――あの

……!

 青年が顔を上げた時、コートニーははっとした。
 期せずして目が合う形となり、慌てて逸らす。

 しかめっ面を見られたかもしれない。雇われたとは言え楽団員たちもまたこの屋敷の客人である。客人と使用人、どちらの立場が上かは明白だろう。
 青年はちらと笑ってみせた。

あなたは、踊りはお好きですか?

は……?
どうして、そのようなことを?

いえ、そうだったらいいな、と思ったんです。
あなたが踊りの好きなお嬢さんだったらと

理解しがたい人だわ……

 こんな夜遅くにふらふら出歩いていたかと思えば、掃除の邪魔をするようにずっと留まり、訳のわからないことばかりを言ってくる。
 そういえば現れた時からいささか挙動不審だった。眠れなくて、という弁明も今一度疑う必要もありそうだ。

 今も青年の頬は上気していて、底冷えのする夜だと言うのに額には汗が浮かんでいる。不審だ。

先程、この広間の前を通りかかった時です。
初めに見えたのは、あなたの姿でした

あなたの姿は目を惹いた。
ここには美しい調度や、煌びやかなシャンデリアや、大きな窓があるというのに、まず何よりもあなたの姿しか見えなかった

 青年は饒舌だった。普段はそうではないのだろう、熱に浮かされた声は時々上擦り、僅かに躊躇う時も見せた。眼が泳ぐことも度々あった。
 それでも告げる言葉は止まらなかった。

子猫のように軽やかで、柳の木のようにしなやかで……あなたの服の裾が翻った時、ふと思ったんです。
舞踏会であなたが踊れば、僕はきっと惹きつけられていただろうと

……

 青年から向けられているのが誉め言葉である、という事実に、コートニーはようやく気づいた。

 いや、更に言えばただ誉めているだけではないのだろう。もっと違う意味が、異なる側面がある言葉だ。こんな気取ったやり方で向けられたのは、垢抜けない村娘のコートニーには初めてのことで、何よりも戸惑いが勝った。

……あの

……

 何と切り出すかを決めないままに口を開けば、青年の目に制された。
 その瞳は、今宵晩餐会で見掛けた麗婦人が身に着けていた宝石に似ていた。

僕は楽士です。
いつもなら僕が奏でる音楽で人々が踊るのを見ている、それだけで満足でした。しかし今は、あなたには違う。
あなたと踊りたいと思った

あなたが踊るのを傍で、誰よりも近くで見てみたいと思った。
あなたが踊る時、あなたの手を取るのが僕以外の男でなければいいと思った

 青年が深く、息を吐く。そして言う。

だから尋ねました。
あなたは踊りが好きですか、と

……

 コートニーは目のやり場に困り、大理石の床を見つめていた。顔が映るくらいに磨き上げられる予定のそこも今は曇り、自分の影と青年の影だけが伸びていた。別に見ていても面白いものではなかったが、青年の白い頬が赤々と燃えているさまを見ているのも難しいことだった。

 けれど次には顔を上げて、コートニーは青年に微笑んだ。

ええ、とても好きよ。
この大広間では、踊ったことがないけれど

 樫の木の箒が、壁に立てかけられた。

 コートニーの前で楽士の青年が丁寧に一礼する。

ご婦人、一曲踊っていただけますか

 差し出されたのは白く、綺麗な手だった。
 フィドルを弾くのに丁度いいだろう、器用そうな指が目に入る。

ええ、喜んで

 躊躇わずにコートニーはその手を取った。
 白さの割に温かい手に誘われるまま、大広間の中央へと歩み出す。
 辛うじてそこだけ掃かれていた空間に、今、ふたりの靴が足音を重ねた。

 最初の一歩を互いに踏み出す。
 靴底が磨り減った編み上げ靴は、すかさず古い革靴の爪先を踏んだ。

あ、ごめんなさい

大丈夫

久し振りだから、足が動かなくて

 コートニーははにかみ、繋いでいた手に力を込める。

僕も見様見真似ですよ

 ふたりはゆっくりと踊り出す。
 視線は柔らかく交ざり合い、時々逸らされる。触れ合うのは手だけ。なのに、こんなにも近くにいる。
 吐息が掛かりそうな距離。
 鼓動が聞こえそうな距離。
 初めて会った、名も知らない人と手を重ね、視線を送り、身体を預ける。

 大理石の床にこつこつと靴音が刻まれる。
 楽団の伴奏はないけれど、決して無音ではない。寝静まった屋敷の中にひっそりと響いている。吐息の漏れる音、息を吸う音、足を踏んでしまって、くすくす笑う声。

 青年の金髪と、コートニーのスカートが揺れる、翻る、弧を描く。
 唇には微笑み。瞳には輝き。着飾ってはいないふたりは、しかし互いを穏やかに見つめている。目の前の人を見つめている。
 ふたりの舞踏を眺める者はいない。ただ宴の名残として置かれたままのテーブルと、椅子と、シャンデリアとがここにある。
 窓の外は闇。深い、深い闇。夜明けの時はまだ遠い。

 くるりと回転し、髪とドレスの裾とが揺れた後、コートニーは青年に身を寄せてそっと囁いた。

あなた、もしかして魔法使い?

