今日も僕は朝から日記を書いている。

午前中のことは対して書き記すほどのことじゃない。そろそろ終わりが見えてきた夏休み。そうすると顔を出すのが、今書いている日記を含めた夏休みの宿題という奴だ。

この辺りになると計画性という超能力を持った人間を除いて、多くの学生がこの悪魔に日々唸らされることになる。それは僕も例外ではない。たとえ二度目の夏休みであろうとも反省を生かして計画的に宿題を済ませようなんて無理難題もいいところだ。

小学生の時から少しも変わらず、でも年々増えてくる宿題の量に合わせて、少しずつ手をつける日が早くなっている。今日はその日だ。午前中は溜息をつきながら問題集を埋める作業がある。一度やった問題だから少しくらいは早く終わるだろうが、それでも面倒なことに変わりはない。

それよりも問題は夜の方だ。今夜、僕は答えを伝えなくてはいけない。それも自分の気持ちの真逆の答えを。

夕方五時に待ち合わせて、近くの神社の夏祭りに行く。メンバーは僕の他に、明彦、松原さん、そして美冬だ。

神社というのはどうしてか決まって山の上にあることが多い。祭りをやるような大きな神社は大抵の場合長い階段を上った先で待ち構えている。それは何かの力が集まってくるからなのか、あるいは神職が日々鍛錬をするためか。他に理由があるのかはわからないが、とにかく夏祭りはここの辺りでも一番広い山の中腹にある神社で行われるのが毎年のことだった。

僕は前回の遅刻を反省して、少し早く家を出て、蚊に刺されるのを我慢しながら、三人が来るのを待った。

美冬

あら、今日はお早いのですね

最初に現れたのは美冬だった。濃い紫色の生地に咲き乱れるように白い花が描かれた浴衣を着こなし、からからと下駄の風流な音を立てながら、こちらに手を振って歩いてくる。

夏生

あ、あぁ、前は遅刻しちゃったからな

美冬はいつもよりふんわりと整えた髪を肩に流して、僕がもたれかかっている石垣に並ぶように身を寄せた。美冬は今、どんなことを考えているのだろうか? もしかすると、この後に自分が言う言葉を探しているのかもしれない。

秋彦

わりぃ、今度は俺が遅刻だな

松原さんに続いて、秋彦が片手を挙げて僕らに近付いてくる。もう神社の辺りは人手埋め尽くされていて、はぐれたりしたら簡単には会えそうもない。長い長い階段を四人並んで上り始める。秋彦が松原さんの隣に行ったのを見て、僕は少しだけ二人と距離を取る。そうすると僕の考えを察したように美冬が僕にそっと近付いてくる。

甘い、甘い香りがした。

神社の方から香ってくるわたあめの匂いではない。香水の類だろうか。美冬からほんのりとでも僕の嗅覚と視覚を誘うような甘い香り。赤くなりそうな顔に血よのぼるなと念じてみる。このときの僕は美冬のことを少しも想っていなかったのだから。

美冬

どうかしましたの?

夏生

いや、なんでもないよ。ちょっと近付きすぎじゃないか

美冬

人が多いんですから仕方ないじゃありませんか

そう言いながらも美冬は僕から離れることなく、むしろ一歩こちらに寄ってきて、浴衣の袖が僕の腕を撫でた。

秋彦

おっしゃ、屋台だ、屋台だ!

夏生

はしゃぐなよ

鳥居を潜り、一番最初に構えている鈴カステラの屋台に走り寄った秋彦はすぐさま二〇個入りの袋を持って帰ってきた。

秋彦

まずはこれだよな。屋台といったら

美冬

そうなんですか?

美冬は初めて見たというように首をかしげている。見た目と口調だけを見れば生まれて初めて出店を見たようにも思えるが、そんなことはない。定番とは言えない秋彦のチョイスに戸惑っただけだ。

遠くから御囃子が聞こえ、お堂に近い方からは酒を酌み交わしているらしいおっさん達の太い笑い声が聞こえる。僕たちは人の間をすり抜けるように行き来しながら、左右に立ち並ぶ屋台を一つ一つ見て回った。

たこ焼き、焼きそば、じゃがバター。

射的、型抜き、ヨーヨーすくい。

最後は屋台の王者、金魚すくいだ。

秋彦

春香ちゃん、金魚すくい上手いんだな

春香

私これだけは得意なんだよ

三人で破れたポイを持ったまま一人アルミの椀にひょいひょいと器用に金魚を移していく。最後は底を歩いているミドリガメを狙ってみたが、失敗に終わった。飼うのは大変だからと金魚は受け取らずに立ち上がったところで御囃子の鳴り物が一段と強くなる。

