END MARK

 結局、彼女は逝った。

 僕は死に際には間に合わなかった。

 映画みたいにうまくはいかない。

 彼女が入院生活を始め、それと同時に、小説を書き始めてから6カ月が経ったころから僕は少しずつ出勤の頻度を増やしていた。

 彼女は言った。

一緒にいてくれるのはすごい嬉しいけど、やっぱり葵は会社にも行った方がいいよ。それに、葵といると甘えて書くの止まっちゃうし。

 そう言われて僕はしぶしぶ会社へと行く様になっていた。

正直に言えば、彼女が医者の思っていたよりも元気だったのもあって、もしかしたら余命宣告は間違っていたんだなんていう楽観的な憶測も心のどこかにあったのかもしれない。

 だが、彼女はもうすでに病状が深刻化していた。

 本当に、僕なんて比にならないほど、命を削って書いたのだろう。

 主治医から、危険な状態だと連絡が来て、2、3度車に轢かれかけてたどり着いた時には、もう彼女の息はなかった。

 看護師によれば集中治療室に運びこまれる寸前まで彼女は僕のパソコンのキーボードを叩いていたのだという。

 もう少し、もう少しだから、と周りが止めるのも聞かずに、書き続けた。

 まだ、僕は彼女の書いた物語を読んでいない。

 彼女は書き始めてから僕に書き方のコツやら、プロットの立て方やらを聞いてきたけれど、その内容に関しては断固として話さなかった。

――読むなら私がいなくなってからね。

 彼女は僕の顔を両手ではさみ、笑いながら言っていた。

 彼女は一度言ったことはなかなか曲げない女の子だったからこそ、僕は結局今になって読むことになったわけで。

あんなに人のは勝手に読んだくせに。

 僕は目を閉じて動かないきちんと化粧をした茜のほほに触れた。

 やわらかいすべすべしたほほはそのままだったけれど、しかし、とても冷たかった。

 彼女の葬儀が終わって、僕はこの後、彼女の骨を見ることになる。

 意外とそのときが来てしまうと、あっという間だな、と思う。

 あと数時間で、僕は彼女の髪にも、肌にも、唇にも永遠に触れることができなくなるのだと思うと、とても空虚な気持ちになった。

 だが、だからと言って、僕以外の誰かに彼女の骨を拾わせるなんてことは僕にはできないし、彼女も許さないだろう。

 僕は彼女の夫で、彼女は僕の妻なのだから。

 次の日、僕は彼女がこの8カ月を過ごしたあの病室に来ていた。

 主治医に挨拶をしたあと、少し無理を言って、この病室を見させてほしいと頼み込んだのだ。

 僕は肩にかけていたバッグを下ろすと、幾度となくそうしたように、今は誰もいないベッドの脇の背もたれのない貧相な椅子に腰かけた。

 そしてバッグの中から彼女が使い続けたノートパソコンを取りだしてスイッチを入れた。

 そしてアイコンの少ないデスクトップにポツリと列から外れて置かれているドキュメントファイルを開く。

 言うまでもなく、これは彼女が残した小説である。

 彼女は何を考え、何を感じ、何を描いたのか。

 いつもいつも読みたくて、だけれど本当はいつまでも読みたくなかった彼女の物語。

 でも、読まれない小説はただの乱文集だ。

 僕は乱文集を綴ったけれど、彼女はそれを小説にしてしまった。

 ならば、そのせめてもの恩返しとして。
 あるいは仕返しとして。
 僕は彼女の作った物語を小説にしてあげたかった。

 そして、それをするならば、彼女がそれをまさに描いたこの場所で。

 僕は少し目を閉じてから、スクロールし始めた。

 その物語の名前は「END MARK」だった。

 物語の中に出てくるのは、翠(みどり)という女子大生だった。

 翠は本当に何の変哲もない少女で、学業も運動も友人関係もそれなりにうまくこなす器用な子だった。

 けれど、彼女は自分が他人と確かに違うことがないことを悩んでいた。

アイデンティティー。
クリエイティビティー。
オリジナリティー。

 そういう唯一のものを。

 そして翠はある少年と出会う。

 少年は作家を目指して、いつも小説を書いている少年だった。

 そんな彼を、翠は好きになるのだった。
自分の心を形にする、そんな術をもつ彼を。

 そして、彼女は彼に思いを告げ、恋人になった。

 そして彼にあこがれるように自分で小説を書き始めるのだ。

 しかし、翠には彼のように書くことができない。
同じことをしているはずなのに、彼のようには、生きた言葉が書けないと感じてしまうのだった。

 物語がそこまで進んだところで、急に文体が崩れ始めた。それまで、固いながらも、精密に描かれていた文章が突然に。

 そして、しばらく読み進めていくうちに、それが茜本人の言葉なのだと気づいた。

「私には書けない。
書ける人と書けない人がいるから。
でも、私はこの物語を書きたい。
あなたの隣に私がいたことを、できれば覚えていてほしいから。覚えていてほしい。忘れないでほしい。

あの日勝手にあなたの小説を読んでごめんなさい。
でもあの日あなたと会えたことは私の誇りでした。
あなたはいつもいつも自分を責めるけれど、何もなかったと感じていた私が初めて、あなたの書いた物語を読んで、こんな風にかけたらって思えたのはあなたのおかげだから。

だからあなたはあなたを責めないで。
あなたが大好きです。もっと一緒にいたいです。
もっとキスしたかったです。
あなたとの子供も産んであげたかったです。

でもそれは叶いません。
きっと叶いません。

だから私はこの物語を書きます。あなたにあげられるものなんて、もう私にはないから。
こんなへたくそな物語だけど、あなたが読んでくれたなら、きっと書いた意味があるのだと思います。

ああ、ごめんなさい。うまくまとめられなくなってきました。恥ずかしいな。でも読んでくれるといいな。
あなたが好きでした。あなたが好きでいてくれた私を私はやっと好きになれます。

一緒にいられなくてごめんね。一緒にいてくれてありがとう。

あと最後にお願いしてもいいですか。
やっぱり私ひとりじゃ、この物語を書ききれないから。最後の締めはあなたが書いてください。
ピリオドを、終止符を、句点を、エンドマークを。

お願いします。

わたしが大好きだった葵が愛してくれた茜より」

 気づくと、パソコンが濡れていた。
 誰だよ、水なんて零したのは、キーボードが壊れちゃうだろ。

 そんなことを思っていたら、僕が泣いていたのだった。葬儀では余裕ぶってた僕が、誰も寝ていないベッドを前にして泣いているのだった。

 そして僕は静かにキーボードに手を伸ばす。

「僕も君を心から愛していた。
あの日僕の拙い文章を好きと言ってくれてありがとう。
僕は君が読んでくれたことを、君が愛してくれたことを、そして生きてくれたことを、

いつも誇りに思っていた。いつまでも忘れない。

茜が愛してくれた小説を書いた葵より」

 そうして、僕は最後にキーボードを一度だけ叩いた。

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