目の前に立っているのは、ケストナー邸使用人行きつけの雑貨店だった。古くこじんまりとした店構えの前で、コートニーは一度振り返る。
目の前に立っているのは、ケストナー邸使用人行きつけの雑貨店だった。古くこじんまりとした店構えの前で、コートニーは一度振り返る。
……
強い風の吹く町並みの中、自然と視線がさまよい出した。
灰色がかった町並みの向こうがどうなっているのかをコートニーは知らない。訪れたことがあるのはこの店の立つ通りくらいのものだけだった。町に何軒もあるという劇場の、その中の一つのありかすら知らなかった。
この町並みのどこかには、あの青年がいるのだろうか。そう思うとコートニーの胸は高鳴ったが、捜しに行くことが出来ないのでは切なさが募るだけだった。
町嫌いのオーランドを外に残し、コートニーは雑貨屋に足を踏み入れた。店内に並ぶ商品は、ケストナー卿の屋敷にある美術品よりも強く、年若い娘の心を惹き付けた。色とりどりの織物やリボン、美味しそうなお菓子、ごく安価な装身具などはコートニーの興味を引いた。
だからこそ、すぐには気付けなかった。
店の外の騒がしさに。強い風に紛れて聞こえてくる、誰かの叫び声とざわめき、そして馬のいななく声に。
コートニーも、はたと品選びを止める。
ドア越しに聞こえてきたのは、ざわめきと誰かの――大変聞き覚えのある誰かの叫び声。そして、馬の声だった。
まさか……オーランド?
時折ドアを叩く風は、だんだんと強さを増していた。
本当にあの馬が怯え出してしまったのだろうか。コートニーは俄かに不安を抱いて店の外を覗いた。
覗いてみて、心臓が止まりそうになった。
店の前の通りには人垣が出来ていた。
緊張と恐怖に凍りついた人々が視線を向けているのは、通りの中央、荷馬車を引いたまま身をよじって暴れる栗毛の馬と、その手綱を必死に引いているオーランドの姿だった。
こら、どうした、おとなしくしろ!
オーランドは険しい形相で手綱を放すまいとしている。しかし栗毛の馬はオーランドの支配を振り払おうとしているのか、高くいななきながら盛んに身を振るった。
コートニーは遠巻きに取り囲む町の人々を押し退け、掻き分け、通りの中央まで出る。
老いたオーランドは悪戦苦闘していた。手綱を何度も引いていたが、栗毛の馬は興奮した様子で暴れるばかりだ。引いたままの荷馬車をがたがた言わせながら、オーランドを振り払おうとしている。
オーランド!
コートニーが再び叫んだ。
慌てて駆け寄ろうとすると、オーランドはぎょっとした様子でそちらを見、すかさず手を振るった。
コートニー、来てはいかん!
危なっかしい娘に気を取られたオーランドは、次の瞬間、手綱に引きずられて地面に倒れ込んだ。
土埃とどよめきが上がった。
オーランドの必死に伸ばした手から、手綱が呆気なく離れた。
自由を得た暴れ馬は勢い余り、荷馬車を大きく振り回した。尚も止まらず、通りを真っ直ぐ――飛び出していたコートニーの方へ猛然と駆けてくる。
えっ!?
コートニーは大急ぎで踵を返し、避ける為に走り出そうとした。
しかしその時、踵の磨り減った靴が、乾き、踏み固められた道の上をつるりと滑った。
コートニーの目の前で、乾いた地面が引っ繰り返る。
強かに肩を打ったコートニーは、咄嗟に目を閉じた。痛みのせいではなく、近付いてくる馬の蹄の音に、覚悟を決めてしまう為に。
最悪な最期だと思った。
たった一つの願いも叶わないまま、馬に蹴られて死ぬなんて、涙すら出ない悲惨な運命だ。そうして瞼の裏に、あの青年の優しい面影が過ぎった。
あの人にもう一度会いたかった。
酷い目に遭う前に、せめてもう一度だけでも会いたかった。
強く、強く、そう思った。
その時。
通りに満ちたどよめきと馬のいななきに、割り入るように聞こえてきた。
柔らかなフィドルの音色が聞こえた。
奏でられるのは優しく、穏やかな曲。恐怖と絶望におののく心を、溶かすように響いてくる。
コートニーはしばらくの間、ぼんやりとその音色に聴き入っていた。聴き慣れないのに優しく、入り込んでくるような旋律を享受していた。そうしてぼんやりとしたままふと、あの青年のことを思った。そう言えばあの青年はフィドルを弾くのだと聞いていた――。
その次に考えたのはもう少し現実的なことだ。
あれからしばらく待っているのに、一向に馬に蹴られる気配がない……どうして?
さすがに不審に思い、やがてコートニーは目を開けた。
すぐに見つけた。
灰色の町並みの中央で、まるで人の――馬の変わったようにおとなしく座り込む栗毛の馬と、その傍らでフィドルを弾く、線の細い青年。
コートニーは地面に倒れたまま瞬きをした。
見間違いではないかと思った。或いは幻ではないかとも。しかし幾度となく瞬きを繰り返したところで、眼前の光景は変わらなかった。あの青年が穏やかにフィドルを弾いていた。
最後の旋律を弾き終えると、青年は軽く一礼し、それからおとなしくしている栗毛の馬に歩み寄る。馬はそのまま、おとなしいままでいた。
よしよし……いい子だ
……あんたは何者だね。
どうしてこいつを静められた?