秋彦

神輿が出るみたいだな

境内に続く石畳から人が海を割るように消えていく。笛の音が大きくなるごとに神輿が近づいて来ていると伝えていた。僕たちは二人ずつになって石畳の左右に別れるようにして神輿がゆっくりと通っていくのを見上げていた。

木組みの神輿はもうずいぶんと古くなっていてところどころ汚れ、ささくれだっているが、それがまた趣を感じさせてくれる。男衆の掛け声が耳をつんざくように響き、僕は思わず耳を塞いだ。音の暴力の中で目を凝らすと、僕の隣では美冬が目を輝かせて神輿を見送っている。

美冬

凄かったですわね

過ぎていく神輿を見送りながら美冬は惚けたように呟いた。

夏生

そうだな。って秋彦たちどこに行ったんだ?

向かい側の屋台の影に逃げ込んだはずの秋彦たちの姿がない。キョロキョロと視界を動かして探してみるが、やはり二人のことは見つけられなかった。

美冬

それじゃ、仕方ないですわね。ついてきてください

美冬の言葉に僕はごくりと口の中身を飲み下した。ついにこの時がきてしまった。

夏生

わ、わかった

祭りの喧騒から離れるように美冬はお堂の裏手に回り、そこから離れるように本殿に続く石畳を黙りこくったまま歩いていく。

夏生

おい、どこに行くんだよ?

美冬

はぐれた時のために集合場所を決めておいたのです。こちらですよ

僕はその言葉を聞いて、黙って美冬の後に続いた。表の方ではまだ遠くに人の騒がしい声が聞こえているが、こちらの方には人影すら見えなかった。祭りの日にわざわざこちらに出向いてくる人の方が珍しい。

ここまでは前のときと同じだ。そして僕はこれから、美冬に告白されるのだ。

靴を脱いで本殿の廊下に上がり、美冬と並んで座った。林の隙間からは星空が見え、大きな月も顔を覗かせている。

美冬

あ、き、今日は月が綺麗ですね

夏生

え? あぁ、そうだな

僕の返事にうぅ、と小さく美冬が漏らす。今の僕なら美冬の言葉の真意がわかる。有名な夏目漱石の逸話から持ってきて、美冬は僕に思いを伝えたのだ。それなのに僕の答えは美冬の想いにはかすりもしない大暴投でキャッチボールになりもしない。

美冬

あ、あの。私、今日はとっても楽しかったですわ。こんなのは初めてで

夏生

夏祭り、来たことなかったのか?

自分でも驚くほどにすらすらと言葉が出てきた。まるでセリフをそのまま読んでいるような、自分が自分ではない感覚。意識はとうにこの数分後に飛び出していて、そこまでの道のりをなぞっているような。

美冬

そ、そういうことじゃありませんわ。今日はあなたと一緒に

床板がカタリと音を立てて、美冬が立ち上がった。僕はその勢いに思わず視線を奪われる。

頬を上気させ、今にもこぼれそうに潤んだ瞳をこちらに向けて、僕を見下ろしている。強く握った拳は白くなり、わなわなと震えていた。

美冬

どうしてわかってくれませんの?

夏生

そんなこと言われても

あぁ、許されるなら今すぐ自分を殴りつけてやりたい。こんな姿を見せられても、僕はまだ心のどこかで美冬を疑っていたのだ。ここで気を許したらいつもの高笑いを浮かべて僕をバカにするんじゃないか、と。

美冬

言います。言いますわ! 一度だけですから聞き返さないでくださいね

そう言うと、美冬は僕から視線を外して一度大きく息を吸い込んだ。

美冬

あなたを、私の彼氏にしてさしあげてもいいと言っているんですっ!

涙が零れる瞳をぎゅっと閉じて。萎れてしまいそうな体を胸元で合わせた拳で支えながら、美冬は僕にそう言ったのだ。

美冬らしい告白だと思う。どこまでも素直になりきれなくて、僕の鈍感さに苛立って、それでもめげずに伝えた精一杯の言葉だった。

僕の胸を射抜いた言葉の矢はそのまま突き立って、僕の心をごちゃ混ぜにする。今すぐ立ち上がって彼女を抱きしめたいと思う。

でも、僕の答えは決まっている。決めてしまったのだ、僕自身が。

『何偉そうなこと言ってんだよ。俺はお前の彼氏をさせていただく気はねぇよ』

前の僕は確かにそう言った。覚えている。覚えてしまっている。一字一句間違えることなく正確に。この言葉を揉み消してしまって、今すぐ彼女を受け容れたい。

息が荒くなる。動揺が全身を貫いたように衝撃を伴って僕の中を這いずり回っている。

答えを変えれば、この世界の『因果律』は崩れてしまうだろうか。きっとそうだろう。今日はまだ八月一六日だ。因果が切れるまでには時間がある。ここで美冬と付き合ってしまえば、間違いなく違う夏休みを迎えることだろう。

