おい、何してんだ!
廊下での言い争いに僕は思わず口を挟んだ。どんな理由かは知らないが、女の子一人相手に数人がかりで詰め寄ることに道理はない。
なんでもねぇよ。チビは引っ込んでろ!
気の強そうなリーダー風の女子が僕に睨みを利かせて叫ぶ。その言葉に僕は目を細め、眼光を飛ばして睨み返した。声を一つ落とし、凄みをつけて低く声を発した。
うるせぇ。とっとと消えねぇとぶっとばすぞ
中学時代、歴代演劇部でも右に出るものはいないと称えられた不良の演技は、そう簡単に見破れるものではない。蜘蛛の子を散らすように女子のグループは自分たちのクラスに戻っていった。
あの、ありがとうございますわ
まだ肩を震わせながら、その女の子は丁寧な言葉で礼を言った。
別に。うるさかったからやっただけだよ
あの、どうして私が詰め寄られていたか聞きませんの? 私が悪かもしれないのに
一人の女の子に大勢で詰め寄ってるのに、正義も悪もないだろ?
僕は思ったままにそう答えた。まだ何か言いたげな少女を残して、僕は逃げるように自分の教室に入っていった。
目を覚ました瞬間に体中にまとわりついた寝汗の感覚に舌打ちをした。今日もまだ世界は壊れていない。
あの時助けた少女が美冬だと知ったのは、祭りの翌日、秋彦からメールで僕を騙していたことを謝られた時だった。僕はそのことなんてすっかりと忘れていて、女の子が僕に恩を感じているだなんて少しも思っていなかったのだ。
あれから美冬とは会っていない。秋彦とも松原さんとも会っていない。まるで何かを失ったように抜け殻のように過ごした前の僕と同じように部屋の中で引きこもったように毎日を過ごしていた。
ただ気持ちは真逆だった。あの美冬の顔を見ないで済んだ。美冬にあの顔をさせないで済んだ。それだけで僕の心は飛んでいけそうなほどに軽かった。
さて、そろそろ行くか
僕は秋彦の家に向かう支度を始める。読書感想文を二冊分。それからきちんと埋めてしまった日記帳もついでにカバンに入れておく。
よう、いよいよやな
部屋着から着替えた僕の前に猛虎がふよふよと現れた。
自分は歴史を再現せぇへんかった。世界は何とか崩壊せんとおるけど、こんだけ歪んどったら何が起こるかわからん。用心しときや
わかった。ありがとう
心配そうな猛虎の頭を一撫でしてみるが、やはり触れずにすり抜けてしまう。それでも気持ちは伝わったようで、猛虎はにんまりと笑いを浮かべている。
さぁ、行こう。僕は肩にかけたリュックサックをもう一度しっかりとかけ直し、歩いて秋彦の家に向かって歩き始めた。
夏休み最終日の太陽はやけくそにも似た輝きで地上にあるありとあらゆるものを焦がすつもりで光を注ぎ込んでいる。誰かが庭先に打ったであろう打ち水がみるみるうちに乾いて白く湯気が立っているように錯覚するほどだった。
僕の家と秋彦の家を分断する交差点は今日も自動車が法定速度を少しオーバーしながら次々に右に左に通り過ぎていく。僕は横断歩道の前で赤信号を確認して立ち止まった。
動悸が早くなるのを抑えようと胸に手を当てて深呼吸した。首筋を流れる汗はどれが暑さによるもので、どれが緊張によるものかわからない。
信号が青に変わった。トラックはやってこない。それでもまだ僕は安心していなかった。左右を見て薄氷を踏むように歩き始める。
一歩、二歩。半分を過ぎたところで、僕は反対側の歩道に一人だけ、交差点に入らず立ち止まっている人の姿を認める。
僕はその顔を見て、思わず走り出した。
どこかで聞いた悲鳴が上がる。
僕は最後の最後で油断した。
ろくに確認もせずに歩道の向こう側で立ち止まった少女の姿だけを頼りにして、トラックは勢い良く右折して横断歩道に入ってくる。違う、これは僕の知っている世界じゃない。
こんだけ歪んどったら何が起こるかわからん
猛虎の言葉が思い出される。僕が作った世界の歪みはまるでその犯人に復讐するかのように僕に牙を剥いた。交差点を曲がるトラックとは思えない速度で僕を狙っているかのように突き進んでくる。
危ない!
悲鳴に混じって、はっきりとした声が聞こえた。どんな喧騒の中でも聞き分けられる澄んだ声。その声の主は歩道から僕に向かって一直線に駆け出すと、突っ込んでくるトラックにひるみもせず、僕を思い切り突き飛ばした。
美冬!
全身の力抜けていた僕の体はあっさりと後方に押し出され、ほんの数センチの差でトラックのルートから外れた。僕を押し出した美冬の体は当然トラックの目の前に放り出されて、僕の視界から流れていくように消えた。
美冬、美冬!
