。自分を求めてくるロルスが怖くて、涙が出そうな程に身体が震えてしまう。
 誰か、誰か、助けて……。

撫子

――お師匠様!!

 ふっと、熱い息を耳に吹きかけられた撫子は、本気で絶叫しそうな心地でフェインリーヴの事を思い浮かべた。この異世界で自分を救い上げてくれた人、撫子が、この見知らぬ世界で唯一頼れる、心からの信頼を覚える、あの人を。

フェインリーヴ

おい……、そこまでにしておけよ。クソガキ。

撫子

え?

げっ!!

 今まさに、撫子が心の中で必死に助けを求めたお師匠様の姿が、振り向いた彼女の目に映った。
 曲がり角の陰からゆっくりと撫子の後ろに歩み寄ってきたフェインリーヴの全身からは、不機嫌一色の怒気が黒いオーラとなって漂っている。
 その鋭い眼差しは騎士団員ロルスを射抜いており、自分の弟子たる撫子をその背に庇ってくれた。

フェインリーヴ

生憎と、撫子は俺の所有物も同じでな。誘いをかけるなら、まずは師匠の俺に許可を求めたらどうだ?

し、師匠だからって、弟子をそこまで束縛する権利なんかっ。

フェインリーヴ

ある。撫子の保護者は俺だからな。その身が心置きなくこの地で過ごせるように、一から十まで口を出せる権利が。

うぅっ……。

 今にも喰い殺しにかかってきそうな気配のフェインリーヴに、ロルスは怯えた子犬のように後ずさる。
 けれど、騎士たる者が薬学術師などに引けをとってなるものかと踏ん張り、撫子を前に出せと迫った。

俺は、撫子ちゃんをデートに誘ってるだけだ!! 別に危険な事なんかなにひとつないし、いいじゃないか!!

フェインリーヴ

どこがだ……? セルノの町は、一日で往復できるような距離じゃない。それを、夕方までには帰れるなどと……、よくそんな嘘を吐けたものだな?

ぐっ……!! そ、それはっ。

 一体どこから話を聞いていたのか……。
 ロルスは痛いところを突かれた顔で怯むと、やがてその肩を落としながら回廊の向こうに消えて行った。
 ふぅ、と息を吐いたフェインリーヴが、撫子の方に気難しそうな顔をして振り返ってくる。

フェインリーヴ

大丈夫か?

撫子

は、はい……っ。ありがとうございました、お師匠様。

 ただ誘いをかけられただけなのに、距離を詰められ、その存在を押し付けられた事が、堪らなく怖かった……。
 自分の肩に手を置いてくるフェインリーヴの姿に心からの安堵を覚え、撫子はほんの少しの涙を湛えて、その心配げな顔を見返す。
 

フェインリーヴ

……怖かったな。

撫子

うぅっ……、お、お師匠様っ。わ、私……、あ、ああいうの、は、初めて、でっ。

フェインリーヴ

何も言わなくていい……。一度、研究室に戻ろう。温かい茶を淹れてやる。

撫子

で、でも……、昼食の時間が。

フェインリーヴ

構わん。あとで適当に城下で外食でもしてくればいい話だ。

 そっと撫子の華奢な身体を怖がらせないように包み込んだフェインリーヴが、よしよしと頭を撫でてくる。ロルスに感じていた悪感や寒気を一切感じない、優しい温もり。
 絶対に自分を傷つけない存在だと、そうわかっているから、撫子はその広い胸に顔を埋める事が出来る。
 この感情を……、依存、と、言うのかもしれない。
 見知らぬ異世界で自分を助けてくれたフェインリーヴは、唯一縋れる相手。
 この人なしには、安心してこの世界で生きる事は出来ない。
 その感情を、依存、と呼ぶのかもしれないと思いつつも、撫子は心の片隅で……、無意識に、違う、とも感じていた。

撫子

お師匠様、お師匠様……っ。

フェインリーヴ

ほら、行くぞ。

撫子

はい……。

 親鳥を求める雛、そう頭で理解しているのに、撫子の心には、徐々に何か別の感情が生まれているような気がして仕方がない。
 撫子自身にもわからないその感情は、同時にとても怖くも感じられて……。
 それが形になった時、何かが壊れてしまう。
 撫子は、フェインリーヴに頭を撫でられながら、そう、予感していた……。

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