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そっか

 茜は小さく言った。その瞳はやはりいつもの通り光を放つ。

嘘、つかなかったね

 続けて茜は言った。

嘘?

そう、嘘。
葵ってこう、はっきり何かを言うの嫌いじゃない?
だからこう、もっとごまかすと思ってた。

 確かに僕は何かを断定するのは好きじゃない。

 一応僕だって、ものを書いていた人間だ。

 言葉は黒曜石みたいだ。雑に砕けば鋭利な刃物になる。それは黒々として、時には美しくもなるけれど、立派な凶器だ。

 だからさっきでかかった言葉も飲み込んだのだ。もちろん、最後の言葉が、というのもあるけれど、もともと嫌いではあるのだ。そういう断定形はさ。

 けれど、君が僕のことをそういう人間だと知っているように、僕も君がどういう人なのかということくらいは、少なくとも他の男よりは知っているんだぜ。

そこまで僕も弱気じゃないよ

 そう言って僕はカバンの中をまさぐるフリをして下をむいた。

――ちくしょう、こっちが泣きそうじゃねぇか。

 さっき病室のドアを開ける前はちゃんとあったはずの決意がゆるゆると溶け始めていた。

ねぇ、葵?
何かを始めるのに遅すぎるってあるのかな?

 突然、茜は言った。

 何かを始めるのに遅すぎるなんてことがあるのか、なんてことを、なんだってこのタイミングで聞くんだ?

何かを始める?

 自分の余命を宣告されて、それを旦那が告げた直後に話すことなのか?

 だが、そんなことを、と一蹴してしまうのも何か違う気がする。

何か始めたいことがあるのか?

うん、その、小説を書こうかなって。

 一瞬、彼女が何を言ったのか分からなかった。

ショウセツ?

詳説?

小節?

消雪?

 そんなバカみたいな誤変換を何回か頭の中で繰り返した後、僕はやっとその言葉の意味が分かった。

 彼女を小説を書き始めたいと言ったのだ。

 僕が彼女と出会うきっかけとなった、小説。

 しかし、彼女は書く側の人間というよりは、読む側の人間だと思っていた僕としては、意外というか、想定外だった。

やっぱり無理かな?

 僕はこのとき、ためらった。

 小説を書くということが、それほど軽いことではないことくらい、僕は嫌というほど知っていたから。

 僕は作家ではないけれど、小説を書くときの自分の心を削るような気持ちは知っているから。

 そんな作業が、ただでさえどれほど持つか分からない彼女の体を蝕むのは愚かな僕でも分かった。

 しかし。

 僕は決めたのだった。

 これから彼女がどう生きていくかは彼女自身が決めることだ、と。

 僕が決められるのは、そうやって自分で決断して、生きていく彼女についていくか、いかないかだけだ。

 それに、その僕に対する選択肢も、選ぶにはあまりに簡単だった。

 もちろん選ぶのが簡単なだけであって、進むのは困難を極めるのだろうけれど、自分の内側だけで生きてきた僕にだって、妻と一緒に崩れるくらいの恰好はつけさせてほしい。

いいんじゃないか?
これからしばらくは入院生活なんだし、やりたいことをやるべきだよ。

 僕は言った。

 こうして彼女は人生で「最後」の「始まり」へと進んでいったのだ。

どう、進捗のほどは?

 あれから数日、僕は有給をとって茜の病室で彼女が僕のパソコンのワードを開いて、ぱちぱちと慣れない手つきでキーボードをたたくのを見ていた。

これ、思ったり難しいのね……。

 若干堪え気味な彼女の頭に僕は手を伸ばす。

 そして彼女のまっすぐで艶やかな髪を撫でた。

学生時代、茜が急かすから大変だったんだぜ?

 僕は冗談ぽく言ってみる。

 本音を言えば、彼女を休ませてあげたかったのだけれど、そんなことを言ったら、彼女はいじけてしまう。

 そんな彼女も愛おしく思えるのだけれど、やっぱり、笑っている彼女を見ていたいという僕の利己心が働いてしまったのだろうか。

そのことに関しては申し開きようがないよ……。

 口を尖らして彼女はそう言った。

でも、ほら、早く書けたもののほうがいいとは限らないだろ?

 僕は撫でている手を茜のほほあたりに滑らせる。

 ほほを撫でると、茜は猫のように満足気な顔をして目を閉じた。

 なんというか、ときには僕のほうが気圧されてしまうほど男らしかったり、ときにはこんな猫みたいになったりと、これだけ長く一緒にいても分からないものである。

 そしてふと、この時間もあとどれだけ続くか分からないということに気付いてしまう。

 撫でていた手が止まったのを不思議に思ったらしい茜が目を開けて僕を見ていた。

 そしてこらえきれなくなった僕は彼女の唇に僕のそれを重ねる。

 唇を離して見た茜の顔は一瞬驚いた様子だったけれど、今度はあちらからキスが戻ってきた。

こら。
これじゃあ全然書けないじゃんか。

 そう笑う彼女が、いつか自分の目の前から消えていくなんてよくわからなかった。

 やっぱり、彼女を失うのは、怖い。

 彼女を失ったら、僕は一体どうなるのだろうか。

 きっとそのまま息をし続けるんだろう。

 僕が死ぬまで。

 でも、きっと僕の中できっと何かが変わる。

 変わってしまう。決定的に。

それが何か分からないけれど。

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