呆然とする体に血を巡らせて、急ブレーキで止まったトラックの先頭に駆け寄った。膝に彼女を抱いてみる。ぐったりとして動かない美冬はまだかろうじて意識はあるようで、僕の無事を見てぎこちなく微笑む。
なんで、なんでこんなところにいるんだ?
ごめんなさい。私、もう一日どうしても待てなかったんです。夏生の答えが知りたくて
その言葉に、僕ははっとした。こんな言葉は聞いていない。でも、確かに似たような言葉をどこかで聞いたことがある。
僕は今日の日記をまだ書いていない。八月三十一日の記憶は曖昧で今朝はまだ書くことができなかったのだ。
うだるような暑さでぼんやりとしていて、毎日遅くまでやっていた宿題の疲れで、トラックに轢かれた衝撃で。僕はすっかり記憶が混濁していたのだ。
それでも今は思い出せる。
あの日もここに美冬は立っていた。
僕の酷すぎる答えを許して、もう一度僕に想いを伝えるためにここで待っていたのだ。
横断歩道の向こう側に美冬の姿を認めて、僕は彼女への後ろめたさから足を鈍らせた。そこに彼女はゆっくりと僕に向かって歩いてきたのだ。
右折するトラックが突っ込んできたのは彼女の元だった。
僕は悲鳴を頼りに体の筋肉が裂けてしまうほどに彼女に飛びかかった。呆然として立ち尽くした彼女を歩道まで押し戻し、僕はトラックに巻き込まれたのだ。
あの日、僕は美冬をかばって死んだのだ。自分の命と引き換えに彼女を守ることが出来たのだ。それなのに、僕は自分が助かりたいとこうして今日を繰り返しに来た。その結果が全く逆のことになるなんて。
夏生、最期のお願いです。一日だけ早く、私に答えを教えてください
そんなの決まってるだろ。……大好きだよ
嬉しい。今の私、世界で一番幸せです
血を流し、涙を流し、それでも美冬は心の底から嬉しそうに笑った。その微笑んだ顔のままゆっくりと瞳が閉じられる。
美冬!
ふと、美冬の体の側に何かが落ちているのに気がついた。僕の肩からすり抜けて中身がばらまかれてしまったのか。あの日記帳だ。赤い夏休みの宿題の日記帳。もともと赤かった表紙は美冬の血が染みこんでその色をいっそう鮮やかにしている。
まさか
猛虎が言っていた。僕を助けたいと言った日記帳はこんなこと言っていたと。
あ、勘違いしないでください、私は自分に与えられた職務を全うしたいからであって別にあなたに生きていて欲しいとかそんなんじゃないんですからねっ!
どうして気がつかなかったんだ
そんな口調で話す奴は僕の知る限り一人しかいないじゃないか。
猛虎、いるんだろ?
美冬の体を抱いたまま、僕は呟いた。ふよふよとどこからともなく現れた猛虎は僕の目の前で止まった。
何や?
一つ、お願いがあるんだけど
僕は美冬の側に落ちていた日記帳を手に取った。
この日記がさ、こう言ってるんだよ。男の引きこもり日記を書かされたんじゃ浮かばれねぇ。俺の中に女の子の華やかな日常をびっしり書いてくれるってんなら、ぼ、俺の命と引き換えに命を助けてやってもいいぜ、って
自分、言うとることの意味わかっとるんか?
僕は無言で頷いた。
せっかく助かったんやで? 自分が命賭ける以上、そこでおしまいや。そこにいる譲ちゃんが行くんは別の世界線。自分は助からん。この世界もや。自分がワイに願うなら世界の『因果律』は崩れてこの世界は崩壊するんやで
わかってるさ!
宥めるような猛虎の言葉に反発するように僕は声を荒げた。そんなことわかっているに決まっている。
それでも、美冬がいない世界にいるよりずっとマシだ
ホンマにええんやな?
最後の念押しにも僕は迷わず首を縦に振った。しっかりと握った血の滴る日記帳を猛虎に差し出す。宙に浮いた日記帳が吹いていない風にめくられるように音を立てて開き、そこから文字がこぼれるように吹き飛んでいく。
僕は今からこの世界を壊す。
僕が書き記した世界の流れが無に帰すために散らばっていく。
僕の生という因果が失われ、美冬の死という因果が失われた世界はその歪みに耐え切れず地響きのような音を立てて崩れ始めた。突然のことに交差点はパニック状態で歩行者も車から降りた運転手も騒ぎながら逃げ回っている。
ほな、お別れやな。短い間やったけど楽しかったで
美冬にはよろしく言っておいてくれ、って日記帳が言ってる
そうか
アスファルトの道路に亀裂が走り、地中に飲まれていく。
僕は美冬の体を強く抱きしめた。
どこかの俺と幸せになってくれよ、美冬
やがて闇が全てを包み、世界は崩れ落ちた。