この大広間にあるテーブルも、椅子も、蝋燭の燃え滓も零された食べ物もシャンデリアから落ちた埃も全て、ひと吹きで窓の外、夜の闇の彼方まで飛んで行ってしまえばいいのに。
星の光さえ見えない夜だから、何もかもを飲み込んでくれるだろうに。
けれどそんな願いは叶うはずもなく、宴の後の大広間に、コートニーはひとり立ち尽くしている。
手にした樫の木の箒よりも、細く見える腕を強張らせ、散らかった大広間をじっと睨みつけている。
もしも、一つだけ願い事が叶うのなら……
お伽話に出てくる魔法使いのように、溜息ひとつで全てを吹き飛ばせたらいいのに
この大広間にあるテーブルも、椅子も、蝋燭の燃え滓も零された食べ物もシャンデリアから落ちた埃も全て、ひと吹きで窓の外、夜の闇の彼方まで飛んで行ってしまえばいいのに。
星の光さえ見えない夜だから、何もかもを飲み込んでくれるだろうに。
けれどそんな願いは叶うはずもなく、宴の後の大広間に、コートニーはひとり立ち尽くしている。
手にした樫の木の箒よりも、細く見える腕を強張らせ、散らかった大広間をじっと睨みつけている。
これ全てを一人でなんて、気が遠くなりそう…
ほんの数刻前、この大広間では華やかな晩餐会が催されていた。
屋敷の主ケストナー卿は音楽を好み、舞踏を好む人だった。客人を多数招いての晩餐においては、はるばる都から楽団を招き、広間の中央を開いて、舞踏の場をも振る舞うのが常であった。人々はきらびやかな衣装を身に纏い、楽団の奏でる旋律に合わせて踊り、舞い、笑いさざめく。シャンデリアの目映い光が照らす、それは夢のような空間だった。
コートニーの瞼にはまだその光景が焼きついている。目を閉じれば何度でも思い出せる。けれどそこに、浮かび上がる情景の中に彼女はいなかった。
使い古したお仕着せのドレスでは、踊ったところで美しくも何ともない。
貴婦人達の衣装はたっぷりとしたドレープが、まるで風に揺れる花びらのように美しかった。
宝石を光らせて踊る婦人の中にはコートニーと歳の変わらぬ者も大勢いて、傍で眺めていれば嫉妬よりも強く、焦がれる感情を覚えた。
あの御婦人方と私は何が違うのだろう。
薔薇色の頬とドレスと宝石。彼女達が当たり前のように持ち合わせていて、私には手にすることも叶わないのは何故だろう……
……なんて、考えるまでもないか
答えのわかり切っている疑問を追いやると、コートニーはのろのろと大広間の中央へと向かった。
人々が眠りに落ちて夢を見始める頃、静まり返った宴の後始末をするのは彼女一人の仕事だった。
他の使用人らは客間を占拠した方々の世話に追われて、それどころではないらしい。
がみがみ口喧しい使用人頭の顔が脳裏を過ぎる度、コートニーは魔法を使えないとわかっていても溜息をつきたい衝動に駆られた。
大広間の清掃をひとり押しつけられた時、使用人の中でも一等の下っ端であるコートニーでさえ堂々と不平を口にしたが、切羽詰まった様子の使用人頭は頑として突っ撥ね、彼女を宴席の名残へと放り込んだ。
そんな頭も今頃は、足りない毛布の調達に駆けずり回っているか、欠伸を噛み殺しながら客人たちの靴を磨いているか、それとも宴に幕が下りて尚、酒盛りを始めようとする一部の貴賓たちに酒肴をせがまれ、厨房で炎と格闘しているか――。
いずれにせよ、こんな夜更けには見たくもない夢だった。
コートニーも怠けているわけにはいかない。
仕方ない、やりますか
様々な宴の残滓を疎み、避け、踏まぬようにと用心しながら、大広間の中央へ辿り着いたコートニーは樫の箒で床を掃き出した。
華やかな舞踏の繰り広げられていたその空間で、コートニーが箒を動かす度、お仕着せの服もドレスのようにくるりと華々しく翻った。
不意に靴音が近づいてきた。
かと思うとそれはコートニーの背後、大広間の入り口で止まる。
掃除の手を止め振り向けば、そこには人影が立っていた。
煌々と照らされた明かりの下で目映く光る銀髪の、見慣れぬ青年だった。
どこか呆けたような表情でコートニーを見ている。
……どなた?
青年は佇まいには品があったが、身に着けているもののくたびれ具合のせいか、あるいはぼんやりとした顔つきのせいか、身分の高い人物には見えなかった。
コートニーは尋ねつつ、早くも彼を怪しみ始めていた。主の招待客ではないように見えたからだ。
あ、の
青年は、はっとしたように姿勢を正した。
いささか慌てているようでもあった。
眠れなくて散歩をしていたんです、すみません
散歩?
