◇序章 月下の娘


























その夜は、空に見事な満月がぽっかりと浮かんでいた。



おかげで空は明るく夜道を照らしてくれたが、延々と広がる畑に囲まれた農道で立ち往生している馬車にとっては、それもささやかな救いでしかなかった。



車が無事だったのはいいが、馬はもう駄目ですね。完全に脚をやられている


苦しそうに嘶く馬を見て、男は嘆きの溜息を吐く。



彼は仕立てのいい丈の短い外套を片方の肩に羽織り、宝石の飾られた剣を腰から下げるなど身分の高い格好をしていた。



理知的に見える面立ちはそれなりに風格も窺えるが老けてはおらず、歳は三十を越えるか超えないかといったところだ。

モンデグリー帝国第一皇太子側近・侍従次長。それがこの男、ディーダー・フォン・グレーデンの肩書きだった。





主の使いで帝都から山を越えた町へ行った帰り、不運にして馬車の馬が一頭故障してしまった。



それも辺りはほとんど家のない農地の真ん中でだ。せっかくの整った眉目に皺を寄せるのも仕方ないと言えよう。


すみません、ディーダーさま。連日の雨で思っていた以上に道が荒れていたようで……

馬車を繰っていた御者は予想外の事故にオロオロと辺りを見回す。馬はもう一頭いるが、宮廷人が乗る豪奢な馬車は二頭立てでなければとても引けない。




御者がほとほと困り果ててしまったときだった。
ふと水車小屋の近くに、人影らしきものが揺れるのを見つけた。


助かった! 人がいましたよ! おおーい!



御者は畑の隅にある小さな水車小屋に向かって呼びかけ走っていく。

ディーダー

こんな時間に水車小屋に人……? 幽霊じゃないでしょうね



怪訝に思いながらもディーダーもその後をついていった。









小屋は小さくところどころ壁が朽ち落ちていたが、機能はしているようだった。小屋の中には穀物の入った袋が積まれ、籾殻が床に散らかっている。

けれどそこに人の姿はなかった。





あれ? いない? 確かに誰かいたんだけどなあ

小首を傾げて中を窺う御者を置いてディーダーは外に出ると、小屋の外をぐるりと歩いてみた。



すると。






……月の妖精はみなもで踊る♪それを真似して犬がドボン♪




小川の水の音に混じって楽しそうな歌声がどこからか聞こえてきた。


注意深く足音を潜め近付いてみると、水車の隣にせり出しているテラス部分に誰かが腰掛け、爪先で水を掬って遊んでいる。



その後姿を見つけ、ディーダーは一瞬ヒヤリと背筋が冷たくなった。


月明かりに照らされた後姿ははかないほどかぼそく小柄な女性のものだった。それも腰まで伸びた髪は月光のように白銀色をしている。



あまりに幻想的なその姿に、ディーダーはまさか本物の幽霊ではないかと思ったのだ。



反射的に剣の柄に手をかけてしまったけれど、

ネズミもチゥチゥ、真似してドボン♪ お月さまはひとりぼっち♪




さっきと同じ楽しそうな歌声が聞こえてきて、ホッと柄から手を離した。



そして改めて気を取り直すと小さく咳払いをし、努めて温和な声で話しかけた。




ディーダー

もし、そこのお嬢さん。私は旅の途中で馬を失くして困っている者です。良かったら助けて頂けませんか?






ディーダーの気配に全く気付いてなかったのだろう、後姿の少女はビクリと大きく肩を跳ねさせた。



そしておそるおそる振り返り、スカートの裾を握りしめて怯えたように立ち上がる。







正面を向き全身を眼前に曝した少女を見て、ディーダーは驚きに目を瞠った。



今度は幽霊だからじゃない、まるで――おとぎばなしに出てくるニンフのように少女が美しかったからだ。


透けるように白い肌と月光色に煌めく髪、瞳は宝石のように輝く琥珀で、その眩さは一瞬でディーダーを虜にした。


あどけない表情は無垢そのもので、彼女の存在自体が『純白』と言えよう。




纏っている服は飾り気もなくみすぼらしかったが、それがむしろ少女の清廉さを引き立たせた。



ディーダー

こんな美しい少女は我が国でも外国でも見たことがない……



衝撃のあまり立ち尽くしてしまったディーダーを見て、少女は戸惑いながら口を開いた。


少女

た……旅の人、ですか? ええと、う、馬ならうちに行けばありますが……





鈴が鳴るような声で話しかけられ、ディーダーはハッと我に返る。そして彼女が幽霊でもニンフでもなく、どうやら近隣に住む農家の娘だと察した。



ディーダー

それは助かる。礼は弾みますので、是非一頭譲って頂きたい




ディーダーが柔らかに微笑むと、少女も警戒心を解いたのか小さく微笑んでコクリと頷く。



そしてディーダーの横をすり抜けて農道へと出ると、

少女

こっち


と小川の上流を指差してから歩き始めた。




 