まさか。どうして?

だって、私に夢を見せてくれたから

 そう、これは夢だ。
 本当なら温かいベッドの中で見る予定だった夢だ。
 夢の中では着飾った自分がいて、華やかな宴が行われていて、この痩せた腕を引いてくれる素敵な人がいるはずなのだ。

 ベッドで見る夢ならば望むことは全て叶っただろう。だがここには着飾った自分はいないし、華やかな晩餐会は終わってしまっている。コートニーが着ているのお仕着せのドレスだ。
 今、この痩せた手を取っているのは素敵な青年だった。夢見ていた想像の人よりは頼りなく見えても、彼の手はとても温かく、彼の目はとても優しい。そして彼に導かれて踊る一時は楽しく、幸福だった。
 幸せな夢だった。

いっそあなたの為、魔法が使えたらよかった

あら、願いを叶えてくださるの?

もちろんです。
あなたの望みなら何でも叶えて差し上げたい

そうね、じゃあ

 お伽話の一場面を思い起こす。
 叶えたい願いはある。夢はある。けれど。

この大広間をぱっと綺麗にしていただきたいわ

しっかりしているんですね

ええ、お蔭様で

 歳若い娘が住み込みで働くには芯の強さと賢さも必要だった。コートニーも既に幼くはない。

 ただ、もしも――。
 もしも、夢が叶うなら。
 今のこの一時だって、彼と踊るこの瞬間だって十分に夢のようだ。けれど、もしももうひとつだけ夢が叶うなら。
 望むのは、深い眠りだ。
 闇の帳が屋敷を覆い尽くし、夜明けの時が訪れないように。皆が寝静まり、今しばらくは目覚めないように。もう少し、もう少しだけ、ふたりで過ごす時が続きますように。
 闇より深い穏やかなる眠りを、もう僅かの間だけ、私と、彼以外の全ての人に。


 静かな雨音が響いて、ふたりは同時に窓の外を見た。
 闇の向こうから降り始めた雨が、大きな窓ガラスを洗い流していく。その澱みない雨音は眠りに誘う子守歌のようだった。

随分降ってきたみたい……

 コートニーが声を発すると、引き戻すように青年は手を握り締め、顔を覗き込んできた。

酷い降りになればいいのに、と思います

まあ、どうして?

そうなれば帰りの道が塞がり、もうしばらくこのお屋敷へ留まることができますから

そう……そうね、本当に

 コートニーも同じように望んでいる。
 しかしそれもまた夢だ。夢からはいつか醒めてしまう。夢には終わりが存在する。この瞬間も永遠ではないだろうし、いつまでもと望んだところで到底叶うはずがない。

 だからせめて望むのだ。
 もう少し、もうしばらくだけ。
 静かで深い眠りの時が、辺りを包んでいてくれるように。
 踊り続けるふたりだけが、この夢を見ていられるように。

 青年が温かい手をぐっと引き寄せると、コートニーはたちまち彼の腕の中に収まった。
 呼吸と鼓動と、熱を感じる至近距離。

……

……

 視線を重ねていたのはほんの数瞬だけだった。
 どちらからともかく目を伏せて、顔を寄せ合う。
 そして――。

……

……

コートニー、コートニー!
この有り様はなんだい、ちっとも片づいていないじゃないか!

あっ!?

 雨に濡れた窓ガラスをびりびりと震わせるような声が、大広間に響いた。
 現れたのは使用人頭だ。険しい顔を向けて怒鳴る。

怠けていると夜が明けちまうよ!

 しかし直後、ぱっと身を離したコートニーと青年を認めるや否や、途端に呆れたような表情を浮かべた。

何やってんだい、こんな散らかってるところで

 その一言でコートニーの夢はすっかり醒めてしまったが、それでも彼女は隣に立つ青年の、上気した頬を横目で見ながら、夢の名残をまだ探していた。

……本当に、この人が魔法使いだったらよかったのに

……

 青年の弱り切った顔と、固まった直立不動の姿勢を見るに、それは叶わぬ望みのようだ。大広間の掃除は、きっと夜明けまでかかるだろう。

 願わくは、人々に静かで深い眠りを。掃除が全て終わるまで。

寝静まれ、今は闇より深く(2)

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