撫子

はぁ……、はぁ。

 衝動的にとはいえ、フェインリーヴに別れを告げて逃げてしまった……。
 自分の生きてきた道が、果たさねばならない使命と覚悟を、『くだらない』と、そう、完全否定されてしまったから。
 撫子は町の中を駆け巡りながら、やがて自分のいる場所さえも把握できずに足を止め、その場に膝を着いた。

撫子

違う……。お師匠様はただ、私が背負っている重荷を下ろそうとしてくれただけ。

 フェインリーヴに遠慮せず、その存在を頼れるように、彼はあえて厳しい言葉で撫子を否定しただけ。
 自分も傷ついているが、彼もまた、傷付いている。
 どうすれば良かったのだろう……。
 どうすれば、フェインリーヴを傷付けずに、一人で全てを片付ける事が……。
 ぽたりぽたりと石畳に染み込んでいく雫。
 撫子は、自分の両手を覗き込む。

撫子

お師匠様……。

撫子

え……。今のは……。

 フェインリーヴの事を考えていると、突然凄まじい悪感のようなものが撫子の全身を駆け抜けた。
 初めての感覚ではない。これは、一度覚えた事のある……、人ならざる者の気配。
 何かに、誰かに、自分の心臓を鷲掴まれているかのようなゾッとする心地に、撫子は息を詰まらせる。

撫子

うぅっ……。これは……、まるで。

 元の世界……、あの森に封じられていた妖が解き放たれた時と、同じ感覚。
 まさか、すぐ近くに……、自分が追い求めてきた妖がいるのだろうか?
 苦痛と悪感が撫子を苛んだのは、ほんの僅かな間だけ……。すぐに身体が楽になった。
 一瞬だけ鋭い刃で裂かれたかのような挑発的な気配だったが……、妖らしき気配は消えていない。
 撫子は確信めいた予感を抱き、また走り始めた。

撫子

ここ……、なの?

ユ……、ギ。

 ――間違いない。妖の気配が色濃く感じられる。

 けれど、撫子が目的としている妖の気配とは、違う。ここは、別の何かがいるようだ……。

 何も見えない路地の奥。気色の悪い声が癒義の巫女……、と、途切れ途切れに囁いてくる。

撫子

あの妖じゃなくても、この世界に私の世界で生きていた妖がいるという事は、なんらかの手掛かりになるはず……。

 迂闊に自分の存在を知らせて、相手を刺激するわけにはいかない。撫子は路地の近くに身を潜ませ、闇に喰われている奥の方を窺う。
 ほんのりと淡い光が暗闇の中に居場所を作り、その中に子犬程の大きさをした生き物が現れた。
 呪の意味を抱く紋様……、あれは。

撫子

狐の妖……。

タマ

出て来い……。癒義の巫女。

撫子

……。

タマ

案ずるな。この町の者に危害を加える真似はせぬ。出て来い。

 愛らしい狐の妖は、その姿に反して尊大な物言いを隠れている撫子へと向けてくる。
 見たところ……、あまり力の強い妖のようではないのだが、態度だけが異様にでかい。
 

タマ

出て来いと言っておるだろう!! 我が主、九尾様の使者たる我に無礼千万!!

撫子

お前如き小さな妖に用はないわ。九尾は、凶獄の九尾は、どこにいるの? 答えなさい。

タマ

資格なき者に我らが偉大なる九尾様はお会いになりはせん!! ……だが、使(つか)わされた以上、主様からの伝言だけは届けてやる。額を地に擦り付けて賜(たまわ)るが良い!!

 戦いの最中にこんな妖を見た覚えはない……。
 けれど、態度だけは無駄に尊大な妖は、あの九尾の使者だと言い張っている。
 撫子は喚く子狐の後ろ首を問答無用で掴み、険しい視線で睨みつけてやった。

撫子

お前が使者として寄越された事は理解したわ。でも、さっき一瞬だけ感じたあの気配は、凶獄の九尾のもの……。お前だけを残して去ったとみていいのかしらね?

