撫子

お師匠様、失礼しまーす。

フェインリーヴ

あ痛たたた……。

 レオトから情報を得た撫子は、その足で先に研究部屋へと向かったフェインリーヴの後を追いかけてきた。その途中、傷や筋肉痛に効く湿布薬を王宮内の販売所で買うのも忘れずに。
 部屋に入ると、ソファーに這い蹲り苦痛の声を漏らす残念な師の姿が……。
 まぁ、狼に追いかけられながらの全力疾走は誰でも疲労困憊する事だろう。
 撫子は買い求めた物が入っている袋を手にフェインリーヴの傍に腰を下ろすと、ガサガサと中身を取り出した。

撫子

じゃあ……、まず、お尻の治療からですね。

フェインリーヴ

あぁ、頼む……。ん? 今、尻と言ったか?

撫子

はい。そこが一番お辛いところだろうと思いましたので。

フェインリーヴ

……え?

撫子

えーと、……あぁ、赤くなってる。お師匠様、傷薬を塗りますよ~。

フェインリーヴ

年頃の娘が平然と男の尻を触るなあああああああああああああああ!!

 まだそんな大声を出す体力が残っていたのか。
 ビクリと肩を震わせた撫子が、丸く見開いた目を瞬きながら、傷薬をべちょりとフェインリーヴの尻に塗り付けた。
 元いた世界で術師として、癒義の巫女として暮らしていた撫子は、男性の身体など見慣れているのだ。
 男女の関係に置き換えれば恥じらいも出るだろう。
 だがしかし、今のフェインリーヴはただの怪我人だ。それがなくても、異性として見るには残念な男でしかない。

フェインリーヴ

あ、痛っ!! こ、こらっ、人の話を聞け!!
嫁入り前の娘がだな、あだぁあああああっ!!

撫子

大丈夫ですよ~。効果抜群の傷薬ですからね~。ふふ、それにしても、お師匠様のお尻は可愛いですね~。

フェインリーヴ

ぎゃああああっ!! み、見るなぁあああっ、可愛い言うなぁあああああっ!! 俺の尻が穢されるぅうううううううう!!

 何を人聞きの悪い事を言っているのだか。
 傷薬を塗り、そこに傷口保護と苦痛緩和治療効果のある湿布を貼り付けると、撫子はにんまりと笑ってそのお尻を撫でてやった。

撫子

早く良くなりますように~。

フェインリーヴ

うぅ……。け、穢されたっ。俺の尻がっ。

撫子

なに言ってるんですか。前を見たわけでもないのに。ほら、上着を脱いでください。筋肉痛にならないように、湿布を貼ってあげますから。

 まったく動じていない撫子に、フェインリーヴは顔を真っ赤にして起き上がると、痛む身体であるにも関わらず、彼女の両肩を掴んでゆさぶりはじめた。

フェインリーヴ

だ~か~ら~!! 年頃の娘が尻だの前だの言うんじゃない!! お前の親はどういう躾をしてきたんだ!!

 フェインリーヴに悪気はない。
 けれど、撫子は親の話を出された瞬間に、表情を翳らせてしまった……。
 親、……癒義の巫女の一族で育った自分には、養父母のような存在はいるが、……本当の、親、は。
 頭の中に浮かび上がりそうになった思い出の片鱗を振り払い、撫子はニッコリと誤魔化しの笑みを浮かべた。

撫子

ふふ~。――うりゃ!!

フェインリーヴ

うぐっ!! な、撫子、何故いきなりまた人の腹を殴る……っ。けほっ。

撫子

さぁ、何ででしょうね~。治療が終わったら話もありますし、抵抗せずに湿布を貼らせてくださいな。

フェインリーヴ

うぐぐ……。

 ――……。

撫子

……というわけなんですが。

フェインリーヴ

ふむ……。

 レオトから伝えられた、ある町の情報。
 この王都から馬で二時間程の距離にある町、フェルディア。その場所で目撃された、ある『魔物』の情報。この世界には撫子のいた世界と同様に、人に仇なす存在が生息している。
 妖と魔物、互いに存在する理由は同じだ。
 人を襲い、人の肉を喰らい、世界の闇としての存在として生きる者……。
 フェインリーヴから見せて貰った書物には、撫子が見た事もない多くの魔物の写真が載っていた。
 姿は互いに似ず、やる事だけは同じ存在。
 
 

撫子

フェルディアの町で目撃されたのは、普通の魔物とは違う、異形の姿だったそうです。この世界にはないはずの……。

フェインリーヴ

以前にも一度だけ同じ目撃情報が入ってきたが……、確認に行った際には尻尾のひとつも捕まえる事が出来なかったと記憶している。それでも、また行きたいと言う気か?

