撫子

あ痛たたたたたたたたた!! お、お師匠様っ、も、もうっ、痛ぁああああっ!!

フェインリーヴ

好きなだけ叫べ。外には聞こえないように防音の結界を張ってあるからな。

撫子

お師匠様の鬼畜ぅううううううううう!!

 年若い娘が閉じ込められたその一室からは、外に漏れる事はないものの、中では阿鼻叫喚の絶叫が木霊していた。寝台に放り出され、うつ伏せ状態の上にフェインリーヴが体重をかけてのしかかり、嫌だ嫌だと暴れる彼女の片足を鷲掴み、――足裏をグリグリグリ!
 わざと痛がるように狙いをつけられているのだろうが、鬼畜を通り越して、ただただ大人げないお師匠様である。大人しくこの部屋で夜を過ごすというのなら解放してやろう。そう脅されても、撫子は懸命に痛みと闘いながら抗い続ける。

撫子

わ、私が行かないと、あの妖かどうかわからないじゃないですかっ!! 痛っ、痛だだだだっ!!

フェインリーヴ

特徴を教えておけばいいだろう。――うりゃっ。

撫子

ぎゃあああああああああ!!

 足裏のツボマッサージは、撫子が暮らしていた世界においても良いと聞くが、流石にこの痛みは酷過ぎるだろう!! 涙目で四肢をばたつかせながらも、ひょろっこ男子(撫子的感想)と称したお師匠様は、圧倒的な力で彼女の抵抗を意味のないものへと変えている。恐らく……、人体のどこを押さえれば動きを弱体化出来るのかを熟知しているのだろう。
 そのドS極まりない仕打ちが終わる頃、撫子は疲労困憊で暴れる力さえなくしていた。

フェインリーヴ

さてと、俺は湯を浴びに行ってくる。その間に妖の特徴をこの紙に書いておけ。絵でも構わんぞ。それではな。

撫子

はぁ、はぁ……。は、はい。

 ご丁寧に扉の鍵プラス、強力な結界まで張って出て行ったフェインリーヴを見送ると、撫子は毛布の中に潜り込んで、その身を丸めた。
 はい、とは答えたものの、まだ心の中では白旗を挙げていない。どうにかして……、目撃されたという魔物を捜し出し、目的の妖と同じ存在かどうかを見極めなくては……。
 毛布から顔を出し、撫子は室内を見回す。
 扉には鍵と結界……。普通に考えれば、出入り口はあそこただひとつ。
 しかし、では窓の方はどうだろう?
 お師匠様はあれでいてたまに抜けている時があるから、撫子が二階の窓から抜け出すとは思わずに、もしかしたら……。
 撫子の顔に、決意の光が煌めく。

撫子

見張るだけだもの……。戦うわけじゃない。

 ジンジンと痛む足の裏の感触を堪え、撫子は窓辺へと向かう。外側への両開きとなっている窓を開き、暗くなっている景色を見回し、地上へと視線を落とす。
 ……このぐらいの高さなら、きっと大丈夫。
 妖との戦いの際には、さらに過酷な状況下で足場を確保したり、飛び渡ったりするのだ。
 撫子は窓の縁(ふち)に足をかけ、一気に飛び降りた。……しかし。 

撫子

えっ!?

 着地は見事に決まった。少々足の裏が痛いが、支障はない。だがしかし、息を吐き顔を上げた彼女の瞳に映ったのは……。

フェインリーヴ

この……っ。

フェインリーヴ

脳筋ドストレート娘がぁあああああああああああああ!!

撫子

おっ、お師匠様!? な、なんでっ、どうして、浴場に行ったんじゃ!! ――痛ぁああ!!

 彼女の目の前に立ち塞がった魔王、ではなく、弟子の思考を完全に読み切っていたお師匠様!!
 優しい月明かりが浮かび上がらせている彼の表情は、凶悪どころの騒ぎではない。
 バキボキと目の前で両手を鳴らされ、女性相手でも容赦のないお仕置きの拳骨をお見舞いされてしまう。
 

撫子

うぅっ……、本気で殴った。あ、頭がへこんだらどうしてくれるんですかあっ!!

フェインリーヴ

やかましい!! どんな男でも本気の力を出せば、そんなモンじゃ済まないんだぞ!! まったくお前は、何故俺の言う事を素直に呑み込まないんだ!!

撫子

だって……。

フェインリーヴ

まだ反論するか……。わかった。お前がそこまで俺に逆らうのなら、俺も主張させて貰おう。

 両手を胸の前で組み、尊大に鼻を鳴らしたフェインリーヴが、その双眸に普段は見られない冷酷な光を浮かべ始める。撫子の事を見下すような悪役極まりない笑みまで追加されて……。

フェインリーヴ

この世界に飛ばされてきたお前を拾って手当てまでしてやったのは誰だ? 住む場所を与え、入浴や食事も問題なく与えられるようにと配慮したのは?

撫子

お、お師匠様、です……。

フェインリーヴ

そうだ。俺はこの世界におけるお前の保護者だが、別の言い方をすれば、所有者、飼い主のようなものだ。

 その長身を屈め、フェインリーヴは酷薄な笑みと共に撫子の顎を指先で持ち上げる。
 この半年間、ずっと一緒にいてくれたお師匠様のそれではない。同じ顔でも、どこか別人のように思えるのは、向けられる気配が氷のような刃の気配を纏っているせいだろうか。

フェインリーヴ

その俺に逆らうという事は、俺の庇護から打ち捨てられ、この世界を彷徨う野良犬的存在になる事と同義……。わかるな? 下僕。

撫子

……。

 残念で可愛いところのあるお師匠様じゃない。
 まるで中身が入れ替えられてしまったかのように……、向けられる気配と視線が、その低い嘲笑の声音が、怖い。
 小刻みに震える撫子を、フェインリーヴが少しだけ乱暴にその腕へと抱き上げていく。

フェインリーヴ

下僕は下僕らしく……。ん?

