「まもなく、兵庫、兵庫でーす。お出口は左側でーす…」

 水曜の朝。近づいてくる山をドアの窓から眺めていると、誰かに肩をつつかれた。
 振り向くと、ほっぺたに誰かの人差し指が刺さる。

深雪ちゃん

おはよー

深雪ちゃんだった。

ウチ

…こんなん、今時オヤジしかやらへんで

深雪ちゃん

ウチの母もようしてくるで

ウチ

……………

 まもなく着いた駅で降りて、人の流れに乗って改札を出て、学校までの道を歩く。

ウチ

深雪ちゃん。おとつい教えてくれた『うたプリ』のオンリー、あれコスプレ禁止やねんな

深雪ちゃん

あ、そうなん

ウチ

せっかく聖川のコス新調するチャンスや思たのにー

深雪ちゃん

あれ?学園長ちゃうん?意外ー

ウチ

…わざと言うてへんか?

 深雪ちゃんと、こんな話をしてる場合じゃないのは分かってる。
 でも大事なことを聞く勇気は今はないから、今日もまた、その場しのぎにアホな話をする。
 それに今日は、マーケティングの授業が午後にある。そこでもう一度深雪ちゃんと顔を合わせられるし、一緒に帰る約束だってできる。
 けど、じゃあ授業の合間や帰り道で大事なことを聞けるかっていうと、今はそんな気もしてこない。
 でも、会ったら何も話さないわけにいかないから、また場つなぎにアホな話をして盛り上がって、その場しのぎを繰り返すんだろうな。
 もちろん、深雪ちゃんの気持ちを聞きたいとは強く強く思ってるけど…。

 …長かった午前中と昼休みが終わって、五・六時間目になった。
 教室に行くと違う先生がいて、来た人にプリントを配っている。

和田ちゃん

今日、自習やでー!

 先に来てた和田ちゃんがうれしそうに言う。
 そうだ。先生、今日から出張や言うてたっけ…ウチも席に着いてプリントに目を通す。

『課題:「新しい自販機」というテーマで、アイデアをまとめること。ブレーンストーミングを必ず行い、その他アイデアをまとめる過程を誰かのノートに残すこと。なお今日は四人班での作業とする 以上』

ウチ

四人班か…

 たいていは二人班といって、決められた二人組で授業を受ける。ウチの相手は深雪ちゃんで、自分たちで課題に取り組むのが授業内容の大半だから、深雪ちゃんとゆっくり話ができると思った。でも今日は四人班だ。赤の他人二人を入れて話し合いをしなきゃいけなかった。
 そんなわけで授業中にあんまり話はできなかったけど、一緒に帰る約束だけはできた。

 放課後。ホームルームが済むと深雪ちゃんが廊下で待っていた。
 階段を一階まで降りて生徒玄関を出て、一緒に道を歩くウチらだったけど…。

ウチ

でな深雪ちゃん、その個人誌のエレンが本物よりかっこええんよー

深雪ちゃん

エレンって『東方』の?…どっちかって言うとかわいくない?

ウチ

古すぎるわ!なんで知ってんねん!

 また、ウチの方からアホな話を始めちゃっていた。

 そのまま駅のそばまで来た。電車に乗っちゃったら残り時間はいくらもなくなる。
 場所をあらためようという気分も働いて、深雪ちゃんをお好み焼き屋さんに誘った。

 …でも、話の内容はあらたまらなかった。

深雪ちゃん

ごちそうさまー!…でも、ええのホンマに?

ウチ

うん…

 外はすっかり夕方。ただ単に時計の針が一時間半進んで、財布の千円札が一枚減っただけだった。

ウチ

……………

 一体、何してんねんウチ…勇気が出なくて、その場しのぎを繰り返してばかりの自分が、だんだん情けなくなってきた。歩くたんびに気持ちが沈んでって、深雪ちゃんの話に応える口が重たくなっていく…。

深雪ちゃん

…どしたん?黙っちゃって

 改札を通り抜けたとこで深雪ちゃんに言われた。
 あ、何か言わなきゃ……場つなぎでいいから、言わなきゃ言わなきゃ………
 その時、プツリと、ウチの中で糸みたいな何かが切れた。気がついたら口が動いてた。

ウチ

ウチ………今度の入試、ちゃんと受けられへん気がする。受けたらあかん、って思てる………

深雪ちゃん

はぁ?

 言っちゃった…。
 でも、もう止まらない。息が苦しいけど、口は話の続きを必死に吐き出そうとする。

ウチ

深雪ちゃん……ウチ………

 ひとりでに足が止まって、なんでだか分かんないけど涙がボロボロ流れ出てきた。

ウチ

……ウチだけあんな入試受けて、受かって、ええのかな……あかんよなあ………

深雪ちゃん

ど、どうしたんよマリちゃん?!泣かないでってば!

