LAST

 僕の大切な人が余命宣告を受けた。

 こうして書いてみると、どこかの安い映画の売り文句みたいなのだけれど、しかし、それは覆しようのない事実だった。

 そういう、もうどうにもならないような事実を、僕はその大切な人に話すために、看護師やら患者やら健常者やらが、急ぐでもなく和むでもなく行き交う病院の廊下を歩いているのだった。

 今のところ治すための手術や薬は存在しない、このまま行けば余命は約1年、できるだけ長く生きようとするなら入院して安静にしておくしかない。
 そう医者が言ったのを僕はそのまま伝えて、それに加えて何を話せばいいのだろうか。

 最後まで諦めなければなんとかなるとか、

僕が君のそばにずっといるとか、

あとで僕もすぐに行くとか、

そういうセリフばかりが僕の脳内を駆け巡っていた。

 だが。

 彼女はそういう言い方を、きっと、というか絶対に望んではいないのだろう。彼女は嘘っぽいことを嫌う女の子だから。出会った時もそうであったし、今でもそうであったのだから、これからもきっとそうなのだろう。

 つまり僕にはこう結論づけるしかない。

 彼女に伝えるべきなのは厳然たる事実のみである、と。

 そして、それからどうするは彼女が自ら決めることなのだ、とも。

 結論が定まったところで、僕はゆっくりと病室のドアをスライドさせた。

茜(あかね)

 僕はその人の名前を呼ぶ。

 彼女は窓の外を眺めていた目をこちらに向ける。その目はまさに沈もうとしている夕焼けの光をそのまま掬い取ったかのように光っていた。

 これは彼女が泣いていたという比喩ではないし、彼女の美貌を大袈裟に表現したものでもない。

 彼女の目はいつも大きく見開かれていて、外界の光を人よりも効率よく反射している。ただそれだけを言いたかったのだ。

 まぁ僕が彼女のそういうところが、数多あるうちの僕が彼女を好きになった理由の一つにあったことは否定しないけれど。

葵(あおい)、すっごい外綺麗だよ?

 彼女は僕の名前を呼んだあとにそう言って微笑んだ。

そうだね、ここ、病院にしてはいい景色が見えるよね

 僕はベッドの脇にある背もたれもない椅子にわざとくつろいだように座った。

 そして僕と彼女は同時に窓の外に目をやる。

 確かに美しい景色だった。

 病室の位置がいいのか、さながら旅館からかと錯覚するほどの景色だった。

 ここは海に近い。橋が見えるのだ。別に大して名のある橋ではないのだが、やはり美しく見えた。

 そしてその橋の向こうには空がある。あの空の色をどう名付ければいいだろうか。

 ああ、そういえば、そんな話を前にしたな、彼女と。

 そう思った瞬間、僕の体は勝手に彼女の体を抱き締めていた。

どうしたの、急に? なんか嫌なことあったの?

 そう言って彼女は僕の髪を撫でたりするのだ。

――お前のせいだよ、ばっきゃろう。

 そう言ってやりたくもあったが、しかし、そんなこと言えなかった。

 僕の最後の言葉はそんな言葉にしたくない。だから、僕は言葉を選ばなくてはいけない。

 でも。

 そんなことを今さら思うくらいだったら、もっと前から言っておくべきことなんて腐るほどあっただろうに。

 僕は今度は自分の意思で、彼女の体を抱き締める腕に少しだけ力を入れた。

 

 僕は内向的な人間だったと、つくづく思う。そして、そのつくづく具合と同じくらい、つくづく彼女は外向的な人間だったと思う。

 だが、僕は内向的な人間だったと言ったが、他人とコミュニケーションを取る能力が欠如しているわけではなかったと思う。

 僕がここで言っている内向的というのはユングが分類した性格の一つの名前を冠してはいるけれど、核心として僕が言いたいのは僕の思考が自分の内に向いている、ということなのだ。

そういう意味で使っているのがあまり適切でないと言われてしまうと僕としてはもう言い返しようがない。

 しかし、それ以上読んで字のごとくという言葉が見当たらないので僕は誤解を覚悟でこの言葉によって僕の性格を定義するのである。

 同様に彼女に対して外向的だと言ったのもそういう風に定義したい。彼女は考え方が外に向いているのである。

 それでは、その内向的な僕と外向的な彼女の過去の話を語ることによって、僕たち二人がどのように今現在に至ったのかを示したいと思う。

大仰な前振りになってしまったけれど、あくまで言いたいのが、僕たち二人の人生は決して数奇なものではない、極めて普通の話である。

 僕たちが出会ったのは、お互いが大学生の時で、大学の附属図書館だった。

 僕としてはあの出会い方というのはあまりいい点数をつけるわけにはいかないと思う。

 とても大きな声では言えないけれど、僕は昔小説を書くのが日課だった。

でもそれは他人に読んでほしいという感情が伴うものではなかった。

 ただ書いていることが重要だったのだ。僕にとっては。

 僕はあまり勉強ができなかったし、運動に関しては中の下の上といった感じだった。

 でも僕は考えるということが好きだったのだ。

 自分という人間と、他人という人間を厳然として隔てているのは何か、とか。

 性格を決定付けるのは何か、とか。

 愛と恋の違いについて、とか。

 考えても仕方がないこととして一蹴してしまう人もきっといるんだろうけれど、僕にとってはそれを考えているということ自体に面白みというか、意義みたいなものを感じていたんだろうと思うのだ。

