途中の宿で二泊して、目的地に辿り着いたのは八月三十一日。
見たことのある景色が、車窓を流れて行った――そう、そこは千夜の父親の故郷、信濃だった。
街から遠く離れた山深い地域を、自動車は進んで行く。周囲には樹齢数百年は経つであろう巨木が立ち並び、あたりは昼間とは思えぬほど鬱蒼として、暗い。
ハンドルを握りながら、三倉は語る。
途中の宿で二泊して、目的地に辿り着いたのは八月三十一日。
見たことのある景色が、車窓を流れて行った――そう、そこは千夜の父親の故郷、信濃だった。
街から遠く離れた山深い地域を、自動車は進んで行く。周囲には樹齢数百年は経つであろう巨木が立ち並び、あたりは昼間とは思えぬほど鬱蒼として、暗い。
ハンドルを握りながら、三倉は語る。
ここは戸隠という村だ。いまだ文明開化に取り残され、いくつもの恐ろしい伝承が巣食っている
恐ろしい伝承……ですか?
千夜は訝しげに尋ねた。いかにもおどろおどろしい話はこの地に似合うが、いささか現実離れしている。
ああ、今から千年以上前の話だ。ある修行者が、この地の岩戸に九つの頭と龍の尾を持つ鬼を閉じ込めたのだという。その伝承から、ここは九頭竜「くずりゅう)神社と名づけられたのだそうだ
九頭竜(くずりゅう)……?
ああ。この九頭竜伝承は、実はあちらこちらに残っている。関東、近畿、九州……場所も内容も様々だが、多くは恐ろしい鬼を封印したという筋立てになっている。だがこれは、日本だけの伝承ではない。遠く亜米利加にも、同じような鬼の伝承があるんだ
亜米利加にも、鬼がいるのですか?
千夜は首を傾け、三倉へ視線を投げかける。
そうだ。太古の昔、封印された鬼たちがいた。彼らは復活の時を待ち、海の底で眠っている。これを、クトゥルー神話と僕たちは呼んでいる
クトゥルー……九頭竜……!日本と亜米利加の鬼が、同じ鬼だというわけですか?
そう。僕たちは、九頭竜伝承こそ、日本版のクトゥルー神話だと考えている。僕の父は昔、亜米利加で邪な鬼から力を授けられた。残念ながら、航海中に船が転覆して亡くなってしまってしまったけれどね。その力を受け継いだのが僕だ。僕は不思議な予言をする力を父から受け継いでいる。そしてそれに基づいて占った結果、帝都に嵐が起こることを予言したんだ
帝都に……嵐?
何かしらの天変地異か、暴動か――あるいはその両方だ
そんな……ありえないわ!証拠は何もないのでしょう?
浅間山って、知っているかな?
信濃の活火山の名前でしょう。父が信濃の出ですから、それくらいは存じております
そう。その活動がここ数年ほど活発になり、帝都まで響くほどの噴火も起こっている。これはまもなく、九頭竜の鬼が目覚めて帝都を荒らす合図だ
鬼が、目覚める――
その様子を想像して、千夜の背筋に震えが走る。
その鬼の隠れ家を、これから君にも見せてあげよう。僕について来るんだ
山道に車を停めると、三人はわずかな荷物だけを持ち、歩き始める。深い雑木林をかき分け、辿り着いた先には洞窟があった。
木々の間に、真っ暗な闇がぽっかりと口を開けている。見るからに内部は大きく、そして深い。
三倉は松明を手に、洞窟の奥へと進んで行く。木で造られた簡素な階段は、湿気によってところどころが腐り落ちている。夏の昼間だというのに、あたりはひどく暗く、ひんやりと冷たい。
一段、また一段と、迷いのない足取りで真っ暗な地下へと下って行く。
どれだけの時間、歩いたのだろう。
たどり着いた先には、ただ広くひたすら墨に墨を塗り重ねたような、漆黒の空間があった。
やっとついたよ。この先を、見てごらん
三倉の言葉で、千夜は指された方角を見る。
松明の灯りに照らされた先に、一軒家ほどもある巨大な岩が置かれていた。朽ち果てたしめ縄が張り巡らされ、その全体は地下水で陰鬱に濡れている。
この奥が、鬼の眠る場所だ
この奥?この大きな岩の向こうに、鬼が眠っていると言うのですか?
そうだ。そして僕は、これから起こる嵐から、せめて僕らだけでも守ってくださるよう、鬼へ祈ってきた。秘密結社も、そのための組織なんだ
にわかには信じがたい告白をしながら、三倉は松明を掲げ、岩を囲む蝋燭へと火を灯していく。
あの秘密結社が、鬼へ祈るためのものだったのですか?
そうだ。そして
これ」は、鬼へ捧げた生贄だよ」
漆黒の闇が支配する空間に、蝋燭の暖かい光が満ちる。
するとそこに出現したのは――何十体もの木乃伊と、ひれ伏し祈りを捧げる生きた人々の姿だった。
人々は一様に黒マントと山高帽を着用している。どう考えても、様子がおかしかった。
キャアア!
落ち着いて、千夜さん
とっさに目を塞ぎ叫んだ千夜を、芙美子が牽制した。
ひれ伏す人々のうち何人かも、驚いた様子で顔を上げ、二人を振り返る。
千夜さん、どうか冷静になってほしい。鬼への祈りに、これはどうしても欠かせないんだ
では、近頃帝都で発生している連続誘拐事件の犯人は――
頭に取りついた恐ろしい想像を、千夜は口にする。
もし、生贄にするために、人々をさらっていたのだとしたら――。
三倉は不敵な笑みを浮かべ、口を開いた。
君がどんな想像をしようと、勝手だ。何をするにも、多少の犠牲は必然なのだから。さあ、それでは鬼へ祈りを捧げよう。××××……××××……
なんて不吉で、恐ろしい場所なの……そしてあの祈りの言葉……どこの国の言葉なのかしら……そして鬼なんて……そんな、まさかね
清廉な青年という三倉の印象、そして淡い憧れが、一気に崩れ去る。これから起こることを想像して、千夜は震え出す。自らの意思と関係なく、全身が細かく動き、歯がカタカタと鳴る。
そんな千夜をそっと抱きしめたのは、芙美子だった。
大丈夫よ、千夜さん。どんな嵐に見舞われても、わたくしたちは生き延びるわ
芙美子は千夜の肩をそっと抱いた。
千夜は、目を開くことが出来なかった。
大正十二年八月三十一日、夕刻。
傾きかけた太陽の下、朽ち果てた洞窟の奥で今、恐ろしい鬼が目覚めようとしていた――。
―了―