芙美子がカフェーを出たのは、夜の帳が静かに下りた頃だった。随分長いこと、芙美子は一人、難しい本を読み耽っていた。
芙美子は突然、何かの暗号を受信したかのように立ち上がり、会計を済ませてカフェーを出て行った。いつのまにか来店していた黒いマント姿の男性客を連れて。
その、まるで何かに取りつかれたような眼差し、熱に浮かされたような足取りは、千夜がよく知る、凛とした佇まいの芙美子のものではなかった。
張り込むように珈琲だけで長居していた新聞記者たちも、二人を追って出て行く。
芙美子がカフェーを出たのは、夜の帳が静かに下りた頃だった。随分長いこと、芙美子は一人、難しい本を読み耽っていた。
芙美子は突然、何かの暗号を受信したかのように立ち上がり、会計を済ませてカフェーを出て行った。いつのまにか来店していた黒いマント姿の男性客を連れて。
その、まるで何かに取りつかれたような眼差し、熱に浮かされたような足取りは、千夜がよく知る、凛とした佇まいの芙美子のものではなかった。
張り込むように珈琲だけで長居していた新聞記者たちも、二人を追って出て行く。
芙美子さん、あの男の人と、どこへ行くのかしら
それを前に、いてもたってもいられなくなった千夜は、用事があるからと仕事を早退し、芙美子をつけてみることにした。昼間に小耳に挟んだ、新聞記者たちの会話が頭の中をぐるぐると回る。
オカルト……怪しげな会合……スエモリフミコという女学生……いいえ、なんでもない。芙美子さんが関係しているなんて、出鱈目よ
芙美子と男は、人通りの少ない寂しげな通りに面する、古ぼけた雑居ビルへと入って行った。
二階部分の窓には、温かい灯りが点く。
一人、また一人と、雑居ビルに人が吸い込まれていく。
洒脱に着飾った若い女、恰幅の良い中年男性、杖をついた老人――様々な人がいたが、彼らには共通していることがある。
誰もみな、芙美子と同様、熱に浮かされたような足取りをしているのだ。
ビルの前の通りの向かい、街路樹の陰に隠れて、千夜はビルの様子を伺う。中ではなにやら集会が行われているようだ。
深紅のビロードのカーテンの隙間に、人影が次々に現れてはゆらゆらと揺れる。聞いたことのない不思議な言語で紡がれる呪文が、遠く千夜の耳にまで届いてくる。
芙美子さん、一体あなたは、何をしているの?私の知っているあなたは、どこへ行ってしまったの?
考えても考えても答えは見つからず、千夜の頭は混乱の度合いを増す。心臓はどきどきと早鐘を打ち、冷たい夜風に触れた唇がちりちりと乾いていく。
一時間、二時間、三時間、四時間――古ぼけたビルの中では、なおも会合が続いている。その灯りが消えたのは、深夜零時を回った頃だった。
雑居ビルから出て帰路に着く人々を、千夜は一人一人確認していく。
芙美子を見つけるのは簡単だった。
――暗闇に映える、鮮やかな銘仙。
千夜は芙美子の目の前に立ちはだかる。後ろには、黒いマント姿の男、そして――千夜が思いを寄せる、お医者様だという青年も立っていた。
芙美子さん、こんな時間まで、このビルで何をなさっていたの?
見つめ合った瞬間、芙美子はその手から包みを落とした。
千夜さん……どうしてここに……
呆然として目を見開いたまま、芙美子は千夜に問う。
芙美子さんのことが心配で、ついて来てしまったの。ごめんなさい。ねえ芙美子さん、もしかして、さっき話そうとしていたことって、この集まりに関係しているのかしら?
不安げな表情で、千夜は芙美子に尋ねる。
ここまで来たら、こうするしかないと思った。
……ええ、そうよ。ねえ、千夜さん
遠くの繁華街のネオンの残照、酔っ払いの喧騒が、夏の夜の冷えた空気を震わせる。
私たち、ずっと親友よね?
芙美子の声は、そんな雑音には負けない。
まっすぐに、針のように、千夜の心を突き刺していく。
ええ――当たり前じゃない、芙美子さん
肯定する声は、しかし微かに震えている。
……芙美子さん、私はこれからもずっと、あなたの親友よ。だから教えて、あなたの一番の秘密を
わかったわ。……驚かないでね、千夜さん
千夜の視線を正面から受け止めると、芙美子は女学校で過ごした頃のように、明るく微笑んだ。
……もうすぐ、この帝都を、とてつもない嵐が襲うわ。街はめちゃくちゃになって、これまでの日常が崩れてしまう
芙美子の薄桃色の唇から紡がれた言葉は、その可憐さにそぐわぬ内容だった。
嵐……?芙美子さん、何を言っているの
千夜さん、わたくしたちは、その予言をすでに受け取っているの。だから落ち着いて、未来のことを考えましょう。今日の会合も、これから私たちがどう生きていくかについて話し合っていたの
言い終えると、芙美子はなんでもないことのように微笑んだ。
芙美子さん、絶対におかしいわ。きっとおかしなことを言い含められたのよ
だが、芙美子は何も答えない。
……嘘よ。芙美子さんの言っていることは、出鱈目だわ!
俄かには信じられず、千夜は芙美子から目をそらす。
あら、わたくしがあなたに嘘をついたことがあって?
芙美子は変わらず、千夜をまっすぐに見ている。
たしかに、いつだって、芙美子さんの言葉に偽りなどなかった……
それでも――千夜には腑に落ちない。
だって、この帝都に、嵐だなんて……こんなに平和で、カフェーも繁盛しているのに。芙美子さん、きっと悪い夢でも見ているのよ
まだ夢を見ていたいのは、あなたの方でしょう。千夜さん
千夜の手を握りながら、芙美子は諭すように語りかける。
その手は陶器のように冷やりとしている。
……もう、聞きたくない。私、帰ります……
手を振り払うと、千夜はくるりと踵を返し、その場から一目散に走った。あまりに異様な芙美子の言動に、もう耐えられなかったのだ。
半分に欠けた月が青白い光を街に落とす、深夜。
背中に、芙美子の、青年の、そして黒いマントの男の視線を痛いほどに感じる。
それでも千夜は、どうしても、振り返ることは出来なかった。