誰よりも早く、オーランドが声を上げた。
僕は劇場の楽団で、フィドルを弾いている者です。
力になれて何よりです
その控えめな言葉と、フィドルたった一つで事態を収めた見事さに、通りに集った人々は感嘆の声を漏らした。
青年は居心地悪そうに笑んでから、コートニーの方に向き直る。
コートニーは肩の痛みをおして立ち上がった。
目の前にいる青年は、ずっと会いたかったあの人だ。それがうれしくて堪らないはずなのに、他のたくさんの感情が溢れてきて、何と声をかけていいかわからない。
お怪我はありませんか
ええ……
懐かしい声に尋ねられ、コートニーはぼんやりと頷く。
すると青年は胸を撫で下ろし、言葉を継いだ。
よかった。
貴方が馬車の前に飛び出してきた時は、どうなることかと――せっかくまた出会えたのに、もう会えなくなってしまうのではないかと無我夢中で
……貴方は、やっぱり魔法使いなの?
え?
だって、私を――私たちを助けてくれた
ようやく、正常な思考力が戻ってきた。
彼は魔法使いではないはずだった。そのことはあの夜の記憶と共に、コートニー自身がよく知っていた。
だけど彼はたった今、間違いなくコートニーと、あの栗毛の馬と、それからオーランドとを救ってくれたのだ。フィドルの音色たった一つで。
それは魔法と呼ばず、何と言おう。
残念ながら、僕は魔法使いではありません
でも地面に倒れた貴方の姿を目にしたあの時、貴方の為に出来ることをと思ったら、自然とフィドルを弾き始めていたのです。
もしかすると、貴方の為なら魔法が使えるのかもしれません
そう言った後で青年は、片手にフィドルを提げ、もう片方の手ではコートニーの、埃にまみれた手に触れた。
あの夜と同じ、温かい手をしていた。
またお会い出来てよかった。
今度こそ、貴方の為に魔法が使えてよかった
コートニーは今頃になってどぎまぎし始めた。
あの、ありがとうございます
感謝を述べてた後、コートニーは黙り込んだ。
そんな彼女の手を取ったままの青年も、じっと黙り込んでいる。もしかすると同じように、話したいことがわからなくなってしまったのかもしれない。
そこに割り入るように馬のいななきが聞こえた。
はっとして顔を上げた二人は、二人を見つめる栗毛の馬と、呆れた顔をしているオーランドと、通りに集う人々の好奇の視線に気付いてしまう。
全く最近の若いもんは、人助けのついでに女を口説くか
石頭のオーランドがぼやくと、コートニーは慌ててかぶりを振り、青年から手をするりと話した。
すると青年もあたふたと語を継ぐ。
あなたに、本当は話したいことがありました。
でも今は上手く言えそうにありません、なので手紙を書きます。
ケストナー様のお屋敷に送れば、貴方のところに届くでしょう?
ですからどうか僕に、貴方の名前を教えてください
コートニーはオーランドの目を気にしながら、早口で自分の名前と青年に伝えた。
――手紙、お待ちしています。
私も貴方に、お話したいことがあったのです
もう一言、小声で添えて。
それから一日と経たぬうち、町と、ケストナー邸のある一帯には、容赦のない嵐がやってきた。
昼間のうちから真っ暗な屋敷の中、蝋燭の明かりを頼りに、コートニーは花瓶に水を足していた。
元気になってよかったわね、貴方たちも
ちょうどその時、廊下の奥の応接間から、黒い布を掛けられた大きな物が運び出されてきた。雇われ男たちが三人がかりで運び出すのは、大きく、四角く、平たいものだ。
コートニーがそれを見つけてはっとすると、廊下に現れたケストナー卿が、弱り切った顔で話しかけてきた。
とんでもないことだ、雨を願ったら、嵐がやってきてしまった。
もう三日は続くと聞いて、私はすっかりあの絵が恐ろしくなってしまったよ
確かに卿の願いはそれだった。庭園の為に、雨が降るように。
しかし現実に訪れたのは嵐で、庭園も間違いなく被害を受けるだろう。卿の願いは捻くれた形で聞き届けられ、喜べない結果となってしまった。
昨日の町での騒ぎも、嵐の前の風のせい、ひいては私のせいではないか。
オーランドには悪いことをしてしまった。
コートニー、お前は何も願ってはいないだろうね?
えっ……
あの絵は危険だ、下手に願い事をするとおかしな叶い方をするらしい。
私はもう心底気味が悪くてね、あれは商人に引き取らせることにしたよ
旦那様、私は、平気です
コートニーは曖昧に答え、ケストナー卿から安堵の笑みを引き出した。それから主人の肩越しに、運び出されるあの肖像画を見送った。
黒い布を掛けられた不気味な聖人は、次はどこへ行くのだろう。そこでもまた、こんな風に願いを叶えていくのだろうか。願う人の予期せぬ形を、わざと選ぶようにして。
そうだ、嵐が止んだら気晴らしにまた舞踏会でも開こう。
この間の楽団は素晴らしかったな。
また町から彼らを呼んで、盛大にやるのがいい
その言葉を聞いた時、コートニーの心臓は高鳴った。
願いは、また叶うのか。もしかするともう一度、コートニーの予期せぬ形で。あの青年から手紙が届くよりも先に、あの青年と会うことが叶うのだろうか。
コートニー、皆にも伝えておいておくれ。
嵐が過ぎたら、宴を開こう
はい、旦那様
雨風は強く、屋敷へと打ちつけ、今しばらくは止まないように思えた。
しかし永遠に留まり続けることはない。
願わくは花の笑うように、一刻も早く、ここに穏やかな日の訪れんことを。