千夜が芙美子に出会ったのは、女学校だった。
この時代、娘を女学校に通わせることは一種の栄誉であった。女学生は皆、公家や宮様の血を引く高貴な娘か、あるいは系譜を持たない成金の娘か。
 千夜は圧倒的に後者だった。千夜の父親はもともと信濃の農家の三男坊。東京へ奉公へ出て商売を覚え、軍需品で財をなした戦争成金だった。三人の兄には商売を手伝わせ、末の子である千夜にはきらびやかな経歴を与えようとした。仕事熱心で激しい性格の父親と、千夜はほとんど言葉を交わした記憶がない。
 それでも千夜は父親に気に入られたくて、華道に茶道に書道に日本舞踊、与えられる習い事はなんでも懸命に取り組み、ものにした。女学校に入る頃には、高貴な娘たちと変わらぬほどの教養を持っていた。
 それでも、駄目なのだ。
努力で身に着けた教養と天性の気品は、纏う空気から、違う。それを教えてくれたのが、芙美子だった。
初めて出会ったその瞬間から、芙美子の美しさは圧倒的だった。
 艶やかな黒髪に陶器のような白い肌、他人を射るように鋭く、神秘的な眼差し。その上、芙美子は公家を祖とする侯爵家の令嬢で、世が世であれば下界と交わることもないであろうお姫様。その美しく凛とした佇まいと華麗な家柄は、女学校の誰もを魅了した。それでいて芙美子には気取ったところがなく、誰にでも明るく話しかけ、千夜にも優しく接した。
 もちろん女学校では、表向きないじめや差別はない。
けれど、皆が心のどこかで自分と級友を品定めして、それに基づいた行動を取っている。
 あの子は、良い家の娘。あの子は、成金の娘。
そんな決め付けを当然のものとして生活している。それは決して悪いことではなく、むしろ楽だとすら思うのだけれど、それでも時々、息苦しい。
 そんな空気を一瞬で変えてしまうのが、ほかならぬ芙美子だった。

家族で横浜へ遊びに行ってきたの。これは皆さんへのお土産よ。ひとつずつ、お好きなものを選んで頂戴

そう言いながら、級友の嘉子は机に小物を並べた。
嘉子は著名な貿易商の娘で、大らかで羽振りの良い性格だ。時折こうして出先で手に入れた珍しい品を、級友たちに振舞っている。
 目の前に並ぶのは、濃い緑色が美しい翡翠の亀の置き物、繊細な彫刻が施された掌より小さな櫛、花や植物を象るレースのあしらわれた絹の手袋。
 級友たちは、その職人芸に色めきたち、キャアキャアと黄色い声を上げた。
 だが、その品々を見て――千夜は青ざめた。
嘉子の周りにいるのは、子爵令嬢の桂子、大病院の娘の織枝、芙美子、そして千夜。どう考えても、数がひとつ足りない。だとすれば――ここで退くべきは、千夜だった。

どうかしら?ではまず芙美子さん、あなたから選んで

 嘉子は相変わらず、柔らかい笑みを皆に向けている。
その無邪気さに、千夜は理解した。
 嘉子は悪意があってひとつ買わなかったわけではない。心の底から、千夜のことなど考えになかったのだ――と。

大丈夫。私が遠慮すれば良いのだから。

静かにそう決意して息を吸い、声を出そうとした刹那、芙美子が先に言葉を発した。

あら、それではわたくしは、これをいただくわ。素敵な意匠のレースですこと

芙美子が手に取ったのは、レースのあしらわれた絹の手袋だった。

まあ、やっぱり。芙美子さんはそれを選ぶと思っていたの

芙美子さんにお似合いですわね

芙美子さんの美しさが際立ちますわ

嘉子と桂子、織枝が口々に賞賛する。
 それを聞き終えると、芙美子は手袋の片割れを、千夜に渡した。

千夜さん、わたくしはこの手袋を、あなたと二人で分けて持っていたいの。片方を受け取ってくださる?

芙美子の言葉に、千夜も、他の皆も驚く。
 特に、嘉子はお土産の数が足りていなかったことに始めて気づいた様子で、気まずそうに眉根を寄せた。

芙美子さん、私がこの手袋の片方を、ですか?

あっけに取られたまま、千夜は言葉を返す。

そうよ。友情の証として、あなたと二人で持ちたいわ。わたくしは左利きだから、あなたが右手の方を使って頂戴。それとも――あなたは嫌かしら?

首をかしげ、悪戯っぽく微笑みながら芙美子は尋ねる。

いいえ。私、芙美子さんと二人でこの手袋を使わせていただきます

 その後、亀の置き物を桂子が、小さな櫛を織枝が選び取り、その場はお開きとなった。

 翌日から、芙美子は左手にだけに絹の手袋をして登校するようになった。それを見た千夜も、右手だけに絹の手袋をして登校するようになった。
 千夜は最初のうち、気恥ずかしいような思いがしたが、芙美子のなんでもないような態度に気持ちが改まっていった。
 それを見た他の級友たちの一部にも、真似をして手袋を片割れずつ身に着ける者たちが現れ始めた。
 次第に、千夜は芙美子と二人で過ごす時間が増え、本人も周囲も、仲の良い友人と認識するようになった。そのことで千夜も劣等感が消え、女学校での生活を楽しめるようになった。千夜の女学校での一番美しかった思い出、それは間違いなくこのひとときであった。

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