6.ブラックジョーク
デリュージョン
6.ブラックジョーク
デリュージョン
妄想日記と、初への想い。
不可思議な二つの現象に悩む澄人へ、少女はふと、別の切り口を用意して見せた。
澄人さん。いきなりこんなこと言うのも変ですけど、今日は、家に来てもらってありがとうございます。
ベッドがややきしむ。
初は澄人と肩が触れ合う寸前のところに身を置き、赤いハート型のクッションをニット生地の袖で抱きながら口を開いた。
私、澄人さんみたいな人がタイプで、ずっとあなたのような人を探していました。格好よくて、優しくて――
って、こんなことは多くの女性に言われたことがありますよね。澄人さんみたいな方、女の子だったら放っておきませんから。中には、私と同じような感覚に陥る子も少なくないでしょう。
でも。
私、澄人さんに出会ったときは本当に驚いて、他の景色なんてどこかへ飛んでいってしまいそうだったんです。漠然とした〝好み〟なんていう話ではなく、巨大な円の中心を射抜くような……。
それこそ、
〝億分の一の確率に遭遇した〟
と思いました。
そこからはまるで雪崩です。山のふもとに澄人さんがいて、そこに私の心が引き寄せられていくような。おかげで、なにもない地面でつまづいちゃいました。
ああ、だからあのときに転んでしまったのか。まあ、俺もそれと似たような感覚がないでもないけどね。
出会った当初の女の子には必ず一種の抵抗を覚えるんだけど、なぜだか君に会ったときはそれがなかった。呆気ないくらいに、すんなりと受け入れることができたんだ。
澄人は初と同じく、くすぐったいことを聞かされたときに出てしまうはにかむような微笑を携え、丸テーブルの上にあるティーカップを手に取った。
まずは鼻腔をアールグレイの匂いが駆け巡り、それから紅茶を少しずつ口内へ含むと、体をほぐすような温かさが胸のあたりを中心に広がっていく。
気づけば、すぐにティーカップは空となってしまった。
美味しい紅茶だね。体の芯から温まる。
あ、ありがとうございます。
少女は照れながら小さく返事をすると、またおもむろに口を開いた。
さっきの話ですけど、その……澄人さんにも、あったんですよね? 私と同じような感覚が。
あ、いえっ、決して澄人さんのドストライクが私だと言いたいわけではないんですけど、澄人さんにも、どこかそういう私への好意みたいなものがあったらなあって。そんな風に、考えてしまうんです。
少女の思いは、とめどなく流れ出てくる。
そう、それはまるで塞ぎようのない濁流のようで、
こんなのはまったく都合のいい話だと、自分でも滑稽に思えます。でも、そんな野暮なことを訊こうとは思いません。たしかめようともしません。
今はただ、澄人さんにこの思いを伝えることだけが――
ちょっと待ってくれないか……初ちゃん。
ついに、初の言葉が遮られた。
す、すみません! 私、つい変なことを……。
澄人はまだ紅茶の余韻に浸っているかのごとく心地よさげな顔で彼女を制止したのだが、それでも初は自分の行いに気づいてはっとする。
さらにはなんだか怯え始め、と慌てふためき始めてしまった。
しかし、貴公子はそこにも待ったを一つ。
いいや、誤魔化さなくてもいいよ。君の伝えたいことを口に出すといい。ただ、焦って発音することでもないだろ? リラックスしながら言ってごらんよ。
早いな……けれど、なぜこんなにも違和感がないんだろう? たしかに、会ってすぐ告白してくる面食いや、誘惑しようとしてくる尻の軽い女の子は今までにも見たことがある。でも、初ちゃんはおそらくそうじゃないだろう。科人から聞いた事前情報と彼女の性格からして、身持ちは固い方だ。
なのに、なぜこんなにも早く、事が進む?
