芙美子と遭遇したあの夜から、一週間――。
千夜はまるで抜け殻のように、日々を過ごしていた。
カフェーには相変わらず、平穏な日々が流れている。
常連客との他愛無いやりとり、店内に満ちる珈琲や紅茶や洋食の匂い、慌しい厨房、窓から射し込む柔らかい秋の日差し――。そのどれもが以前と同じであることに、千夜は安堵していた。
 だが、そんな危うい均衡は、簡単に崩れてしまう。

千夜さん、窓際の席のお医者様が、千夜さんにお話があるそうよ

奥へ下がって片づけをしていた千夜に、同僚の給仕が耳を寄せ、囁く。慌てて店へ出ると、あの青年がたしかに窓際の席に座っていた。窓から射し込む日射しを受け、憂いのある表情でじっと前を見ている。

お待たせいたしました。私に何の御用でしょう

とりあえず、席に座ってくれ。私は三倉と言う。この店の常連客であることは、君も知っているだろう?一つ確認しておきたい。一週間前のあの夜、芙美子の後をつけてきたのは、君だね?

三倉青年は視線を上げ、まっすぐに千夜を見つめて言った。給仕はこうして客の席に座り接待をすることも珍しくない。千夜はしぶしぶ、三倉の向かいの席へと腰を下ろした。

おっしゃる通り、芙美子さんの後をつけていたのは私です。けれどそれは、芙美子さんが心配だからです。だって私は、誰よりも芙美子さんのことを大切に思っている、親友なのですから

君が芙美子を大切に思っていることは、あの夜の様子ですぐに分かったよ。だから今日、ここへ来た。芙美子から君へ、伝言がある。もうすぐ、この帝都は滅茶苦茶になる。その前に、君は僕たちと一緒にこの帝都を出よう。大丈夫、身の安全と生活の保障は僕たちの組織が請け負う。君が芙美子を大切に思うように、芙美子も君には生き延びてほしいと考えているんだ

 言い含めるように、三倉は言葉を続けた。
芙美子、と呼び捨てにしたことが二人の関係の特別さを予感させて、千夜の心はざわめく。

芙美子さんが、私と一緒に帝都を出る――?

でも――私には、今の生活が崩れてしまうことが、どうしても想像できないのです。それに、あなたたちの会合、どう考えても、怪しいわ。あんな会合に芙美子さんが通っていること自体が、私には許せないのです

三倉の顔色が、かすかに曇る。言葉が過ぎたことに気づいたが、後の祭りだ。

こんな言い方をして、気を悪くしたかしら

けれど三倉は、口元を緩め、ふっと微笑んだ。

それはあなたが、一つの見方に凝り固まっているからだよ。例えばね、このカフェーの名前にもなっている石榴。石榴は日本では不吉な木だといわれている。石榴は病や死を呼ぶ。病人のうめき声を聞いて大きくなるのだとね。だから民家の庭に植えるのを避ける地方もある。たしかに割れて赤く熟れた果肉が実から覗く様は血肉を連想させるし、樹木の形も骨ばっていて異様だ。一方で西洋では、身の中に種子の詰まった様子が多産の象徴として尊ばれたりもする。つまりね、物の見方、見る角度によって世界は変わるんだよ

そんなこと……話題を逸らすための方便にしか聞こえません

君の言う通りかもしれない。だが、芙美子を信じてほしい。君が芙美子の親友だと言うなら

三倉はそう言うと、それきり黙りこんだ。芙美子の名前を出されて、千夜も言葉に詰まる。

芙美子さんを信じないなんて、私は親友失格かしら――。たしかに、芙美子さんはこれまで、いつでも正しかったわ

千夜は考えに考え、気まずい沈黙を破った。

……分かりました。あなたたちの物の見方を教えてください。そして帝都を出た芙美子さんやあなたたちはどこへ行こうとしているのか

芙美子と一緒に来てくれるのだね。旅立ってからすべてを話そう。出発は、八月二十九日だ

三倉は千夜の手を握り、語りかけた。その涼しげな瞳の奥に、千夜は静かに燃える情熱を見た。それは幼き日、成功の只中にあった父の瞳に燃えていたものと同じだった。
嘘のない、失敗を恐れない、果敢な眼差し――。

いいわ、ついて行きます。芙美子さんやあなたが信じる道なら、きっと偽りはないのでしょう

 カフェーに辞意を伝え、荷物をまとめると、あっという間に約束の八月二十九日が来た。
待ち合わせ場所に現れたのは、自動車に乗った青年と、助手席に座る芙美子だった。
 道中は予想外に楽しいものだった。まるで女学校時代を思い出すかのように、千夜と芙美子はキャアキャアと騒いだ。三倉も終始、柔和な表情で、自動車を運転しながら少女たちの会話に耳をすませている。

千夜さん、見て。羊が放されているわ

何を言っているの芙美子さん、あれは山羊よ

まあ、恥ずかしい。わたくしは相変わらず世間知らずなのね

都会育ちの芙美子は、車窓から見える自然が物珍しいようだ。二人が盛り上がっていると、三倉も苦笑しながら言葉を挟む。

芙美子、君は随分と浮世離れしているんだな

まあ、三倉さん、わたくしが浮世離れしているだなんて、ひどいわ

三倉さんの仰る通り、芙美子さんがお嬢様だというのは間違いありませんわ

千夜が三倉を肯定すると、芙美子はぷいと横を向いた。

三倉さんも千夜さんも、もっとお手柔らかにお願いしたいものね

芙美子の言葉を聞いて、三倉と千夜は笑い出す。
それにつられて芙美子も笑った。

本当の親友とは、久しぶりに会ってもこうして家族のように盛り上がれる関係をいうのね

千夜はその時、芙美子が自分のそばへ戻ってきてくれたような気がして、心の底から嬉しかった。

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