ほどなくして、千夜は女学校を退学した。
表向きは、父親の縁戚にあたる信濃の酒蔵の長男との縁談がまとまったということにしてある。
在学中に縁談が決まれば迷いなくそちらを選び、卒業まで全うするのは不名誉とされた時代。この理由はなんら不自然ではない。だが真相は違っていた。父親が事業に失敗し、甲斐の山奥の滝から身を投げてしまったのだ。
 母親と二人、わずかに残された財産を手に大きな屋敷を出て、千夜はカフェーの給仕となった。
 けれど千夜自身は、そんな運命を呪ってなどいない。 自分にないものを嘆いて生きるより、与えられたものを大切にしたいから。
 最初は戸惑ったカフェーでの仕事も、慣れるにつれ楽しめるようになってきた。ここでは頑張った分だけ、客に好感を持たれ、チップを受け取れる。だからこれからもこのカフェーで、頑張っていきたいと思っている。

 そんなことを考えていたら、カランカラン、という明るいドアの鐘の音とともに、芙美子が来店した。

いらっしゃいませ、お客様。どうぞ、こちらへ

千夜さん、こんにちは。わたくし、今日もいつもの紅茶と、ケーキをいただきたいわ

日の射し込む窓際の席につくと、芙美子はすぐに注文をする。千夜は踵を返して厨房へ行き、用意をして戻ってくる。

どうぞ、お客様。当店自慢のダージリンとガトー・ショコラでございます

ありがとう、早いのね

だって、親友の芙美子さんからのご注文ですから

あら?わたくしを贔屓して、怒られないかしら?

菫の花が描かれた可憐なティーカップに口をつけながら、芙美子は上目遣いで尋ねる。

いえいえ、ご心配には及びません。お客様に誠意を見せるのは当然ですから

千夜さんのことではなくて、わたくしが怒られないかって気にしているのよ。だってこのカフェーで一番の給仕を、こうして独占しているんですもの

そんな……照れますわ、芙美子さん

あら、本当のことでしょう?今だって、わたくしの注文をすぐに準備してくれたじゃない。わたくしは千夜さんの一生懸命で思いやりのあるところが好きなの。これからも良き親友でありたいわ

芙美子さん……

昔から、千夜さんはそうだったわね。そうそう、女学校の帰り道で、わたくしが日記帳を買うのに付き合ってくれたことがあったでしょう?

 唐突に言われて、千夜は面食らう。芙美子はいつもこうなのだ。突然、話を思いもよらぬ方向へ導き、周りの者を驚かせる。
けれど、そういえば――女学校時代、千夜はよく芙美子の買い物に付き合っていた。

銀座の文具店へ日記帳を買いに行って、二人でお揃いの物を買おうって、わたくしが誘ったじゃない?

ええ、ええ。そんなことがありましたね

懐かしい記憶が蘇り、千夜は目を細める。

あの時、どれが良いかわたくしに尋ねられた千夜さんは、紫と緑の格子が描かれた日記帳を選んだわ。ちょうど今、わたくしが着ている銘仙のような

芙美子は、鮮やかな紫色の格子が描かれた銘仙の胸元に手を当てた。

ええ、たしかに――芙美子さんとお揃いで買ったあの日記帳は、今も大切にしていますわ

あれ、わたくしの好みに合わせてくださったのでしょう?千夜さんはもっと清楚な柄の方が好みですもの。そうね、例えばこの、ティーカップの菫のような

 芙美子に言われて、千夜ははっとする。
そんなこと、考えたこともなかった。けれど確かに、あの日記帳は自分では選ばないだろう。お揃いの物を使いたいと提案された千夜は、迷わず芙美子の好みそうな日記帳を選んだ。

私は、芙美子さんに似合う物を一緒に使いたかったんです。だって、芙美子さんは……私の憧れですもの

 言い終えてから、急に千夜は我に返る。
とんでもないことを口にしてしまった。これではまるで、殿方への愛の告白のようだ。
 芙美子はまっすぐに千夜を見つめる。
それからすぐに、その表情を綻ばせた。

わたくし、嬉しいわ。千夜さん、やはりあなたは、ただ一人の親友ね。そうだ、あなたに打ち明けたいことがあるの

打ち明けたいこと?なにかしら?

照れ隠しに口元を手で覆いながら、千夜は言葉を返す。

そうね、実は……いいえ、ごめんなさい。今はまだ、言えないの。もう少し時間が経ったら、きっとあなたには真実を話すわ

急に下を向き、視線を床に落として、芙美子は溜め息を吐いた。

芙美子さん、何かお悩みを抱えているのかしら。もしかして、あの新聞記者が話していたことに関係がある?いいえ、そんなはずは……

 うろたえる表情を見せないように、千夜はそそくさとその場を退いた。芙美子も、さっきまでのおしゃべりが嘘のように、それきり口をつぐみ、紅茶とケーキを前に、なにやら考え込んでしまった。

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