 そしてそうやってぐちゃぐちゃ考えたことを自分の中で形にしておくためだけに、自分で自分の思考を読むためだけに小説という体裁を整えていたのだった。

 そんな僕が小説という名の、散文集ならぬ乱文集を書くのは決まって大学の図書館だったわけである。

 人が多いせいか、大学というのは人との関わりが広くて浅い。だから書いていても話しかけてくるような仲の友人に会う確率はそんなに高くない気がするのだ。

 その、文をのたうちまわらせる作業を始めて通算6年は経っていた僕が、中高生の時と比較してそうだと感じたに過ぎないが、結局書く当人がそう思っていれば、そう感じていればいいだけの話だ。

 まぁ家で書くという選択肢がないわけではなかったのだが、日常生活とは切り離したい作業でもあったので、図書館という絶妙な距離感のある空間を選んでいたわけである。

 しかし。

 大学には色々な人間がいるのだということを認識していなかった。

 まさかノートパソコンで書いているうちに居眠りしていた僕の許可も得ずに、勝手に読んでしまうような女の子がいるだなんて思いもしなかったのである。

――お、おい! 何してるんだよ!?
――ねーねー、これ小説?
――しょ、小説じゃなくて、その、ほら、レポートだよレポート!
――愛と恋の違いについてのレポート?
――あ……。

 そんな会話を、まさかあの静かな図書館の中で、周りに迷惑顔をされながらする羽目になるとは全くもって思っていなかったし、非常に不本意である。

 その女の子は初めて自分の文章が読まれてしまったショックで放心している僕を近くの安いイタリアンレストランに引っ張って連れて行ったかと思うと、自分の名前を紹介し始め、面白かったから他のがあれば読ませてほしいとのたまったのだ。

 どれだけ人と関わることに積極的なんだと驚きを超えて感心すらしてしまいそうな勢いだった。

 そういうわけで知り合った、その茜という女の子との微妙な関係はずるずるとそのまま続いた。

 微妙な関係といったが、恋人と友人の間で微妙だったというよりは、友人と他人の間で微妙だったのである。

 僕は読まれたくないといいつつ書き続け、それを彼女は読み続けた。

 たまに一緒にレストランに行って、その感想を聞き、そして帰った。

 そこには手をつなぐこともなければ、キスもない。

周りからするとやけに仲のいい二人に見えたらしく、何度かガールフレンドかと男友達に問い詰められたこともあったが、先ほど言った通り、そこに恋人らしい関係は何一つなくて、どちらかというと編集者と作家の打ち合わせみたいな雰囲気だった。

 そんな僕たちが、恋人になったきっかけは、社会人になって最初のゴールデンウィーク前に僕がそれまで続けていたその作家ごっこをやめたことだった。

 書くのをやめた理由。

 それはとても単純で、就職して時間が減り、そしてそれとともに、まとめる対象であった僕の思考が枯渇したのである。

 ないものをまとめることはできない。ない糸を紡ぐことはできないのだ。

 それを彼女に言った時、彼女は何を思ったか、同情するでもなく、説得するでもなく、こう言ったのだ。

葵が好きだから、付き合ってほしい

 どうも彼女はボキャブラリーに乏しいところがあったが、さすがにそのセリフには僕は吹き出してしまった。

 吹き出した僕は随分詰られたけれど、それでも彼女は真っ直ぐに僕を見つめて、もう一度言ったのである。

好きです

と。

 我ながら単純だなとは思うけれど、あまりに自分の内で思考すること繰り返した僕を誰よりも理解しているのが茜だと気づいてしまった"内向的"な僕は頷いてしまった。

 そしてその後の訪れたゴールデンウィークに僕たちは恋人になったのである。

 そうして2年間、僕たちは恋人として付き合って、そして結婚をした。

 プロポーズはさすがに僕からだったけれど、あのボキャブラリーの欠如した彼女の告白に比べると、どうも頼りないものだった。

 文を書くことにばかりのめり込んだ僕は残念ながら、自分の思っていることを言葉として誰かに対してうまく伝える技術は身につかなかったらしい。

 まぁでも、彼女が頷いてくれたのだから良しとしよう。

 出会いは落第点だったが結びはなんとか及第点に届いたようで。

 だが、結婚して3年が経ったある日、彼女は倒れた。
 本当に急に。何の前触れもなく。

 その病名がどうだとか、原因がどうだとかというのは正直あまり重要ではないので、あえて言及しないでおこうと思う。

 大事なのは彼女が倒れたという事実一点のみである。

 そして話は冒頭に戻る。

 ありきたりな僕だからありきたりなことを言うけれど、僕は失うと知って、やっとその価値に気づいた。

 あれだけ思考していたけれど、全くもって気づいていなかった僕はどうしてこんなに愚かなのだろう。

 内向的な僕は自分の内なる思考に甘んじていたのである。

 外向的な彼女は出会った時からその価値を知っていたというのに。

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