撫子

う、うぅっ……。ひっく、お、お師匠、様っ。

フェインリーヴ

え……。

 フェインリーヴの前で涙を見せるのは二度目。
 一度目は、癒義の巫女としての生き方を捨てて、このレディアヴェール王国で一人の娘として暮らしてはどうかと言われた時。
 あの時の涙は、悔し涙だった。
 けれど、二度目の今は……。
 この世界で唯一の保護者に凄まじい威圧感を向けられてしまったせいで、親しんだように思えた存在と心の距離が一気に突き放されてしまったかのような……、そんな、悲しみと恐れの涙。
 その光景を目にしてしまったフェインリーヴの表情と動きが、ピタリと止まる。

フェインリーヴ

……撫子。

 撫子はこの時、初めてフェインリーヴの事を怖いと、恐ろしいと感じてしまった。
 自分を救い上げ、生活していく場所や環境を整えてくれた人なのに……。
 フェインリーヴという男を、この半年間でよく知ったと、思い込んでいたのかもしれない。
 恐怖と悲しみを抱き震えながら涙を零す少女を、フェインリーヴは心痛な面持ちで見下ろしている。

フェインリーヴ

お前にとって……、俺は何なんだ。

撫子

お師匠、様?

フェインリーヴ

俺は、お前の保護者で、師匠だろう? 弟子は困った時や道に迷った時は、必ず師匠に教えや助力を乞うものだ……。それなのに、関係ないと突き放すお前は、俺の何なんだ。

 撫子の心を不安にさせる怖い気配が掻き消えたかと思うと、フェインリーヴは悔しそうに、辛そうに、寂しさを湛えた目で彼女の顔に自分の顔を近づけてきた。自分はお前の何だ? と、お前は自分の何なんだ、と……。師匠と弟子でありながら、肝心な時にそれが消え去ってしまうのは、撫子が癒義の巫女だから。その身に課せられた使命(のろい)が、二人の間に壁を作る。

フェインリーヴ

たった半年の付き合いだが、俺は弟子を一人で危険な目に遭わせるほど、情のない奴じゃないつもりなんだがな……。

撫子

お師匠様は……。ごめんなさい。

フェインリーヴ

謝罪も、関係ないという拒絶も、もう聞き飽きた!! 自己満足な自己犠牲精神に溺れるのもいい加減にしろ!!

撫子

――っ!!

 自己満足な……、自己犠牲、精神。
 撫子の胸の奥を、フェインリーヴの正論が刃となって抉り付ける。
 癒義の巫女の一族、その本家に引き取られた撫子は、ずっとその掟に、押し付けられた責務に、呪いの鎖を巻きつけられたかのように縛られ続けてきた。
 一族の者が向けてくる期待と重圧の視線、都の民が撫子に対して抱く、救いを求める願い。
 平気なふりをして、日々努力し続けてきた自分。
 癒義の巫女としての座を、いつか次代に継承させるまでは……、心を強く持たなくてはならないのに。
 自分を射抜くお師匠様の存在は、撫子の決意や覚悟を足場から崩してしまうようなもので……。
 癒義の巫女の立場など何の意味もない、一人の小娘にできる事などたかが知れていると、そう、突きつけられてばかりで……。

撫子

自己満足でも……、一度任された責務は、消えないんです。

フェインリーヴ

何が責務だ!! お前のような小娘一人に背負わせる期待も重責も、高見の見物決め込んでる阿呆共の押し付けでしかないだろうが!!

撫子

阿呆……。でも、癒義の巫女というのは、先祖代々受け継いできた、重要な立場で……。

フェインリーヴ

いい加減に目を覚ませ!! お前はただの小娘だ!! ちょっとばかり力を持っていても、俺からすればひよっこ同然なんだからな!!

 そこまでバッサリ言うか……。
 フェインリーヴの怒声に目を瞬きながら、撫子はどんどん自分の中の自信や存在意義が打ち砕かれていくのを感じる。
 幼い頃から受けてきた一族の教え、癒義の巫女たる者の覚悟、使命への思い。全部、全部……。

フェインリーヴ

お前の背負っているもの全て、俺にとっては、――くだらん!!!!

撫子

――っ!!!!!!!!

 瞬間、撫子の中で眠っていた癒義の巫女としてのプライドが、今まで頑張ってきた努力や我慢の全てが、大爆発を起こすかのようにフェインリーヴへと向けられた。苛烈さを宿した視線で師を睨み付け、撫子はその麗しの美貌へと強烈な頭突きを喰らわせる。

フェインリーヴ

ぐっ!!!!!!

撫子

はぁ、はぁ……。くだらなくなんか、ない。私の歩んできた道は、姉様や皆を守りたいという想いは、全部、全部、大切なものなんだから!!

 弟子からの渾身の頭突きで顎に大ダメージを負ったフェインリーヴの力が緩んだ隙に、撫子は全力でその腕から逃れると、通りの方へと向かって走り始めた。
 

フェインリーヴ

ま、待て!! 撫子!!

撫子

今日までお世話になりました!! もうお師匠様の前には現れません!! では!!

 遠くなっていくフェインリーヴの怒声を耳にしながら、撫子は夜の闇に呑まれていく。

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