夏生

うわああああ!

腹にかかっていたタオルケットを放り出し、僕は勢いよく跳ね起きた。

夏生

夢、夢だったのか?

なんて嫌な夢だったろう、トラックに轢かれて死ぬ夢なんて。その上、変な関西弁を話す犬によくわからないことを言われて、生き返らせてもらえるとかなんとかって。

しかし、どこからが夢だったのだろう。僕は確か秋彦の家に向かっていたはずだ。その途中で熱中症で倒れでもしたんだろうか。それで父さんか母さんが迎えに来て家で眠っていた。きっとそうだ。

浮かんでいるような不思議な感覚から逃れるように立ち上がって伸びをしてみる。間違いなく自分に脚がついていることに感動すら覚えてしまいそうな気分だった。

ふと、赤い表紙が目に留まった。ごちゃごちゃした学習机の上に、一冊だけぴしりと真っ直ぐに中央に置かれている。あの日記帳だ。秋彦の家に向かう前に確かにカバンの中に入れたはずだ。熱中症で倒れたのだとしたら、わざわざこれだけ取り出しておく必要もないだろうに。

夏生

まさか

僕はすぐにベッドの枕元に置いてあった携帯電話に手を伸ばした。そろそろ買い換えようと思いながらも先延ばしにしている二つ折りのガラケーを開く。

夏生

七月、二十一日。午前十時二十分

昨日は、いや僕の感覚ではもう四十日ほど前になるが、夜更かしして昼近くになって起きたのだ。よく覚えている。今日は、夏休みの初日だ。

僕はもう一度赤い表紙の日記帳に手を伸ばした。ページをめくってみるが、全てのページには罫線が引かれているだけで、一文字も書かれてはいなかった。

夏生

まさか、本当に? この日記をきちんと埋めれば、助かるっていうのか?

猛虎

せやで

日記から関西弁の答えが返ってくる。

夏生

って、うわあああ!

猛虎

なんやなんや。ワイの顔もう忘れてもうたんか?

夏生

何でお前がこんなところにいるんだよ

僕の肩に座るように猛虎がふよふよと浮かんでいる。やはり妖怪か何からしく重さは感じない。猛虎の周りだけ不思議と景色がぼんやりと歪んでいてまるで蜃気楼を見ているようだ。

猛虎

そら自分がちゃんと日記つけとるか確認したらんとな。もう一回言うとくけど、この日記には自分が前の世界でやったことそのままやって、そのまま書くんや。ええな?

夏生

わかってるよ

僕は学習机の椅子を引き、何年も使ってすっかり綿がへたれてしまった座布団の敷かれた椅子に腰かけた。記憶の中では昨日、今から四十日後の僕は毎年のことのように宿題に追われていて、この机に向かって必死に問題集を解いていた。

赤い日記帳の表紙には名前を書く欄がついていない。裏表紙も確認してみたが、やっぱり見当たらなかった。よくよく見れば、この日記帳には表紙にタイトルすら書かれていない。夏休みに入る前にもらった日記帳はこんな色だったろうか。仕方なく僕は一ページをめくり、表紙の裏側に小さく学年と組、それから桐原夏生、と名前を書いた。

そのまま最初のページに今日の日付、七月二十一日、と書き付ける。

猛虎

なんや、もう書くんか?

夏生

あぁ、その日に何やったか朝に書いておけば、慌てなくて済むだろ

猛虎

その計画性を夏休みの宿題に生かしたらええんちゃうか?

猛虎の小言を無視して、僕は記憶を頼りに今日これから起こる出来事を思い出す。さすがにキリのいい日、今日のような夏休みの初日にやったことくらいは当然のように覚えている。今日は十時過ぎに起きて朝昼兼用の食事に戸棚の菓子パンを食べる。それから昼過ぎに秋彦のところに行って、あいつが買ったばかりの新作ゲームで夜まで遊んでいたのだ。

猛虎

なんや、しょうもない一日やな

猛虎が僕の書き出す日記を読みながら、溜息混じりに首を振る。

夏生

いいだろ、そういう約束してたんだから

読書感想文と日記の宿題交換の時、秋彦が俺の方を誘ったのだ。新作ゲームのネット対戦に潜る前に俺を練習台にしたいという。最新作の予約を忘れていて手に入っていない俺には嬉しい提案だった。結局は前作とシステムが様変わりしていて、秋彦のところでやった分でお腹いっぱいになって買わなかったのだが。

