◇一章 皇太子さま、公妾はいかがですか?



























モンデグリー帝国は軍事力・経済力共に富んだ大国だ。





豊かな鉱脈と豊饒な大地を持ち、海岸線を有していることから船での交易も盛んに行われている。



財源が豊富にあることから税金も安く、代々皇帝の座を務めるコルネリウス家は国民からの支持も厚かった。



現皇帝のディードリヒ・ヨーゼフ・ヴォルフ・フォン・コルネリウスもまた温厚な人柄でありながら軍事にも長けた人間で、モンデグリー帝国は着実に領土を広げ周辺国を圧巻させていた。





ディードリヒ皇帝にはふたりの息子がいた。




ひとりはフォルカー・エドゥアルド・ディードリヒ・フォン・コルネリウス。


26歳の皇太子で第一皇位継承権を持つ未来の皇帝だ。父帝に似た温厚な性格でありながら非常に理知的な戦略家であり、彼が皇帝に即位したら帝国はますますの発展を遂げるだろうとさえ噂された。



蜜色の髪と端整な顔を持ち非常に女性からの人気が高かったが、変に生真面目で頑固なところがあり、あまり女性を寄せ付けないことでも有名だった。





もうひとりの息子アドルフは12歳になる第二皇位後継者だ。


フォルカーと大きく歳が離れているのは、彼がディードリヒ皇帝と後妻の間に出来た息子だからである。


フォルカーは20年前に亡くなった前皇后の息子であり、アドルフは皇帝と再婚した現皇后の息子である。つまりふたりは腹違いの兄弟なのだ。



フォルカーは属国のひとつであるロマアール王国のアレクサンドラ姫と婚約しており、今年結婚式を挙げる予定だ。



いわゆる政略結婚なのであるが、国民は国のますますの発展を喜び、特に帝都は活気に満ち溢れていた。













そんな街のようすを、リーゼロッテは馬車の窓からポカンと口を開けて眺めていた。






夜も随分と更けてきたけれど、酒場の建ち並ぶ街道はまだ充分に賑わっている。



仕事を終えた職人や商人が気分良く街を歩き、宿の前で娼婦が手招きするのを横目に、ディーダーとリーゼロッテの乗った馬車が走り過ぎていく。







リーゼロッテ

人が……いっぱいいる。夜なのに……

ディーダー

街へ来るのも、こんなに大勢の人間を見るのも初めてですか?





