あの日ケストナー卿のこの屋敷にて催された舞踏会の夜から一月が過ぎていた。
あの夜の出来事はまさに夢のようだった。いささか頼りなげではあったものの、きれいな顔立ちをした青年に手を取られて、大広間で踊った一時。青年の温かな手に引き寄せられて、目を閉じたあの一瞬。
期の短い花が綻ぶように、笑うように開いて、けれどすぐに萎んでしまったような、ほんの短い間の出来事だ。
もしも、一つだけ願い事が叶うなら……
あの日の夢が本当になって、せめてもう一度だけでも訪れてくれたらいいのに
あの日ケストナー卿のこの屋敷にて催された舞踏会の夜から一月が過ぎていた。
あの夜の出来事はまさに夢のようだった。いささか頼りなげではあったものの、きれいな顔立ちをした青年に手を取られて、大広間で踊った一時。青年の温かな手に引き寄せられて、目を閉じたあの一瞬。
期の短い花が綻ぶように、笑うように開いて、けれどすぐに萎んでしまったような、ほんの短い間の出来事だ。
あれ以来、コートニーは時々夢に見る。
楽士の青年に手を取られ、大広間で踊る自分の姿を。
夢の中でのコートニーは豪奢に着飾り、大層美しいいでたちだったけれど、そのことをなぜかちっとも気に留めていない。
コートニーには、着ているものも宝石も、大広間に集う人々の羨望の眼差しも不要のもので、ただ一つ、あの温かい手だけがあればいいと思っていたのだ。
あの手に手を取られて、もう一度踊りたいと願っていた。
青年は普段、近くの町の劇場で演奏していると言っていた。だが彼から聞き出せたのはそれだけで、名前を問う暇もなかった。
町に数多ある劇場の中から彼の楽団を探し当てることが出来れば、もう一度彼に会えるのかもしれない。しかし屋敷に住み込みで働く小間使いに、それほど自由な時間があるはずもなかった。
はあ……
溜息をつきながら、コートニーは花を活ける。
今朝方、庭で摘み取ったばかりの花々は元気がなく、くたりと萎れていた。
貴方も元気がないのね
ふと視線を転じれば、廊下の窓から強い陽光が射し込んでいた。
あの夜以来雨が降らず、大地は乾き、埃っぽい風だけが吹いている。お蔭で庭の花々はいつになく元気のない様子だった。
雨、降らないかしら
かんかん照りの日が続けば庭の見栄えが悪くなる。
砂埃が舞う風の中には洗濯物も干せない。
町の方からはあちらこちらで井戸の水が枯れたという報せも届いていた。この一帯には雨の恵みが必要だった。
おや、きれいに咲いているね
ふと、背後で声がした。
コートニーはその声を聞くと、素早く振り返って一礼する。
はい、旦那様
やはり花があるのはいいものだ
温厚そうな笑みを浮かべているのは、この屋敷の主人、ケストナー卿だ。
彼は政から遠ざかり、町からも離れた片田舎に引っ込んでいる。そして狩猟と美術品の収集、それに舞踏会を開くことを趣味として日々を過ごしていた。
コートニーにとって卿は文句のつけようもない素晴らしい主だった。使用人たちにも温かく穏やかに接し、気さくに声を掛けてくれる。何よりも働きに応じた給金を惜しまないところが素晴らしい。
お庭のお花だね
はい、旦那様
だが、どうも元気がないようだ。
庭の花は皆こうかね?
