――それはまだ、撫子が師匠と出会う前の話。
耳を劈(つんざ)くのは、首を締め上げるように響き渡る鳥の声……。
衣越しに肌を刺すのは、魂の底までも脅かす巨大な妖の放つ彷徨と温もりを奪われた夜気。
――それはまだ、撫子が師匠と出会う前の話。
耳を劈(つんざ)くのは、首を締め上げるように響き渡る鳥の声……。
衣越しに肌を刺すのは、魂の底までも脅かす巨大な妖の放つ彷徨と温もりを奪われた夜気。
はぁ、はぁ……。
姫様!! どうかもうおさがりください!! あとは我らが!!
なりません!! 貴方達は姉様からの預かりもの。必ず無事に帰します。下がっていなさい!!
封印の地と呼ばれる『神呪の森』……。
千年の昔に撫子の先祖により封じられたその獣を前に、大勢の男達が撫子を守るように進み出ようとしたが、彼女の気迫に圧され、その動きを止められてしまう。この地へと遣わされた『癒義(ゆぎ)の巫女』……。
それが、撫子の立場。生きる為に用意された道。
彼女は多くの呪符を手に、その猛爪を振るわんとする巨大な妖へと立ち向かっていく。
癒義の巫女の名において、お前を再び闇の底へと封じる!! はぁああああああああああっ!!
ウォオオオオオオオオオンッ!!!!!!
呪言を紡ぎ、鋭く放った呪符から炎撃が生み出され、巨大な妖の体躯へとぶち当たっていく。
ただの人間がそれに呑み込まれれば一瞬で命を落としていた事だろう。
しかし、目の前の妖は違う。
撫子の先祖が封じる際、その犠牲となった命は数えきれないほど……。
それだけの数が散っても、この妖は暴れ続けた。
当時の都を壊滅の危機に追い込み、帝の住まう御所にまで攻め込まんとした正体不明の妖……。
恐ろしいこの存在を封じたのは、今の世で『癒義の巫女』と呼ばれる者の祖となった一人の女性。
彼女のがその命を懸け、妖を神呪の森へと封じた。
その時代から、この地の見張り役と、妖が蘇った際にそれを封じ直す役目を義務づけられたのが、撫子の継承した『癒義の巫女』の立場。
当時の巫女の血を受け継ぐ者の中から代々継承者が選ばれてきたが、実際のところ……、妖を封じられる力があるかどうかは問題ではなく。
ただ、巫女の一族が都にてその権威を誇示し、後世に伝え続ける為に存在を強要され続けた立場。
――撫子もまた、巫女の座を否応なく受け継がされた存在でもあった。
ぐっ!! はぁ、……はぁっ。お前をこの森から出すわけにはいかないのっ。――都を、姉様や皆を守る為に、絶対に!!
由緒ある一族の血を受け継ぎし娘……。
癒義の巫女、人々を守る希望……。
何も知らない民が称えるその賛辞は、撫子にとって何の意味もないものだ。
ただ、自分を愛してくれた人達を、受け入れてくれた温もりを、守りたいだけ。
その為に術師としての修業を積み続けた。
幸いな事に才能と努力という二つの要素に恵まれていた彼女は、齢十七の歳にして、強大な力を持つ妖を前にしても怯まぬ術師となった。
だが、今対峙している存在は、話が違い過ぎる。
姫様ぁあっ!!
――きゃぁあああああああああああああああああああっ!!
グガァアアアアアアアアアッ!!
空気が狂気を孕み、静かに佇む月明かりが、森の中で妖の猛爪に引き裂かれた乙女の姿を照らし出す。
背中から噴き上がる鮮血……。
その光景に歓喜するかのように、妖がニヤリ……、と嗤ったように見えた。
同行してきた一部の男達は刀や呪符を手に撫子を救わんと援護の動きを強める。
しかし、もう一部の男達は、こそこそと何かを囁き合っているようだ。
やはり……、姫を生贄に妖の怒りを鎮めた方が封じやすくなるのではないか?
それはただの言い伝えだろうが。もし姫を喰わせても鎮まらなければ、事態は最悪になるぞ。
うるさい……。うるさい……。
背中に焼けつくような恐ろしい痛みを感じながらも、呪符で治癒を施し起き上がろうとする撫子の耳に、勝手な事を囁き合う男達の声が届く。
確かに自分は癒義の巫女だ。
必要とあらば、死ぬ覚悟も決めている……。
だが、まだ戦えるのに、希望を掴もうとしているのに、何故勝手な事を決めようとする?
撫子は自分を気遣ってくれる男に支えられ立ち上がると、『式』と呼ばれる獣を何頭も呼び出し妖と応戦中の人の群れの中に放った。
引きなさい!! その妖の相手は私!!
癒義の巫女たる者の務めです!!
生贄になどならない。
自分は、絵巻物の中にあるような悲劇の姫にはならない。まだ、希望がある限りは、この身が戦える限りは、愛する者達の許へ戻る為に……、戦い続ける。
必ず……、戻る。姉様、皆……。
痛む身体を引きずり、さらなる高位の呪を紡ぎ始めた撫子の前で、式達が懸命に時間を稼ごうと妖の巨大な体躯に攻撃を仕掛け続ける。
次に発動させる術で決着をつけよう。
運が良ければ……、生き残る事も可能だろう。
妖の足下に淡く浮き上がり始めた呪の陣。
黄金の光を纏う陣の輝きが増し、撫子の音も徐々に強まっていく。
運任せの一撃となるが、最悪、自分が死んでも言い伝えが正しければ、この身を食んで鎮まるかもしれない。同行してきた者達も、逃げる時間くらいは稼げるだろう。
たとえ、鎮まらずとも……、この妖を外に出さぬ為に、もうひとつの仕掛けも考えてある。
そう、撫子が帰還ではなく、死を予感しているかのように自嘲の笑みをこぼしていると……。
撫子!!!!!!!
え……。――姉様!? 何故ここに!?
それは、呪が完成するまであと少し……。
そんな状況の時に飛び込んできた悲痛な女性の声音に、撫子は頭の中で形を成さそうとしていた術式から意識をそらしてしまい、後ろを振り返った。
紡ぐ音が乱れ、愛する姉の存在を目にしたその瞬間。威力を放とうとしていた陣が、撫子と妖を……。
グォオオオオオオオオオオンッ!!
なに!? どうして、きゃぁあああああああああああああああああああ!!
――未完成となってしまった術が、陣から天に踊り狂うように飛び出してきた黄金の龍となりて、撫子と妖をその眩い光の中へと呑み込んでしまったのだった。
そして……。
ふむ……。少々疲れたが、収穫は上々だな。
瞬きの洪水となっている煌めく星空の下、一人の男が森の中を歩き回り、目ぼしい薬草を摘んではまた前にという動作を繰り返していた。
術によって生み出された淡い光が、彼の行く道を照らしている。
と、そろそろ自分の帰るべき場所に戻るかと溜息を小さく漏らした男の視線の先に……、奇妙な光が見えた。
ん? なんだ……、あれは。
森の奥から伝わってきた、黄金の光。
速足で近づこうとした男の目に、今度は聞いた事もない獣……、のような彷徨が森を震わさんばかりに轟いた。なんだ、これは。まるで、ドラゴンのような……。男は光の収まった場所へと急ぎ、茂みの中を覗き込む。
これは……。
うぅ……。
冷たい地面に倒れこんでいた一人の少女……。
これが、薬師フェインリーヴと、異世界への迷い子たる撫子の、最初の出会いであった。