驚愕に目を瞠りっぱなしのリーゼロッテに温かい笑みを浮かべてディーダーが尋ねると、彼女は必死になってコクコクと頷いた。




馬車の中で少し話をしてみたが、リーゼロッテはみっつにもならないうちに地下へ幽閉されたらしい。



当然社交界のマナーどころかまともな教育すら受けていないし、外に出されないので常識も欠落していた。



ただ、せめてもの哀れみで兄姉の読み古した絵本だけは暇つぶしにと与えられたそうで、文字の読み書きは多少出来るようだった。





ディーダー

これからあなたは毎日初めての経験をすることになりますよ。驚きと喜びに満ちた体験で、私があなたの17年間を取り戻してあげますからね




ディーダーの言うことは抽象的でリーゼロッテにはいまいち理解出来ない。



けれど彼はとても優しい笑みを浮かべるので、きっと良いことを自分に与えてくれるのだろうとリーゼロッテは思った。
















馬車が宮殿についてからも、リーゼロッテは驚きの連続だった。




こんな大きな建物があるだなんて、彼女は夢にも思わなかったのだから。


果たして、満月の晩にいつも通っていた水車小屋が何百個、いや、何千個入るだろうか。想像もつかない。







中へ入れば入ったで宮殿の豪華さに圧倒される。


まるで月が落ちてきたかのような明るくて大きなシャンデリアが幾つも連なり、壁は規則正しい大穴と柱が遠くの方まで続いている。


途方もなく大きいのに壁にも柱にも信じられないぐらい繊細な彫刻が施されていて、リーゼロッテはもう意味が分からなかった。



あまりの衝撃に口をパクパクさせながらディーダーに腕を引かれ、ずんずんと宮殿の奥へと連れていかれる。


生活部分である宮廷まで進み入り、とある部屋へと案内された。







ディーダー

とりあえず僕はフォルカー殿下に帰ったことを報告に行かなくちゃならないので、リーゼロッテは先に湯浴みをしていなさい





部屋はディーダーの執務室兼リビングで、樫で出来た重厚な執務机や本棚、それに応接用の長椅子やテーブルなどが並んでいる。



ディーダーは外套と帽子を取りジュストコールに着替え身なりを整えると、幾枚かの書類や封筒を持って部屋から出ていってしまった。







残されたリーゼロッテがただ立ち尽くしていると、すぐに扉をノックする音が聞こえた。



どうしていいか分からずキョロキョロしていると、扉が開かれ赤毛の女性が入ってくる。そばかすを散らした二十歳過ぎぐらいの女はリーゼロッテに挨拶をすると、

ゼルマ

侍女のゼルマです。ディーダーさまから湯浴みのお手伝いをするよう言われました



と名乗りをあげた。

そしてキョトンとしているリーゼロッテを上から下までしっかりと見ると、両手を顔の横で組み恍惚とした表情を浮かべる。


ゼルマ

まあ、まあ、まあ、なんてお綺麗なの……!? まるで雪のニンフ、いいえ、月の女神だわ!




ひとしきりリーゼロッテの美貌にうっとりと感心をすると、ゼルマは気合を入れ、

ゼルマ

これは美しく仕立て上げなければディーダーさまに叱られてしまうわね、腕が鳴るわ


そう言ってさっそく隣接されているバスルームで湯浴みの準備を整えた。








ゼルマのなすがままになったリーゼロッテはみすぼらしい服を脱がされると、清潔な湯で身体を拭かれて、香油で髪をマッサージされ、歯をミョウバンとハッカのついた布で磨かれた。


そしてますます艶を持った髪に櫛を丹念に入れられると、リーゼロッテのプラチナブロンドは光の滝のような眩さになった。

小柄なリーゼロッテの体型に合うローブを緊急に用意するのは難しかったが、それでもディーダーは侍女に探させ愛らしい衣服を部屋に届けさせた。




ゼルマ

まあ、なんて細い腰なんでしょう。コルセットの必要がないぐらいだわ




華奢過ぎるリーゼロッテの腰はゼルマひとりでも余裕でコルセットをしめつけられるほどの細さだ。ただし胸のボリュームが足りなさ過ぎるので、パットを無理矢理詰めていく。


絹で出来た淡い水色のローブは縁に幾重ものレースが飾られたデザインで、リーゼロッテの少女らしさを際立てた。


髪型もそれに合わせ横だけを編みこみ後ろ髪を垂らした少女らしいもので、華美になり過ぎない程度に造花の髪飾りが飾られる。



そうして仕上げに光沢の入った紅を唇に塗られ、リーゼロッテは素朴な少女から宮廷に相応しい淑女へと変身した。


ゼルマ

んまあ、なんて綺麗で可愛らしいのかしら! このまま舞踏会へ行ったらきっと殿方の視線を独り占めですわ




リーゼロッテは鏡に映った自分を不思議そうに眺めると、はにかむように笑って言った。


リーゼロッテ

こんな立派なお洋服を着たのは初めて……嬉しいな




その愛らしい笑顔を見て、ゼルマも自分の仕事ぶりに心から満足したのであった。




















一方、ディーダーは主であるフォルカー皇太子の執務室へ、帰廷したことの報告に訪れていた。







フォルカー

遅いと思ったら馬が故障していたのか。ご苦労だったな




広大な執務室の壁は、繊細な浮き彫りの装飾と金色のアカンサス柄の壁紙が覆う。


クリスタルとゴールドで出来たシャンデリアが高い天井から吊るされ、壁に飾られたコルネリウス家の紋章と勝利を司る神話を描いたタピスリーが、モンデグリー帝国の繁栄を表していた。


