自分の運命を呪ったりはしない。
千夜はそう、自分に言い聞かせている。足りないものを数え上げて溜め息を吐くなんて損だ。自分が持っているものに感謝しながら毎日を過ごしていたい。
 どうせ人間の腕は二本しかないのだ。その手に持てるものなど、限られている。

 元来、目立たない性格の千夜がカフェーの給仕として日々奮闘しているのは、そんな決意からだ。
ここは帝都の街角に佇むカフェー・石榴館。
千夜はここに勤めている。大通りの喧騒を離れ、店先の石榴の木が不穏な気配を醸し出す洋館風のこのカフェーは、周辺に勤める人の憩いの場である。
 この店を選んだのは、給仕の制服が洋装だから。
多くのカフェーの給仕たちは、流行の柄の銘仙に袴を合わせ、その上に白いエプロンを着けて仕事をしている。それは女学校――千夜のいられなくなった場所を思い出させて、辛くなってしまうのだった。
 この店は違う。紺色のワンピースに白のエプロンを着けたこの店の給仕たちは、いかにもハイカラで、新しい時代に相応しい気がした。

芙美子さん、今日はこの店へ来るかしら

窓の外へ視線を投げながら、千夜はひとりごちた。
 芙美子は千夜の、たった一人の親友だ。ここのところ毎週日曜日に、このカフェーへ通いつめている。いつも一人、思いつめた様子で紅茶を飲んでいるものだから、千夜はひそかに心配をしていた。

駄目ね、そんなことを心配している暇があったら、さっさと仕事をしなければ

制服の白いエプロンの裾を払い居住まいを正すと、深呼吸をして、トレイを持ちホールへ進む。

紅茶をお持ちしました

繊細な金の縁取りがされたティーカップをテーブルに置きながら、千夜は目の前の青年に微笑みかける。

どうも

青年はうなずくと、カップに手を伸ばした。
 日曜の午後、窓際のテーブル席。決まって青年は現れて、なにやら文字のたくさん書かれた外国の本を読み耽っていた。それは見たことのない異国の言葉で書かれていて、表紙は古ぼけ、本文は黒ずんでぼろぼろになっているものさえあった。時には、本のレコードの束を抱えていることもあった。
 青年は、お医者様だという噂だ。
若先生、と他の客から呼ばれているのを、千夜はたびたび目にしていた。もしかしたら、それらの難しい本も、医学に関わるものなのかもしれない。
何を読んでいるのですか?――一歩踏み出してそう聞けたらいいのに、千夜にはその勇気がない。それは青年の纏う空気がそうさせているのかもしれなかった。
 銀縁の眼鏡の奥には、切れ長の目。その眦がほんの少し下がるのを確認して、千夜は胸が高鳴った。

ごめん。……これを、君に

胸元から幾らかの小銭を取り出し、青年は千夜の手に握らせた。この時代、給仕はこうして客からチップを受け取るのが慣わしだった。
千夜の熱い掌に、青年のすらりとした指先が触れる。

ああ、これがこの方の体温……

その冷たさに、千夜は一瞬、陶然とする。

どうしたの?

……な、なんでもないです

怪訝そうに目を細める青年から目を逸らし、千夜はそそくさとテーブルを離れた。

 午後から夜にかけてが、カフェーの稼ぎ時だ。
一人で珈琲をゆったりと楽しむ客から、仕事の打合せや接待で何時間も粘る客など、思い思いに時間は過ぎて行く。

もっと頑張らなければいけないわ

客が席を立ったテーブルから、食器を下げていく。急がないと、新しく来店した客を待たせてしまうことになる。もたついている時間など、一秒もない。

たしか……スエモリフミコと言ったな

唐突に親友の名前が耳に入り、千夜は瞠目した。声の主はおそらく、自分の真後ろのテーブルにいる。

芙美子さんのお名前……何のお話なのかしら

なるほど。その別嬪の女学生……スエモリフミコ……が、オカルトとかいう、怪しげな秘密結社の信者なんだな

仰る通りです。近頃帝都を騒がせている連続誘拐事件との関連が噂されています。奇妙なことに、現場付近には必ず、黒マントを羽織り、山高帽を被った男が現れるのだそうで。いかにも怪しいでしょう?そして今日が、怪しげな会合の開かれる日曜日。信者たちはこのカフェーをアジトにしていて、おそらくそのスエモリフミコも、これからここへ来るでしょう

なんのこと?たしかに芙美子さんはこれからここへ来る。――けれど、決してそんな、やましい理由ではないわ

柄にもなく頭に血が上って、千夜はちらりと後ろを振り返る。
 視線の先には、茶色のジャケットを羽織った中年男性と、がっしりとした体型で高級そうな紺の上下に身を包んだ青年だった。片方を、千夜は知っていた。いかにもうだつの上がらない中年男性は、このカフェーに近い帝都通信社の記者・大山だった。
 大山はたびたびこのカフェーを訪れている。いつも大量の取材資料を見ながら、何時間も記事と睨めっこをしている。千夜も給仕をすることがあるのだが、いつも愛想がいい割に、チップは渋い。多分、そんなに給金が多くないのだろうと、給仕の間では噂されていた。もう一人の男性は、見るからに体格と身なりがが良く、位の高い軍人なのではないかと思われる。

どうして立派な軍人さんが、あんな怪しげな新聞記者と関わりを持っているのかしら?

もやもやと黒い霧のように頭を支配する疑問を振り払って、千夜は仕事に戻った。

Ⅰ カフェー・石榴館の午後

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