出くわした疑問に答えは見つからない。
初も同じ考えを持っているかどうかは不明だが、澄人は今現在までの経緯について、時が急速に進んだような認識を抱いていた。
一組の男女がつき合うまでの長い時間の積み重ねを、圧縮して享受したような感覚。
月並みに表せば、運命を感じたとでも言おうか。
すると少女は先日のファミレスでやったように二、三度だけ深呼吸をし、
取り乱してしまってすみません。準備……できました。
ハートのクッションを抱きしめたまま、澄人へ向き直る。
彼も一瞬だけ悩んだのち、初と対峙するようにして彼女と目線を交差。
少女がその言葉を紡ぐのに、さほど時間はかからなかった。
澄人さん。私たちはまだ、出会って数日しか経っていません。それは百も承知です。けれどもしこの機会を逃してしまったら、私はもう二度と、ここまで運命的な気持ちにはならないと思うんです。
つまりなにが言いたいのかというと。
好きです、澄人さん。
私と……つき合ってください。
それからしばらくの間、二人は一言も交わさなかった。
ただ、澄人は微笑を作り続け、初はそわそわしながら彼の返答を待っている。
澄人にしてみれば、このひとときは流れていく水のような心地よさで、初からすれば息の詰まるような悠久の間だ。
むろん、澄人の答えは決まっていた。
どれだけ運命だの惹かれあうだのと御託を並べても、やはりブレーキをかけるなにかが存在するのだ。
もはや強制の力はほとんど感じられない。
それはおそらく澄人が初に慣れてきているという証拠であり、彼女を愛おしく思い始めているということなのだろう。
さらに触れ合う時間を重ねれば、本当に初と恋人関係に至るかもしれない。
でも、現段階ではまださすがに――。
と、澄人がノーを出そうとしたそのとき。
彼の脳裏に、
一種の怖気が思い出したように蘇った。
〝この日に急激な進展はない〟
それは妄想日記における、本日の内容。
ここで告白を断れば、関係としては大きく変動することはない。
が、日記の予言はまたも当たってしまうことになる。
答えを保留としたときも同様だ。
どうする……!? い、いや、構わない。この抽象的な項目だけを取ってみれば、予想することは可能なはずだ。それに日記の内容が当たったとしても、俺はただ、今日を過ごすだけなんだから。
残りの項目が当たりそうになったら科人へ連絡しようと決め、澄人は生唾を飲み下す。
いまだ肩の力が抜けない初に向かって、
答えを出そうかと思ったんだけれど、もう少し待ってもらっていいかな? 今まで一人の女の子とあまり続いたことがないから、というのもあるんだけど、それよりも君のことを真剣に考えさせてほしいんだ。
つ、〝続いたことがない〟って、とっかえひっかえってことですか!? そ、そうですよね、澄人さんに言い寄ってくる女の子なんていっぱいいますもんね……でっ、でも、こんな私との交際を考えてくれるだけでも嬉しい限りです! いつまでも待ちますから、よいお返事をお願いしますね!
とっかえひっかえというか、つき合った経験がほとんどないだけなんだけど。今回だって、交際ということになったら科人が全力を出してくるだろうし……。
頭の痛いことを考えながらも、初に向かって否定の言葉はかけず。
期待してくれていいよ。
否定代わりのスマイルは、かろうじていつも通りに振る舞うことができた。
これで妄想日記の内容は現実とほぼ合致してしまったが、それで澄人がどうなるということはない。
念のために残り一つの項目を未達成のままにしておけば、彼女の日記がただの戯言だと割り切ることができる。
ところが、そんな澄人の安心はすぐに瓦解してしまうのであった。
彼の視界で、
不意に倒れ込んでくる影が一つ。
!? どうしたんだ、初ちゃんっ? 大丈夫か?
あ……はい、大丈夫です。自分の思いを伝えられたということにほっとして、力が抜けちゃっただけですから。
ふふ……澄人さんの体、あったかいです……。
気でも失ったかのように、上半身をかくっと前へ折った初。
反射的に動作した澄人がそれを受けとめ、奇しくも最初の出会いと同じように彼女を抱いた。
淡いシャンプーの香りが澄人の鼻腔を伝って脳内を満たし、柔らかい上肢が彼を愛おしそうにかき抱いて、ついに彼の唇は――。
初ちゃんの、耳元……!?
