既にホームルームのチャイムがなってから一時間が過ぎていた。

 教室内には僕を除けばたった一人しか残っていない。

 文化系の部活に参加しているのならば別館の部室棟があるし、体育系の場合は専門の施設が併設されているのでそちらに行く。そもそも、良家のお嬢様やら大企業の御曹司やら旧華族の跡取りやらが通う私立王星学院には部活自体に参加していない者も多く、そういう人々は授業終了とほぼ同時に運転手付きの車に乗ってさっさと下校してしまう。

 だから、放課後の教室……二年三組の教室はたいてい、僕と笹宮さんが独占できる事になる。

神城 鋭

笹宮さんさぁ

 誰の席なのかも知らない、笹宮さんの前の席に腰を下ろし背もたれをガタガタさせながら、いつも通り漫画を描いている笹宮さんに視線を向ける。

 笹宮さんは女の子だ。
 年齢十六歳、背中まで流した黒髪に整った容貌。身長百五十一センチ、体重四十三キロ。スリーサイズは上から75/56/78。男性経験なし。去年、私立王星学院に特殊受験枠で入ってきた、この学院では珍しい中流家庭出身の少女。

笹宮 明

……

 笹宮さんは、何も言わずに厳しい表情でペンを動かしている。

 一人一台、設備の豊富さで有名な王星学院の用意したシステムデスクの上は乱雑に散らかっていた。
 積み重なった分厚い図鑑に、いつから洗っていないのかもわからないコーヒーカップ。しかし、それ以上に目立つのが大型の二台のディスプレイだろう。

 マウスとキーボードの代わりに、一抱えもある、液タブと呼ばれる入力機器の上で、笹宮さんがペンを動かす。
 傾きの加減で、前の席からでもはっきり見えるディスプレイの上、表示された簡単な枠組みの上に、まるで魔法のようにキャラクターが描かれていく。

 刀を武器に戦う女の子。現在、中高生を中心に大きな人気を博しているバトル漫画『カオス・ファンタジア』のヒロインにして人気キャラクター、刀条 静だ。
 ピンチに陥った主人公を助けるために身の丈三メートルを超える牛の魔物、牛鬼王を倒し、連載当初からの最大の敵、黒衣の男と対峙する主人公を助けに乱入するシーン。それは、雑誌には恐らく二月後くらいに載る事になるであろう原稿だった。

 笹宮さんは漫画家である。だが、ただの漫画家ではない。彼女は今をときめく大人気異世界ファンタジー、発行部数一億を超える『カオス・ファンタジア』を手掛ける天才漫画家であり、美少女漫画家であり、僕の同級生だった。

 先ほど中流家庭といったが、彼女は既に数十億を稼いでいるので正確に言うのならば『元』という事になるだろう。

神城 鋭

ねぇ、聞いてる? 笹宮さん?

 何度か話しかけるが、笹宮さんは原稿に集中していてこちらをちら見すらしてくれない。

 仕方なく、原稿の方を覗き込む。

刀条 静

はぁ、はぁ……待たせたわね!

静!? 無事だったか!? あの悪魔は……

刀条 静

はぁ、はぁ……あの牛なら……何とか、片付けたわ。後はそいつだけ……

 二対一になったが、静も主人公も大きな傷を負っており戦況は芳しくない。まだ下書きの段階の漫画から迫力が伝わってくる。
 廃墟の屋根の上にたったシルエットの男が不敵に笑った。

???

くっくっく、『あれ』を倒したか……そこの女は貴様と違って楽しめそうだな



 ぶっちゃけ、僕は笹宮さんの漫画は嫌いではないが、カオス・ファンタジアは好みじゃない。

 仕方なく僕は、いくら話しかけても答えてくれない笹宮さんの脳を、いつも通りに刺激した。

 人差し指でディスプレイ……堂々と敵に相対する静を指して……っと。

神城 鋭

ねぇ、ここの静、牛鬼王だったら面白いと思わない?

笹宮 明

!?

神城 鋭

このままだと展開が普通すぎてつまらないよね。静が出てきたと思わせておいて……という、何というか、サプライズってものがさ……

笹宮 明

……

 漫画家でも何でもないド素人な僕の意見。

 本来ならば超人気漫画家の笹宮さんが聞く必要もないその意見に、笹宮さんが躊躇なくせっかく描いた凛々しい静を躊躇いなく削除した。
 その代わりに、前回倒したはずの牛鬼王を描き始める。

神城 鋭

ぷっ……一体どんな展開だよ。これはこの回のアンケートも酷い事になりそうだな

 笹宮さんは間違いなく天才である。
 だが、馬鹿と天才は紙一重でもあった。

 漫画モードの笹宮さんはまさに漫画を描く機械。
 それに全精力を傾けており、他の事を感じる余裕がないのだ。だからこの状態の彼女は話しかけようが肩を叩こうが胸を揉もうが反応がない。そんな無防備な状態で僕が言葉をかけると、ストーリーが変な方向に転がっていく。支離滅裂に、何の際限もなく。

 誓っていうが、彼女、僕が余計な口出しした事を全く意識できていない。

 ここ数ヶ月、カオス・ファンタジアの評価が『王道で面白い』から『何が起こるかわからない』に変わっているのは半分くらい僕のせいであった。それでもアンケートでそれなりの評価を貰っているのはさすがだが。

 僅か十五分程で刀条静が牛鬼王に描き変えられる。笹宮さんはアシスタントなしに週刊誌連載を続ける超人を超えた神漫画家である。これくらい朝飯前なのだ。
 ちなみに、台詞については僕は口出ししていないのでそのままである。

 出来上がったようなのでもう一度ディスプレイを覗き込む。

牛鬼王

はぁはぁ……待たせたわね

 多分誰も待っていない。
 今程お前が出てきていけないタイミングはないだろう。

静!? 無事だったか!? あの悪魔は……

 目の前にいるじゃん。てか、こいつを静だと勘違いするお前の眼は腐ってる。

牛鬼王

はぁ、はぁ……あの牛なら……何とか、片付けたわ。後はそいつだけ……

 ひっでえ。お前は一体何なんだよ。

???

くっくっく、『あれ』を倒したか……そこの女は貴様と違って楽しめそうだな

 何言ってんのお前も!?

神城 鋭

ぷっ、予想以上に酷いな。もうファンタジーじゃなくてコメディじゃん。今後の展開どうするんだろう。

笹宮 明

……

 当の笹宮さんを見るが、何故か笹宮さんは満足気なご様子。
 まぁ、その辺りは笹宮さんがうまい事やってくれるだろう、天才だし。

 仕事している笹宮さんを邪魔するのも悪いし、今日は僕も仕事をする事にしようかな。

 通学で使っているバッグからモバイルのPCを取り出し、メーラーを起動する。
 笹宮さんの素晴らしい物語を読んだおかげで、今日も頭の中はすっきりしている。

 僕はたまに笹宮さんのしかめっ面を見ながら、機嫌よくキーボードを叩いていった。

プロローグ:天才美少女漫画家現る

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