 夕方の駅の通路の真ん中だから、左右を何人もの人が通り抜けていく。ウチの背中をさすってた深雪ちゃんは、何かを思いついたみたいにウチの手を引っ張って駆け出した。下りホームへ上がるのかと思ったら、階段をよけて、左脇の通路に入る。

 人通りが消えて、まわりの空気が静かになった。
 くすんだ色の壁。短い階段を登ってから左に曲がると、人気のない改札口があった。

深雪ちゃん

ほら、タッチして

 言われるままパスケースをかざして改札機を通る。右に曲がって、細い通路を少し走ってから、深雪ちゃんが止まる。

深雪ちゃん

ここやったら、好きなだけ泣いてええで。限度はあるけどな

ウチ

……………

 誰一人いない、薄暗いホーム。青一色に塗られた見慣れない電車が止まってるけど、その電車の中にも誰もいない…。
 こんな静かな場所がこの駅の中に、ていうかこんな街中にあったんだ。

 涙は止まってた。続きの言葉を探し始めたところで、深雪ちゃんがヒョイと電車に乗り込む。

深雪ちゃん

ウチ、ちょっと遅なった時にな、時々この電車に寄り道するんや。遊園地の乗り物みたいで面白いで

 手招きされるまま、ウチも電車に乗る。二段式の窓、扇風機…レトロな車内には、やっぱり人影が一つもなかった。前や後ろの車内にも人は見えない。深雪ちゃんが座った隣に、ウチも座る。
 深雪ちゃんが薄笑みを浮かべて、でも、しっかりとウチの顔を見てきた。

深雪ちゃん

なあマリちゃん。なんで入試受けられへんなんて言うん?

ウチ

……深雪ちゃんのことが……気になって仕方ないから

深雪ちゃん

は?

 深雪ちゃんは驚いてから、考え込むみたいにして眉を曲げた。
 そっか。今の台詞だけじゃ遠回しな愛の告白みたいに思われかねない。

ウチ

深雪ちゃん…お嬢や和田ちゃんやウチがサッサと簡単に進路決めてくん、見ててどんな気持ちがする?

深雪ちゃん

気持ち、って…

ウチ

ねえ、どんな気持ち?

深雪ちゃん

…あのな、何を答えたらええか分からへんで。もうちょい丁寧に話してくれへん?

ウチ

うーん………

 そこでプシュッと音がして、ドアがガラガラと閉まった。鈍い空気の音が聞こえてから、ガクン、という揺れ。
 ウチらだけが乗った電車が、ゆっくりと動き出す。
 いつもの電車より揺れるけど、揺れは心地がいい。

ウチ

…深雪ちゃんは、受験勉強、二月ぐらいまでずーっと頑張らなあかんやろ

深雪ちゃん

まあな

 電車はそこでもう、スピードを上げるのをやめてしまった。のろのろ走りながら、右に、左に揺れる。

ウチ

でも和田ちゃんは指定校推薦で決めて、お嬢は決まったようなもんで、それでウチもまだ十月なのにAO受けて決めちゃおうとしてる。
深雪ちゃんだけ一人で勉強や。しかもどこ目指すか決まってへんのやろ?

深雪ちゃん

うん

ウチ

目標もないのに勉強だけ続けなあかん深雪ちゃんがおる。受かるかどうかも分からへん。なのにウチは簡単な試験受けて受かって、部活や研究会楽しんで…
…ウチは、そんなことしてええんやろか。深雪ちゃんをどんな気持ちにさせるやろか…ずーっとそう思てて、せやから今ウチ、入試受けるんがしんどいんや

 キキッ、キキィー…という音をさせて、電車がカーブを曲がり始めた。

ウチ

なあ。深雪ちゃんは、どんな気持ちでウチの受験を見てるん?…しんどくない?悲しくない?

深雪ちゃん

……………

 深雪ちゃんは黙って前を向き直った。顔が少しだけウチと反対側に傾いてて、表情が見えない。
 間近に迫る古びた家やビルの壁が、そこに書かれた文字が読めるぐらいにゆっくり流れていく。電車っていうと、もっと速いか止まってるかのどっちかで、こんなスピードで景色が流れていく眺めは新鮮だった。

深雪ちゃん

ふふっ、あははは………

 急に深雪ちゃんの体がヒクヒク震えて、小さな笑い声が聞こえ出した。

深雪ちゃん

あはっ、あはははは!あはははははっ!

 笑い声が大きくなったと思ったら、深雪ちゃんは体をのけぞらせて大笑いをし始めた。ダタン、トトン、タタッ…という電車の進む音が、大きな笑い声にかき消される。
 やがてその笑いをこらえながら、深雪ちゃんの顔がウチの方を向いた。

深雪ちゃん

ふふっ。マリちゃんたら…ずーっとそんな心配、しててくれてたんやー…

 笑いをこらえる顔を普通の笑顔に戻すと、深雪ちゃんはウチの右手を静かに握ってきた。

深雪ちゃん

うれしい。うれしいけどな………ウチ、大丈夫やで

ウチ

…ホンマに?