タマ

ふふふふ。貴様のような小娘、いつでも九尾様の贄に出来るからな。

撫子

で……? 九尾からの伝言とは何なの?

タマ

『今の貴様ではこの九尾に遠く及ばず。逃げるか、全てを忘れてこの地で生きるか、……修行を積んで挑み直すかのどれかにしろ』と仰せだ。

 撫子を下に見ているからこその傲慢な言葉……。
 宿敵たる凶獄の九尾に、自分は完全になめられている。腕の中でニンマリと嘲笑を纏う子狐の挑戦的な視線を受けながら、撫子は眉根を顰めた。
 敵の情けなどいらない……。逃げる選択肢など、ない。

撫子

九尾はどこにいるの? その言葉を後悔させてやりに行くわ。

タマ

九尾様の気遣いがわからぬとは、愚かな娘よ。初代の癒義の巫女ほどの力もない貴様では、すぐに我ら妖の贄となろう。まぁ、乳のない小娘など、喰らう価値もないがな。

撫子

今すぐ丸焼きの刑に処してやりましょうか? このチビ狐!!

タマ

誰がチビじゃ!! この貧乳小娘が!!

撫子

着やせするタイプなのよ!! このチビ!!

 なんで雑魚極まりない妖から胸の事を言われなければならないのか!!
 撫子はチビ狐の毛並みをぐしゃぐしゃに掻き回して罵りながら叫び続ける。
 まだ自分は成長過程、望みは皆無じゃない!!
 ……と、撫子が自分の状況や時間帯を忘れてわめいていると。

フェインリーヴ

近所迷惑も大概にしろ!! 
この馬鹿弟子が!!

撫子

きゃあああっ!! お、お師匠様……、な、なんでここに!?

 強烈な拳骨の後に振り向けば、そこには自分の方こそ近所迷惑極まりない怒声を浴びせてくるフェインリーヴの姿があった。
 撫子の腕の中からチビ狐を奪い、容赦なく魔力で作り上げた檻の中へと封じ込めていく。

タマ

ごらあああああああああ!! 何をするか!!この下等な人間めが!!

フェインリーヴ

やかましいわ!!

撫子

お、お師匠様……。私、絶縁を叩き付けたんですよ? なのに、どうして……。

フェインリーヴ

俺は出て行く許可を出した覚えはない!! この世界にいる限り、お前は俺の……、下僕だ!!所有物だ!! 逃げられると思うなよ!!

 ま、また下僕とか、所有物とか言った!!
 けれど、あの時に見た怖いお師匠様ではない。
 安心できるし、何故だか迎えに来てくれた事が嬉しいと、また泣きたくなって……。
 首を振る撫子の手を、フェインリーヴの温もりが強引に鷲掴んで連行し始める。

撫子

か、帰りません!! そ、その妖を渡してください!! 凶獄の九尾に繋がる手掛かりなんですから!!

タマ

グルルル!! 出せぇええええ!! 我は九尾様の使者なるぞ!! この下賤な外道めが!!

フェインリーヴ

黙れ、もふもふ生物が!! 生憎と今の俺は容赦なく仕置きが出来る機嫌の悪さだ。――撫子、お前も駄々を捏ねていないで、行くぞ。

撫子

お、お師匠様っ。

 その場に踏み止まろうとする弟子を、フェンイリーヴは苛烈さを抱いた眼差しで睨み付けたかと思うと、路地の壁へと彼女を追いやり、右手を乱暴に叩きつけた。

フェインリーヴ

逃がさん……。絶対に、な。

撫子

……。

 また、あの怖い気配を前にするのかと思った。
 恩人を裏切り、拒絶する自分を怒鳴りつけるのかと。
 ――しかし、フェインリーヴは悲痛な表情で切なげに声を絞り出した後、言葉を失ってしまった撫子を連れて路地を出た。

10・路地の妖(※光効果注意)

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