それから、この日は僕が夏休みを通して巻き込まれた大きな流れの発端となる日でもあった。


昼過ぎ、予定通りの時間に家を出て秋彦の家に向かった。じりじりと焼け付くような太陽は七月も八月もまったく変わりない。一ヶ月で少しも変わらないことを実感すると、九月も同じような暑さが続くのではないかと錯覚しそうになる。秋彦の家は大きな交差点を挟んで向かい側。事故が多いところなせいか警察官がいつもいるので、秋彦の家に行く時は歩いていくことにしていた。自転車に乗ると何かと注意されるのが嫌だったのだ。

僕は赤信号の横断歩道に前で立ち止まった。そうだ、昨日僕はここでトラックに轢かれたのだ。流れていく車の波に目を凝らしてみるが、今はトラックの姿は見えない。

猛虎

心配せんでも、今日は轢かれんから安心しいや

夏生

わかってるよ。なんとなくだ

青に変わった信号を確認してゆっくりと歩き始める。猛虎の言ったように今日は轢かれるはずがない。それは僕自身が一番分かっている。それなのに僕はキョロキョロと僕と同じ方角に走る自動車を見ながら、交差点を逃げるように抜け出した。

秋彦

よう、この暑い中ご苦労さん

夏生

まったくだよ

一瞬、猛虎のことが気になったが、やはり秋彦には見えないらしい。猛虎は僕の肩の周りを浮かんでいるが、秋彦は何も疑問に思っていないようだ。

秋彦の部屋に入って、エアコンの風を真正面から浴びる。乾いた冷たい風が湿ったTシャツを乾かしていく。

秋彦

風邪引くぞ

夏生

それはそれで結構。どうせ休みだしな

ジュースのボトルとコップを二つ持ってきた秋彦が呆れたように後ろから声をかけた。そうだ、これで秋彦の言う通り夏風邪を引いていきなり最悪のスタートだったんだっけ。部屋に篭もっていれば因果律は崩れないなら控えめにしておけばよかった。

秋彦

んじゃ、早速相手してもらうぜ

据え置きゲームの電源を入れると長い長いコピーライトの画面が続く。数年毎に発表される格闘アクションゲームだ。今回から遂にネット対戦が実装され、顔も知らない人間と対戦ができるようになった。ただいきなり始めても一方的にやられるだけで面白くないから秋彦は俺を誘って練習しようというわけだ。

前作のやりこみのおかげで前のときも僕の方が優勢だった。とはいえ今なら過去の記憶がある分、僕がさらに勝ちを積み上げるだろう。少し手加減が必要かな。

秋彦

だーっ! 夏生、お前また強くなってないか?

夏生

新作の予約忘れて前作やり直してたからかな

数十戦を終えて、勝率は六割強、ミスを装ってわざと負けたりしていたから、実際はもう少し勝てただろう。でもあまりに勝ちすぎて秋彦がやる気を出してしまったら因果律が崩れてしまうかもしれない。慎重に慎重にと試合を運んでいると、遊んでいる気がしない。昼間に始めたが、今は日の長いに夏でさえ夕方と呼ぶに相応しい時間になっている。

秋彦

そうだ、夏生に聞いておきたいんだけどさ、お前彼女とかいるの?

夏生

は? いるわけないだろ、ぼ、俺に彼女なんて

焦った振りをしながら秋彦の顔をまじまじと見た。我ながら名演技だったと思う。焦って僕、と言いそうになってつかえてしまったのが、余計に良いアドリブになった。

秋彦

いい加減無理して俺って言うの辞めればいいのに

夏生

高校生にもなって僕、じゃダサいだろ。それより急になんだよ?

その先に待つ秋彦の答えも知っている。この後、秋彦は彼女が欲しいと言い始めるのだ。何を急にと焦ったものだが、高校生になって夏休みも男二人じゃ報われない。

秋彦

お前、松原春香(まつばらはるか)ってわかるか? 隣のクラスの。俺、あの子にこの夏告白する

夏生

そうか。じゃあ骨は拾ってやるよ

秋彦

失敗前提に話を進めないでくれよ。それでさ、どうにか来週に一緒に出かける約束を取り付けたんだよ。ほら、これ。レジャープールの招待券

そう言って秋彦は俺にチケットを一枚差し出した。二駅先にある大型レジャー施設。夏休みになればカップルやリア充グループや家族連れで賑わう場所だ。そのくらい僕も知っていた。幼い頃に家族で行ったこともある。

夏生

なんだ。自慢か?

秋彦

んなわけないだろ。付き合って欲しいんだよ、この日、プールに

夏生

はぁ?