深雪ちゃん

うん。だって、マリちゃんは行くとこ決まってるし、ウチは決まってへんのやもん

ウチ

…ホンマに、ホンマに大丈夫なん?

深雪ちゃん

大丈夫や言うてるやんか。せやからマリちゃんは変なこと気にせんで、今度の入試、頑張ってや!

ウチ

………うん

深雪ちゃん

それよりほら、不思議な電車やろ。マリちゃんも楽しんでって

 深雪ちゃんが前を向き直って、ウチも向かい側の窓を見た。
 カーブを過ぎた電車はいくらかスピードを上げてたけど、それでもトタンや鉄やコンクリートの壁が、電車とは思えない遅さでのんびりと過ぎていく。夕方なのに他に誰もいない車内。そしてこの、ついウトウトしちゃいそうな心地のいい揺れ。

ウチ

でも………

 深雪ちゃんは笑顔で大丈夫って言ってくれた。今の笑顔を信じていいのかもしれない。
 けど、その前の長い沈黙と、異様な大笑い…。
 本音で大丈夫って言うだけだったら、あんなことしなくていい。
 ああすることで深雪ちゃんは、自分の感情を無理やり抑え込んだんじゃないのかな…。
 なんか一言足りないって思ったら、彼女は大丈夫って言っただけで、何とも思ってないとは言ってない。
 橋を渡る音と一緒に川が見えた。空が薄暗い。水に茜色の弱々しい日差しが映ってる。ずっと両側が建物だったから、もう日が落ちかかってるのに気づかなかった。

ウチ

深雪ちゃん

 電車が少しずつスピードを落とすのを感じながら、ウチは彼女の横顔におそるおそる声をかけた。

深雪ちゃん

ん?

ウチ

なあ、ホンマに気にせんでええん?

 景色に目を細めたまま、深雪ちゃんは黙っていた。

ウチ

ホンマは、悲しかったりとか、淋しかったりとか…してるんちゃう?

 いきなり、深雪ちゃんがガバッと席を立った。

深雪ちゃん

しつこいで!何とも思ってへん言うてるやんか!そんなにウチのこと疑って何が楽しいんや!

 ものすごい顔して大声で怒鳴ると、深雪ちゃんは背中を向けてウチから離れていった。

ウチ

怒らせちゃった…

 本当は、怒らせた自分や傷ついた彼女のことを反省しなきゃいけなかった。
 でも、こんな深雪ちゃんを見るのは初めてだったから、ウチは怒ってる深雪ちゃんをビクビクしながら見てるしかできなかった。

深雪ちゃん

終点。降りるで

 背中を向けたまま、ドアの前に立つ深雪ちゃんがウチに言った。電車はいつ止まってもおかしくないようなスピードになってて、立ってドアに向かうと、会社帰りみたいな人たちが並んでるのが見えてきた。

 深雪ちゃんの後について電車を降りる。入れ替わりに並んでた人たちが乗り込んでいく。
 線路が一本あるだけの、屋根もないホーム。ホームの外に見える下町めいた道には人通りが全くない。並んでた人たちはどっから来たんだろう…。

深雪ちゃん

帰るで

 ホームを少し歩いたと思ったら、また電車に乗り込む。座席は全部埋まっていた。深雪ちゃんはドアと座席の間の狭い空間に立って、ウチに背中を向けた。
 ドアが閉まって、電車がもと来た方へ動き出す。

ウチ

…ゴメンな。まだ怒ってる?

 おそるおそる声をかけたけど、返事がない。

ウチ

困ったなぁ…

 背中を見ながらそう思ううちに、困ってるのは自分だけで、相手は傷ついてることに思いが及んだ。ウチの「ゴメンな」も、自分が彼女と気まずい関係でいたくないから言っただけだった。

ウチ

…疑っちゃったりして、ゴメン。
ウチ、信じるから。深雪ちゃんの言うこと信じるって、約束するから

 今度は深雪ちゃんに向けて、目一杯の反省をこめて謝った。

深雪ちゃん

…うん。
なら、もう怒ってへんよ

 声が聞こえて、深雪ちゃんが振り向いた。
 照れくさそうな顔でニコッと笑って、握手するみたいにして温かい手をつないでくる。

深雪ちゃん

せやから入試、頑張るんやで

ウチ

…うん

 けど返事とは裏腹に、ウチはまだ深雪ちゃんの気持ちを疑ってた。
 沈黙や大笑いも、ムキになって怒ったことも、今の『頑張るんやで』も、やっぱり、本音を隠したり振り払ったりするためなんじゃないか…って思えてしょうがないウチがいた。
 でも、それでもウチは、疑う気持ちを押し殺そうと頑張った。
 手をつないだまま、いつしかウチらは暗くなった窓の外を見ていた。

ウチ

……………

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