はい、旦那様。
なるべくしゃんとしたものを、選んできたつもりだったのですが
ケストナー卿にとって屋敷の庭は自慢の種だった。
庭の手入れには庭師を雇い、彼らに全てを任せていたから、庭は常に屋敷のどこよりも美しく整えられていた。
しかしこのところの干ばつで、その美しさも萎れかけている。
卿に落胆をさせぬようにと庭師たちも懸命に手を掛けていたが、井戸から汲み上げた水はすぐに干からび、まるで砂漠に水を撒くようだった。
雨は降り過ぎても困るが、全く降らないというのも困ったものだな……
ええ、仰る通りです
……そうだ、いいものがあるぞ。
お前にも見せてあげよう、コートニー
何でございましょう、旦那様
コートニーはすかさず尋ねたが、卿は笑んだだけでその場では答えず、廊下を先に立って歩き出した。
ついておいで
は、はい
コートニーは慌ててケストナー卿の背中を追い駆けた。
卿がコートニーを招き入れたのは応接間だった。
絢爛豪華な調度の並ぶ応接間は、コートニーも掃除の時にだけ立ち入ることを許されている。ー卿の趣味がいいとは言えない収集癖がそこかしこに発揮されていて、時々眩暈を起こさせた。
その室内に、昨日までは見当たらなかったものが新たに飾られていた。
赤い目をした男の肖像だった。
な、何なのこれ……
絶句するコートニーをよそに、ケストナー卿は自慢げだ。
素晴らしいだろう、この絵は
……
コートニーは答えられなかった。尊敬する主の言うことであっても、眼前に飾られた絵には、不気味さしか感じ得なかった。
この絵は、と或る聖人の顔なのだそうだよ
厳かで、神聖な雰囲気が良く出ているだろう。
私はこの絵に堪らなく惹きつけられてしまって、つい買い付けてしまったのだ
そ、そうだったのですか
厳かで、神聖……?
不気味でしかないけど
あの瞠られた目が今にもこちらに向きそうで、震え上がりたい気分だった。今日からは応接間で掃除をする度、胆の冷える思いがすることだろう。
この絵には、不思議な伝承があってね
ケストナー卿は、コートニーの蒼褪めた顔に気づかず絵に見入っている。
絵の前で、一心に祈りさえすれば、どんな願いでも聞き届けてくださるそうだ。
聖人の奇跡が込められた絵なのだと商人は確かに言っていた。
嘘かまことか、定かではないが――
私は信じる気でいるのだ。
一つ、叶えたい願い事があってね
旦那様の願い事とはどのような……?
庭の草花のことだ。
元気がないのがかわいそうでね、恵みの雨を願っていた。
雨が降れば草花も活気を取り戻すだろうからね
聖人の肖像はぎょろりと一点を睨んでいる。
それを背に、卿は振り向き、年若い小間使いに尋ねた。
コートニー、お前ならどうするだろうね。
この絵の言い伝えを信じるかね?
尋ねられてコートニーは唇を結んだ。
こんな不気味な絵を信じる気には到底なれない。聖人と言うならもっと美しい描かれ方をしていてもおかしくないはずなのに、この肖像には不気味だという思いしか持てなかった。
だが、コートニーには叶えたい願いもあった。
あの雨の夜に出会った、金髪の青年のことだ。
彼ともう一度出会えたなら、もう一度手を取り合い、踊ることが出来たなら。
それはごくささやかな願いだったが、叶えようのない願いでもあった。
旦那様、私は信じます
そうか。
お前は優しい子だね、コートニー
ケストナー卿はうれしそうに笑み、その後でもう一度尋ねる。
ではもしお前なら、この絵には一体どのようなことを願うのだろうね
ええと……
コートニーは答えなかった。胸裏にある願いを卿の前で口にするのは、あまりにも出過ぎたことのように思えた。それにいささか気恥ずかしい。
だがやはり、内心では願わずにいられなかった。
もし叶うなら、あの人ともう一度会いたい
聖人の肖像は、コートニーの胸のうちを聞いただろうか。
相変わらず不気味に、ぎょろりと瞠目していた。
あくる日の午後、コートニーは荷馬車に乗り込んでいた。
ケストナー卿の屋敷から町までの道を、硬い御者席の端に腰掛けて、がたごと馬車に揺られていく。時折景色を見遣っては、心ここにあらずといった様子でぼんやりしている。
御者席で手綱を取るのは初老の使用人オーランドで、彼はコートニーの顔を横目で見ながら、時折こう零した。
若いもんは余程、町が好きと見える
あら、オーランドは違うの?