帝国随一の職人が作った執務机はマホガニーで出来ており、縁飾りや取っ手には細やかな金細工があしらわれている。




その重厚で豪奢な机の前に座り、フォルカー皇太子は落ち着いた笑みを浮かべて部下に労いの言葉をかけた。


机上のオイルランプに照らされた黄金色の髪が、夕日に照らされた麦畑のようにキラキラと光っている。


明るい髪色に負けない清廉で整った顔立ちは人を惹きつける美を有していて、けれども長い睫毛をふっと伏せれば大人の男らしい色気も感じさせた。


ディーダーはそんな主の顔を見つめやけにニコニコとしている。


それに気付いたフォルカーが怪訝そうに眉をひそめ、

フォルカー

……なんだ、さっきからニヤニヤと。気持ち悪いな



と呟けば、ディーダーは嬉しそうに口もとを綻ばせて言った。

ディーダー

いやあ、我が君主ディーダー皇太子殿下はお美しいなあと改めて思いましてね。やはり美丈夫の隣には美女に並んで欲しいものですねえ

フォルカー

……また何か企んでるのか、お前は

ディーダー

んふふ~。分かります?


隠そうともしないディーダーの企みに、フォルカーは呆れて溜息を吐く。





この側近はフォルカーが少年の頃から教育係、及び身の回りの世話を務めている。フォルカーの一番の侍従であり、彼が戴冠した際には間違いなく宰相になるとさえ言われている男だ。


いわば皇太子の右腕でもあり絶対的信頼の置ける部下でもあるが、フォルカーにとってはある意味一番手に負えない『永遠の教育係』的存在でもある。





ディーダーがフォルカーに教えたのは政や戦術学だけではない、社交界に於ける紳士的な振る舞い方はもちろん、レディの口説き方から夜伽の楽しみ方まで。


あまりに余計なことまで丹念に教え過ぎたせいで、フォルカーはすっかりとその手の話題にはウンザリするようになってしまった。





ディーダーとしては責務に負われる主の癒しや楽しみになればと、せっせと綺麗どころを宛がおうとするのだが、それがますますフォルカーを潔癖にさせる。


おかげで舞踏会では何人もの女性にダンスを申し込まれるフォルカーだが、寝床に連れ込んだことは一度もないほどだった。



そんな理由から、フォルカーは部下がニヤつく理由がどうせまた女のことだろうと容易く想像がついた。


フォルカー

お前の企みなんかお見通しだ。どうせ新しい綺麗どころでも見つけてきたと言うんだろう? 何度も言うが俺は公妾も寵姫も持つつもりはない。いい加減あきらめろ

ディーダー

あらら~分かっちゃいましたか。さすが殿下、察しが早い。けれどね、今度のお嬢さんは今までとは違いますよ。絶対陛下も気に入るはずです




しつこく食い下がってくるディーダーをフォルカーは一睨みすると

フォルカー

しつこい!


と一括した。



フォルカー

そもそも俺は妻意外の女を愛することなんかしたくないんだ。生涯閨を共にするのは妻だけで充分だろう




けれどディーダーはフォルカーの言葉を聞いてニヤニヤした笑顔を引っ込めると、今度は意味ありげに悩ましい顔をする。


ディーダー

妻……ロマアール王国のアレクサンドラ王女殿下、ですか。いやはや、あの姫君も美しいは美しいんですけどねえ。どーも夫を支えるタイプじゃないっていうか、癒し系じゃないっていうか

フォルカー

何が言いたい



フォルカーはさっきとは違った真剣な眼差しでディーダーを睨む。




フォルカーはうすうす気付いていた。ディーダーが公妾を持たせたがっているのは単なる下世話だけではなく何か思惑があることに。


けれどディーダーは再び口角を上げニッコリと笑うと、

ディーダー

まあ、とにかく楽しみにしていてください。近々とびっきりの公妾候補をご紹介しますから


と言って、自信満々に胸を叩いた。











【つづく】













◇一章 皇太子さま、公妾はいかがですか?(1)

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