御者を連れてディーダーが少女の後を追い半マイルほど歩くと、一軒の屋敷が見えてきた。



そこそこ立派な建物で敷地内に大きな馬小屋があるところを見ると、どうやらこの辺りを収めている領主のようだ。




そのまま正門から敷地へ入っていくのかと思ったら少女は壁伝いに裏門へと周り、まるで人目を盗むかのように身を潜めながら中へと入っていった。



それを見てディーダーと御者は、まさか少女が赤の他人の家から馬を盗もうとしてるのではあるまいな、と警戒した目配せをし合う。


ところが、少女は裏口を小さくノックするとディーダーたちに「ちょっと待ってて」と言い残し、屋敷内へと入っていった。



そして数分後、屋敷の下男らしき青年が顔をしかめて少女と共に出てきた。


下男

馬を売って欲しいって? 駄目だよ、うちの馬は降ろし先がみんな決まってるんだ




どうやら頼みをすんなり受け容れてくれた少女とは違って、家人は急な頼みを歓迎していないようだ。


ディーダーは仕方なくポケットから懐中時計を取り出すと、銀の蓋に刻まれた紋章を見せて身分を明かす。


ディーダー

私はモンデグリー帝国従事次長、ディーダー・フォン・グレーデンです。皇太子殿下の御用により早急に宮殿へ帰らねばなりません。どうか協力して頂けませんか


ディーダーの正体を知った下男は顔色を変え何度も頭を下げてから屋敷の奥へと走っていった。



すぐさま家の主が迎え出て平身低頭して無礼を詫び、屋敷の中へとディーダーたちを招き入れる。



けれどもそんなようすを、少女だけは不思議そうに眺めていた。





話は簡単についた。


ディーダーは健康そうな馬を一頭、通常より高値で領主から買うことにした。きっと先客があっただろうに、とつぜん横取りしてしまった詫びのつもりだ。



屋敷の下男が馬を置いてきた馬車につなぎ持ってきてくれると言うので、その間ディーダーたちは領主の厚意でお茶をご馳走になることにした。



暖炉のついた部屋は暖かく、床に最近流行りの東洋製の絨毯など敷いてるところを見ると、宮廷とは比べ物にならないが平民よりはずいぶん良い暮らしをしているように見える。


ディーダー

さきほどのお嬢さんはこちらのご息女ではないのですか?




陶磁器のティーカップを持ちながら、ディーダーは領主に尋ねる。



てっきりこの家の娘だと思っていたが、裏口から入ったりみすぼらしい格好をしていることから、もしかしたら奉公に来ている娘なのかと思ったのだ。



けれど領主は顔をしかめ、いかにも嫌そうなようすで話し出した。


主人

みっともないものをお見せして申し訳ない。恥ずかしながらあれは忌み子でして。普段は地下に幽閉しているんですが、満月の晩だけ外に出ることを許しているんです

ディーダー

忌み子?

主人

ええ、役人さまも驚かれたでしょう? 髪も肌もまっしろ、おまけに目も奇妙な色をしていて……ああ、気味が悪い。あんな人間、見たことも聞いたこともありませんよ。きっと17年前に生まれてきたときに、お月さんの呪いでもかかっちまったんでしょうね

ディーダー

17年!?




領主の話に、ディーダーは耳を疑った。



ずっと地下に閉じ込められていたせいで成長が著しく遅れているのだろう、ディーダーの目に少女はまだ12、3歳に映っていたのだ。


ディーダー

17ならもう社交界に出して、結婚だって出来るじゃないですか

主人

とんでもない! あんな不気味なもん外に出そうものなら、我が家は呪われた家だってたちまち噂が立っちまいますよ!



肩を竦め大げさに首を振って見せる領主の言葉を聞き、ディーダーはひとつの決心を固めた。




ソファーから立ち上がると御者から金の入った袋を受け取り、それを丸ごとテーブルの上に置く。



目をしばたいて驚いている領主に向かって、ディーダーは居丈高な笑みを浮かべて言った。




ディーダー

それでは、あの娘は私が買いましょう。この金貨で足りなければ後日宮殿へ来てください。この倍でもお支払いしましょう。あの娘にはそれだけの価値がある

主人

えっ!? えええっ!?




とつぜんの出来事に領主はおののきながら、テーブルの上の重たい金貨袋とディーダーの顔を交互に見つめる。



ちょうどそのとき下男が馬車の用意が整ったことを告げに来たので、ディーダーはそのまま席を立った。









廊下に出ると、ディーダーたちのようすを気にしてたのか、少女が扉の脇に立っていた。



ディーダーは彼女に向かって優しく微笑むと、そっと手を差し伸べる。



ディーダー

さあ、行きましょう。あなたの主がお待ちですよ

少女

行く? どこへ? あるじって何?




まるで幼子のように素直に尋ねてくる少女に、ディーダーはクスリと笑いを零す。


ディーダー

モンデグリー帝国宮殿へ帰るのですよ。あなたは私の手で最高の淑女に育て上げ、未来の皇帝、フォルカー皇太子殿下の公妾になってもらいます




けれど、少女は言葉の意味が理解出来なかったようで、琥珀を閉じ込めた瞳を不思議そうに瞬かせるばかりだ。


ディーダー

大丈夫、不安なことはありませんよ。これからは新月の日も三日月の日も外に出られますし、太陽の光だって浴びることが出来ます

少女

本当?




ようやく嬉しそうに顔をほころばせた少女の手を取り、ディーダーは頷くと屋敷を後にした。


















少女を馬車に乗せる直前、ディーダーは肝心なことを思い出して尋ねる。


ディーダー

そういえばまだお名前を聞いてませんでしたね。窺ってもよろしいですか、レディ?

少女

リーゼロッテ。リーゼロッテ……ええと、クライスラー

ディーダー

リーゼロッテ。いいお名前ですね




名を褒められて嬉しかったのか、リーゼロッテは頬を染めて笑う。


少女

……うふふ、ありがとう





その笑顔は満月の光を浴び、まるで世界中の夜の輝きを独り占めしているかのように美しかった。








【つづく】

◇序章 月下の娘

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