誰が好きなもんか、あんな騒がしくて落ち着かんところ。
旦那様だって町に嫌気が差したから、田舎に屋敷をお建てになったんだろうさ
オーランドは、コートニーが生まれるよりもずっと前からケストナー卿に仕えていたのだという。
他の者よりも忠誠心に篤い男だったが、いささか偏見持ちでもあった。
町の人間なんてろくなのがおらん。
旦那様のところへ挙って現れる意地汚い商人どもを知ってるだろう。
旦那様が美術品に目のないことを知って、価値があるんだかないんだかわからんものを、いかにももったいつけて売りに来るんだ
それもそうだけど……
コートニーは押し黙った。オーランドの話は概ね事実に沿っていたが、気持ちが否定したがっている。町の人間が全て信頼に値しないような者ばかりだとは思いたくなかった。
それに、あの青年だって町の人間だ。
わしはまだ見とらんが、酷いらしいじゃないか、応接間の絵
ぼやくオーランドが次に槍玉へ上げたのは、例の聖人の肖像だった。
薄気味悪い男の顔がでんとあって、じろりと瞠られているようで、掃除もしづらいと皆に聞いたぞ。
どうなんだね、コートニー
ええ……確かに、きれいな絵ではないわ
旦那様はお優しい方だが、人も好過ぎるんだ。
商人どもの魂胆にまんまと引っ掛かって、薦められれば何でも買い込んでしまうんだからな
……
コートニーは何も言えなくなり、強い風の吹いてくる方角を眺め遣った。
埃っぽい風の向こうには、黒雲が広がり始めている。
太陽が雲に遮られたのも、久方ぶりのことだった。荷馬車が行く街道はからからに乾き切り、あちこちがひび割れている。馬車を弾く栗毛の馬が、蹄を鳴らす音まで乾いていた。雨が降るのを待ち望んでいるのはケストナー卿の庭園だけではなかった。
今夜辺り、雨になるかもしれないわね
ああ
旦那様はあの絵に、雨が降るようお願いなさったのよ
あの絵に? 何だってまた
あの絵は、願い事を叶えてくれる絵なんですって。
旦那様があの絵に雨が降るようお願い事をなさったの、そうしたら今日になって雲が掛かり始めたし、風も出てきたでしょう。
あの絵のお蔭よ、きっと
そんな上手い話があるもんかね。
あんなもんに願掛けなんぞされたら、雨どころか嵐になるかもしれんぞ
とことん色眼鏡を外さないオーランドに、コートニーは言って聞かせるのを諦めた。
やがて町の景色が見えてきて、ようやく気分が晴れてきた。長い時間馬車に揺られ、硬い座席と石頭のオーランドに苦痛を感じつつも町へ連れてきて貰ったのには理由があった。
人里離れたところに建つケストナー卿の屋敷には、たびたび美術品を抱えた商人たちがやってきた。しかしそういった者たちが関心を持っているのはあくまで卿の金庫のみで、使用人たちが買い物をするなら、わざわざ町まで出て行かなければならない。給金を貰った次の日には、手の空いている者が皆の分まで買い出しに向かうのが通例となっていた。
コートニーはこの日の為、自分の仕事を猛然と片づけた。そして今回は自分が町に行きたいのだと、皆にそれとなく訴えた。
若い娘の町行きに使用人頭はあまりいい顔をしなかったし、同道するオーランドも感心しないといったふうではあった。しかし、乗り心地の決していいとは言えない馬車に長い時間揺られて、騒がしく埃っぽい町まで出ていこうなどという物好きは、コートニーくらいしかいなかったのだ。
かくしてコートニーは町までやってきた。
あの不気味な聖人の絵が、たった一つの願いを叶えてくれることを祈りながら。