猛虎

それはあかんで

ふいに誰かが僕の耳元で囁いた。美冬に気付かれないようにそっと視線を動かすと、肩口の辺りに猛虎がふよふよと浮かんでいる。

猛虎

あかんで、夏生。そんなことしたら世界の『因果律』は崩壊してまう。自分の甘酸っぱい青春なんて迎える前に全部消えてまう。これはチャンスやない、ピンチや。自分の心が試されとるんや

猛虎の言葉を僕は黙って聞いていた。

甘酸っぱい青春? そんなものはどうだっていい。ただ僕は二度とあの顔を見たくないだけだ。美冬の、僕と彼女の世界がまるで違ったことを知った時の絶望と憐憫と怒りが入り混じったあの表情を。

どうにかあの美冬をなかったことにしたい。たとえ美冬の告白を受け容れないにしても、彼女を傷つけないでこの場を乗り切りたい。

夏生

ちょ、ちょっと

震える声で僕の考えを搾り出す。八月が終われば、因果は一度切断される。だから僕がこの夏休みだけは付き合わないでいれば、きっと他者に影響は及ぼさないはずだ。

夏生

ちょっと考えさせてくれないかな。ぼ、俺も突然のことで動転してて

美冬とはまだもう少しの間だけ友達。この夏休みが終わるまでは。

夏生

新学期、九月になったら必ず答えを出すから。それまで待っていてくれないか?

美冬の目を見て、僕はそう言った。

世界は、変わった。

どくどくと心臓が大きく音を立てる。世界が壊れる瞬間がこの次の瞬間にも来るかもしれない。いったいどんな光景なのだろうか。隕石が衝突するように強い衝撃が起きるのか、それともボロボロになった塗装が剥げていくように景色が落ちていくのだろうか。

美冬

わ、わかりましたわ。新学期、九月になったら……必ず

そこまで言って美冬は崩れるように木板の床にへたり込んだ。それを見て隠れていた秋彦と松原さんが飛び出してきて、こちらに駆け寄った。松原さんは優しく美冬の肩を撫でて抱きしめた。

僕はこの光景を見たことがある。前の時もそうだった。あの時、美冬は大声を上げて泣いて、怒った秋彦に連れて行かれるようにこの場を去ったのだ。

秋彦

おい

秋彦が僕に手招きをしている。その仕草に僕は無言で従った。

どうやら世界は壊れなかったらしい。因果の流れは間違いなく歪んだことだろうが、それでもなんとか世界の均衡を保っていられる程度のものだったらしい。

秋彦

何で断るんだよ

夏生

断ってないだろ。先延ばしにしたんだ

秋彦

あんないい娘なのに、何が不満なんだよ

夏生

いい娘も何も、いきなり過ぎて訳わかんねぇよ

秋彦とも同じように言い合った。秋彦が松原さんに告白したいというのは完全に嘘で、本当は美冬が僕に告白するために仕掛けられていた舞台だったのだ。松原さんが俺の友達である秋彦に相談して、俺と美冬が二人きりになるように画策していたのだ。

夏生

ちゃんと答えは出す。だから、今は放っておいてくれないか?

僕の掠れた声に秋彦はもう何も言わなかった。

美冬は松原さんに付き添われて帰っていった。その背中を見送って、僕はようやく死の淵での綱渡りから生還したのだと大きく息を吐いた。

猛虎

自分、何やっとんのや!? ワイが『因果律』を崩すかも知れんからきっちり歴史を再現しろ、って言うたん忘れたんか?

夏生

覚えてたさ。それでもあんな美冬は二度と見たくなかったんだ

猛虎

それだけのためにか?

それだけ? それだけじゃないさ。自分の命と引き換えに出来るくらい、あの美冬の顔が見たくなかったんだ。

美冬と過ごした短い時間、その意味を全て伝えるようなあの顔を。

美冬の全ての言葉、全ての行動の意味を僕に教えながら、それが無駄だったことを嘆くあの顔を。

僕は、見たくなんてなかったのだ。

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