こんな立派なお屋敷で寝泊りするのは、初めてで
……わかる気がする
わずかながら、コートニーは青年の言葉に親近感を覚えた。
ケストナー卿の屋敷は絢爛豪華という形容が相応しく、その主には無節操に高価な骨董品を収集する困った癖があった。それらがどれほど高価な品かは使用人頭によくよく言い聞かされているのでわかっている。
二年間住み込みで働き続けて来た自分でさえ、この屋敷の豪奢さには未だ慣れない。数刻前の晩餐会の華やかさが、瞼に焼きつき、離れないように。
ですが、あまりうろうろしていては危険です
え……危険、ですか?
旦那様は猟を好んでいらっしゃるの。
お部屋にはぴかぴかに磨かれた猟銃が並んでおりますのよ。
怪しい人がうろついているなんて聞いたら、嬉々として駆けつけておいでになるわ
そ、それは困りますね
でしょう? 早くお戻りになって
もう一度、コートニーは青年をじろりと見た。
真顔と苦笑いの間で、青年は何か次の言葉を探しているようだった。立ち去る気配のないことが訝しい。
ええと……あなたは?
私はこのお屋敷の小間使いです
間髪入れず答えたコートニーだが、妙な質問だとも思っていた。
彼女の格好はどう見ても使用人以外の何者でもない。お仕着せのドレスの上に使い古したエプロンを身に着け、手には樫の箒を持っている。どう見ても晩餐会の出席者ではない。
失礼、晩餐会ではお見掛けしなかったもので
一応おりました。給仕をしておりました
私だって、あなたの顔は存じませんけど。
一体どこのどなたかしら
そうですか、あの、僕は
喉を詰まらせたように話す青年の振る舞いは、やはり不自然だった。針金を入れたように直立不動の姿勢と、上気した白い頬が目につく。平静ではないように見えた。
楽団の者です。
本日はフィドルを弾いておりました
そうでしたか。
……楽団員さん
は、はい!
確か、お泊りは東側のお部屋ですね。
手が空いたらブランデーをお持ちしましょうか
いつになるかはわかりませんけど。
全く、ここの掃除も終わってないのに……早く立ち去ってくださらないかしら
大広間の掃除は夜明けまでに終わらせなくてはならない。こうして言葉を交わしている間にも刻一刻と時は過ぎていく。
手を貸してくれるならいざ知らず、こうして理由もなく留まり続けているのなら邪魔なだけだ。彼には早々に温かいベッドへお引き取り願いたい。
コートニーは内心で顔を顰めていた。
いえ、そういうつもりでは!
楽団の青年は慌てたように手を振り回した。
それから、革靴で一歩、大広間へと踏み込んでこようとしたので、
お気をつけて!
ここは散らかっています、靴が汚れてしまいますから
す、すみません
声は慌てていたが、青年の態度は床の汚れよりも他に懸念があるかのようにそわそわしていた。覚束ない足取りでこちらへ向かってくる。
歩み寄る青年の姿に、コートニーは苛立ちを隠さず尋ねた。
他に、何か御用ですか?
ええと……あなたが、ここのお掃除を?
ええ、そうです
無礼とは知りつつ、コートニーは樫の木の箒を再び動かし始める。
こちらとて温かいベッドが恋しいのだ。憂鬱な事柄でも取りかからなくては、夜の夢にすらありつけなくなってしまう。
今宵見る夢は舞踏会、踊るドレス姿の自分、せめて夢ではそれを叶えたいと望んでいたのだから。
おひとりで?
ええ
それは大変ですね
今夜は皆、てんてこ舞いですから。
お客様の我が儘に振り回されるよりは、いっそ無心になれていいお仕事です
コートニーの答えは、自分では遠回しな嫌味の心算だったが、あまり上手くなかったせいか気づかれなかったなかったようだ。
なるほど……
……もう、よろしいですか?
あ……す、すみません
青年はきまり悪そうに詫びた後、黙り込んだ。
一体、この人は何なんだろう……
黙ったまま去ろうとしない青年に愛想が尽き果て、コートニーは床を掃き出した。
青年はまだ黙っている。身動ぎもせずにここにいる。足元まで箒が迫っても、わざと古い革靴の脇を掃いてみせても反応しない。
疎ましい。コートニーは鼻の頭に皺を寄せ、箒を動かし続けている。その目は大理石の床ではなく、俯き加減の青年を見つめている。
大きなガラス窓の向こうで、ぽつり、小さな雨粒が落ちた。