〝耳元にて、
淡く優しげな言葉をささやく〟
澄人は悟る。
もはや自分は、あの予言から逃れられはしないのだと。
このまま、引きはがすことのできない強大な力に身を任せるしかないのだと。
初ちゃん――
最後の抵抗。
澄人は彼女に優しくしないよう、貶すための言葉を用意してみる。
肺から空気を送り、気管を伝って喉元までせり上がってきた。
そして滅多に吐かないようなその台詞を――
言えない。
初ちゃん、本当に問題ない? まだ立ち直れないのなら、しばらくこうしていようか?
そう、ですね……澄人さんとこうしていられるのなら、力なんてずっと入らなくていいのかもしれません。許してもらえるのなら、今はただあなたの温度を、あなたの匂いを、あなたの心を、私の腕に、私だけの中に閉じ込めておきたいと願います。
初の顔が、匂いづけでもするかのごとく澄人の胸に押しつけられる。
同時に彼女の手は澄人の背中をまさぐり、次第に撫でまわすような動きとなって彼の背を這った。
ん……ふ……。
ふふ、澄人さん……。
澄人の存在をたしかめるように、初の白い両手が蠢いていく。
その動きは、瞬く間にエスカレートしていった。
撫でるだけだったのが、澄人の服をぎゅっと掴んだり、さらには引っ掻くような動作になって――
澄人さん。澄人さん、澄人さん……。
っ――!
耐え切れず、澄人は空いていた左手をズボンのポケットに押し込んで携帯を取り出した。
初の動きに気色悪さを感じたのではなく、彼女にのめり込んでいく自分が恐ろしかったのだ。
このままでは、初の家に泊まっていくなどと言い出す己が誕生しそうである。
科人、科人……!
知らず知らずのうちに科人の名前を呼んでしまっているのは、今や澄人を引き戻せるのが相棒しかいないからだろう。
初による侵食から逃れるため、澄人は彼女に気づかれぬよう片手で携帯を操作していく。
ところが、直後。
彼が捉えたのは希望の光ではなく、
地獄からの招待状であった。
〝灰塚 初ちゃんって、
清白 澄人君みたいな
王子様を妄想していたんだって〟
〝怖えよなあ。
しかも、
かなり澄人似の設定を作ってたんだろ?〟
〝澄人君は
なあんにも知らなかったのにねえ〟
これらはすべて、澄人の携帯画面を埋め尽くしていたショートメールである。
出所はBJN。
澄人の家族や友人であるはずの人物たちが、頃合いを見計らったかのごとく一斉にメールを送ってきていたのだ。
それも、きっちり一秒ずつずらして。
な、なんだ……俺は一体なにを見ているんだ……!?
〝初さんがアカウントを作ったのは
約半年前。
澄人のアカウントが作られる直前だった〟
〝澄人君のアカが勝手に作られると、
今度は突然に、
戸黒さんが現れたんだったね〟
〝しかもさー、
それって灰塚ちゃんが設定を
タイムラインに上げた直後なんだよねー〟
おい……おい! ふざけているのか、みんな……!?
澄人の元に次々と送られてくるメールの数々。
彼が信じた人、彼が助けた人、彼が愛した人――そのすべてが彼自身の栄光を打ち壊すかのごとく、手の平を返したように襲ってくる。
加え、澄人に向けたメールにもかかわらず、まるで彼が世界に存在しないかのごとくほったらかしにした会話内容。
誰も彼自身と話そうという意思がない。
訳がわからない、と考える余裕さえもなかった。
澄人は加速度のついた心臓の鼓動を妙にうるさく感じながら、必死で指を動かしていく。
が。
ない、ない。どこにも、なにもかもがない……!
澄人のアカウントは消滅しているも同然の惨状だった。
タイムラインは背景すら歪んでいるような文字化けを起こし、輝かしい笑顔を放っていたプロフィールの写真は真っ黒に塗りつぶされている。
年齢も血液型も自己紹介文も真っ黒。
しかも性質の悪いことに、自分の履歴欄にはある一文だけがくっきりと表示されていたのだ。
半年前――誕生、と。