撫子

あの時の未確認の魔物は、結局そのまま二度と姿を現さず消えてしまいましたからね……。

 フェインリーヴに付き添われ向かった前回の町……。どれだけ捜しても、その姿を見る事は叶わなかった。何も起こっていなければ、それはそれで平和な証拠なのかもしれない。
 撫子の追い求める妖と違うのであれば……、その町の者にとっては良い事で。
 ティーカップを膝のあたりに留めながら、撫子は瞼を閉じて、宿敵の姿を思い返す。
 もし、あの解き放たれた妖なら……、町の人達はあの脅威に晒されて、――今頃は躯となっているはずなのだから。

撫子

違うかもしれません……。でも、確認に行きたいんです。たとえ、一人ででも。

フェインリーヴ

お前の事情は一度聞かせて貰ったが、その確かな覚悟は、……誰が育てたものなんだろうな。

撫子

誰でもありません。……私自身が、決めた事です。

 癒義の巫女……。
 それは、一族の者達が撫子に与えた『鎖』。
 否応のない道だったとはいえ、愛する家族を、愛する者達を守ると最後に決めたのは、撫子自身の意志。
 そんな彼女を、フェインリーヴは時折、痛ましそうに見つめてくる時がある。
 それが同情や憐憫の類だと、気づいていても、撫子は自分自身を可哀想とは思わない。
 だから……。
 

撫子

馬をお借りしても良いですか? 流石に徒歩では体力を消耗しそうなので……。

フェインリーヴ

馬から何度も落ちているくせに、か?

撫子

うぐっ……。だ、大丈夫です!! 以前よりもこちらのお馬さんとの意思の疎通はとれるようになりましたしっ、今度こそ、なんとかっ。

 馬は乗せる者を選ぶ生き物だ。
 彼らの友となるには、努力と時間をかける他はなく、最初の時には見事に振り落とされた。
 しかし、今度は違う!! 毎日ニンジンを手に心の通い合いを!!
 そう意気込む撫子に、フェインリーヴは疲労の滲む溜息をひとつ。

フェインリーヴ

王都を出る許可はくれてやる。だが、保護者としてお前を一人で行かせる気はない。俺も同行しよう。明日まで待て。

撫子

いえ、一人でも大丈夫です。それに、早くいかないと……。

フェインリーヴ

焦るな。気が癒えたとはいえ、お前一人で再びその妖とやらと相まみえたとしても、容易に勝てる相手ではあるまい?

撫子

それは……。

 万が一、あの妖と出会ってしまったら、そこは血を流さずにはいられない戦の場と化すだろう。
 一度対峙してわかった、あの妖の強さ……。
 命を懸けなくては勝てない。
 いや、この命ひとつを差し出したところで、封じられるかどうかもわからない相手だと悟った。
 その時の戦いを思い出すと、フェインリーヴの問いにすぐさま答える事が出来ない撫子だ。
 ただ、早くあの妖を見つけなければという焦燥だけが心のどこかにあって……。
 

フェインリーヴ

確かにお前には、強い力がある。だがな? お前一人では、俺が見つけた時のお前の状態から考える限り……、その妖を相手に勝ちはないと思え。

撫子

で、でも、この世界の人達に何かあったらっ。

フェインリーヴ

この世界にも、戦う術(すべ)はある。なにせ魔物を相手に出来る騎士団や冒険者の類がいるからな。その妖も、精鋭を揃えて数で攻めれば、案外すぐに倒せる相手かもしれないぞ?

 温かい紅茶を含み、フェインリーヴは静かにそう言い聞かせた。
 確かに……、この世界には撫子の知らない武器や戦闘術が存在している。
 呪符を使い術を操る撫子のそれとは違い、詠唱を紡ぎ、様々な攻撃術や治癒術、防御の類にいたるまで便利そうなものが多く……。
 だが、それでも、あの妖を討伐、もしくは、もう一度封じるように命じられたのは、撫子自身だ。
 その責任と、癒義の立場による重圧が、彼女の心をどうしても苛んでしまう。
 それをフェインリーヴは、悪い意味で真面目なのだと、そう評した事がある。

フェインリーヴ

ともかく、出発は明日だ。以上。

撫子

……はい。

 もし先にフェルディアの町に行くような事があれば、その時は容赦なく仕置きをしてやると凶悪的な笑顔で脅され、……撫子は仕方なく頷くしかなかった。

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