秋彦の話はこうだ。なんとか松原さんを誘い出したはいいが、いきなり二人きりというのは絶対に気まずい。それならお互いに友達を呼んで四人ならば少しは空気も良くなるだろうという話だ。ついでに上手いところで秋彦と松原さんを二人きりにできるように取り計らって欲しいということだった。

秋彦

な、頼むよ

夏生

わかったよ

頭を下げ、頭上で手を擦り合わせて頼む秋彦を僕は冷ややかな目で見ていた。さっきの僕に負けず劣らずの名演技だと思う。この松原さんが好きだ、という言葉も含めて丸々秋彦は僕に嘘をついていたのだ。事情がわかっている僕から見ても騙されても仕方ないと思えるほどの熱演。でもその理由は僕のことを思ってのことなのだから、今回も素直に騙されてやるしかない。

秋彦

本当か!? それじゃ来週の金曜日に約束してるから駅前に朝九時に集合な。遅刻するなよ

夏生

遅刻していった方がいいんじゃないのか?

にやりと笑って返した僕に秋彦は焦って反論した。

秋彦

相手も友達連れてくるって言ってるだろ。気まずくて雰囲気どころじゃねぇよ

夏生

わかってるって

僕は顔を近づけてくる秋彦を片手で制し、立ち上がった。

夏生

それじゃそろそろ帰るかな

秋彦

あぁ、また付き合ってくれよ。それからプールの件、忘れるなよ

念を押した秋彦を話半分に聞き流しながら、僕は残ったジュースのペットボトルを直飲みして秋彦の家を出た。

夏生

ふぅ、だいたいこんな感じだったかな

猛虎

えろうお疲れさん。結構演技派やな、自分

夏生

知らないのか? 俺は中学で演劇部だったんだぞ

その言葉に頬の片側を上げて猛虎が笑う。

猛虎

ずっと小道具やったやないかい

夏生

何度か舞台も出たよ。名もない配役で

ふてくされてように答えた僕を見て猛虎は大笑いしながら僕の周りをぐるぐると回ってこちらを指差している。今すぐ殴り飛ばしてやりたいが、この体ではきっとすり抜けてしまうし、何より猛虎が見えない周りの人間からはおかしな人がいると通報される。今も交差点で警戒している警官に手足を押さえられてそのまま交番に連れて行かれるかもしれない。

昼間の熱を存分に蓄えたアスファルトの道路は日が落ちてもその熱さは一向に変わる気配がない。ゴムサンダルの底が溶けて形が変わってしまいそうだ。

夏生

なぁ、猛虎

猛虎

なんや?

夏生

俺の行動が変わると因果律が崩れて世界が崩壊するんだよな?

猛虎

せやで。何回言わせるんや

信号が青に変わる。僕は慎重に左右を確認して恐る恐る横断歩道を渡り始める。

夏生

だったら俺が八月三十一日に死ぬ事実を変えたら、因果律が変わるんじゃないか?

たとえ僕がただの高校生だとしても僕が生きているか死んでいるかで少なくとも周囲の人間の人生には少なくない影響があるはずだ。例えば両親、クラスメイト、親友の秋彦。それから彼女にだって。

猛虎

それは切れ目やから大丈夫や

夏生

切れ目?

猛虎

前に因果律を道やて例え話したやろ。あれで言うなら切れ目っちゅうのは分かれ道や。一年に数回ある分かれ道。どっちに進むかはその時の世界が決めること。自分が死ねば自分のおらん世界に、自分が生きてるなら自分のおる世界にや

ちょっとわかりにくかったか? と猛虎は僕の前で首を傾げた。僕はそれに答えないまま家の玄関の扉を開ける。これから夕食までは部屋にいたからそこで続きを聞けばいい。

夏生

わかったけど、それじゃあ因果律ってのはどうなるんだ?

猛虎

今、七月二十一日は八月三十一日までの一本道の途中や。せやからこの間に起こる因果が崩れると世界が崩壊する。せやけども九月一日からはもう世界は新しくなる。因果のうちの結果が決まってない以上、原因を曲げて叩いてこねくり回しても世界は壊れへんのや

わかったようなわからないような。猛虎と話しているのが聞こえないようにリビングへ続くドアの前を忍び足で通り過ぎ、自分の部屋のベッドに身を投げる。

猛虎

ま、とにかく自分にとっての大きな因果律っちゅうのはもうわかったみたいやな

夏生

あぁ、俺の夏休みで起こった他人を巻き込む出来事なんて一つしかなかったからな

だからといってもう一度あの後悔を繰り返すのかと思うとそれだけで奥歯がぎしりと鳴った。あんなみじめで酷いことをしなくちゃいけないかと思うと虫唾が走る。自分自身にだ。

猛虎

ええか、決して変な気は起こすなよ。あの事故の日までまったく同じことを繰り替えすんや。そうせんかったら世界は崩壊する

僕の耳元で猛虎が囁く。

枕に顔を押し付けて、僕は秋彦と松原さんとそれから彼女を巻き込んだ夏休みの一連の流れを思い返していた。

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