僕は毎朝、日記を書いている。

昨日書き忘れたわけじゃない。今日これから起こる一日の出来事をこの日記帳に書き記すのだ。そして僕は日記の通りに行動し、日記の通りの結果を手に入れる。全ては僕自身を救い出すために……


八月三十一日は学生にとって明日の命運を決める日である。わかりやすく言うならどれほど夏休みの宿題が終わっているか、ということだ。

夏休みの宿題で一番面倒なものはなんだろうか?

問題集、美術の水彩画、読書感想文。

どれをとっても頭が痛くなるほどだが、今日始めてもどうにもならないことはない。最終日に一番僕たちを困らせるもの。それはこの夏休みの日記帳だ。

太陽の暑さを体現したように真っ赤な表紙の日記帳は、夏休み初日から中身は白一色で黒鉛の一つもついていない。今から埋めるにはほとんど無理な話。あっという間に過ぎた四十日間の記憶は遠く彼方に消し飛んでしまっている。だがしかし、僕の頭から抜けてしまっていても誰かが書き留めてくれていれば問題ない。

夏生

よし、行くか

僕は寝転がっていたベッドから起き上がり、快適な空間を約束してくれていたエアコンの電源を切った。もう手は打ってある。夏休みの最初に秋彦と約束しておいたのだ。僕が読書感想文を二枚書く代わりに、親友の橘秋彦(たちばなあきひこ)は日記をきちんと埋めておく。僕はそれを最終日に写すだけ。読書感想文が丸っきり同じでは怒られてしまうが、日記くらいなら笑って許してくれるに違いない。何日か大きなイベントがあった日のことくらいは僕自身覚えているから、それでちょっと差をつけてやればいいだろう。

部屋着よりいくらかマシな格好で、ファイルに挟んだ感想文を入れ、僕は家を出る。どうせ嫌になるほど汗をかくのだ。秋彦に会うためだけに小奇麗にする必要もない。

高く昇った太陽が容赦なく肌を焼く。ジリジリと肉が焦げているような気分さえする。頭がぼんやりとして景色が歪んでくる。

夏生

何か飲んでくればよかったかな

今更言ったところでどうしようもない。早く秋彦の家に行って冷えた麦茶でも出してもらおう。

交差点から一歩を踏み出したその時、右か左か後ろか正面か、あるいは全ての方向から悲鳴が聞こえた。ドラマでよく聞いた金属が擦れる音。それがブレーキ音だと気付いたのは、トラックがすぐそこまで迫ってきたときだった。

とっさに体を前に投げる。でも車幅の広いトラックから逃げることは叶わなかった。

重い重い衝撃。胃の中が全て押し出されそうな圧迫感。肺の中に溜まった空気を全て吐き出した僕は、暗い暗い意識の底へと沈んでいった。

猛虎

これこれ、まだ起きんか

夏生

う、あ?

誰かが僕の体を揺さぶっている。毛むくじゃらの小さな手。温かい柔らかさが腕に当たっている。

猛虎

ようやく起きたんか。えらい寝ぼすけやな

夏生

おま、えぇ!?

その手の主を見て僕は思わず目を見開いた。

猛虎

なんや桐原夏生(きりはらなつき)。お前結構元気やな

関西弁で喋る声の主は、どこからどうみても犬だった。

夏生

なんでお前、犬なのに喋って

猛虎

ま、とりあえず落ち着き。喋る犬や言うけど、そんなん言うたら自分も幽霊やんけ

は、とその言葉に自分の両手を見つめてみる。半透明の掌からは足元の河原の石が透けて見える。そのまま視線を下に動かすと、今まで自分を支えてくれていた脚がさっぱりなくなって一つにまとまって浮かんでいた。

夏生

俺、死んだのか?

猛虎

せやで。ここは賽の河原。向こう岸があの世ちゅうわけや

霧の立ち込める川の向こう岸は見えなかったが、今の自分の体を見れば信じるには十分すぎた。

夏生

あぁ、子供のうちに死んじまったらこの河原で石を積まなきゃいけないんだっけ?

猛虎

なんや、気が早いなぁ。ワイは別にそれでもええけど、ちょっと渡すもんがあってな

そう言って関西弁の犬は粗悪な装丁の冊子を一冊、僕の前に差し出した。

夏生

これ、日記帳

秋彦に写させてもらうつもりだった中身が真っ白な日記帳。開いてみるが、やはり中には何も書かれていなかった。

猛虎

その日記帳がな、こんなこと言いおるんや

私はこのまま真っ白なまま何も書かれずに山積みのプリントの下に埋もれていきたくはありません。もし私のページをきちんと埋めてくれると言うのなら、私の命と引き換えに夏生を助けてあげてください。あ、勘違いしないでください、私は自分に与えられた職務を全うしたいからであって別にあなたに生きていて欲しいとかそんなんじゃないんですからねっ!

猛虎

とか言うとったで

夏生

人生で一度は言われてみたいな、と思ってた言葉だけど、相手が日記帳だとなんか思ったより嬉しくないな

猛虎

んで、どうするんや?

関西弁の犬は僕の顔を見上げながら、ん、ん? と煽るように小首を左右に傾げている。

夏生

このページを埋めたら、俺は生き返れるのか? 犬っころ?

猛虎

猛虎(たけとら)や、猛々しい虎と書いて猛虎

犬の癖に虎を名乗るのか、この関西弁。

夏生

で、猛虎。俺はこれに何を書けばいいんだ?

猛虎

まぁそう焦らんでもええやろ。立ち話も何やから座り

夏生

いや、俺は足ねぇから

今だって僕は立っていない。何もない空間に自分では何も考えていないのに当然のように浮き上がっている。ほなワイだけ失礼して、と猛虎はおすわりすると、さっきより真面目な口振りで話し始めた。

猛虎

ページを埋めたら生き返れるってのはちょっとちゃうわ。これからワイがお前を生き返らせたるからな。お前のやることは夏休みの初日に戻って毎日きっちり日記帳をつけることや

夏生

たったそれだけでいいのか?

猛虎

まぁ、最後まで聞き。ただ日記に書いたらええっちゅうわけちゃう。この世界にはな、『因果律』っちゅうもんがある。それを壊してもうたら全部がパアや。お前が生き返ろうとした歴史が丸っとおしゃかになってまう

夏生

因果律?

猛虎

せや。なんちゅうか、時間の経過の道みたいなもんやな。原因があって結果が発生するっていうのが続いてきたんが時間や歴史やろ? せやからその原因になることをお前が壊してしまうと世界全体に歪みが生じて道が断裂してまうんや

猛虎が小さな前足を器用に使って、弾けるように両手を開いた。世界が壊れてしまえばそこにいる人間、生物、植物。あらゆるものが消えてしまうことになるという。

猛虎

まぁ、あんまり深く考えんでもええ。原因となる部分が変わらんかったらええんや。例えば自分、いっつも部屋に一人でひきこもっとるやろ?

夏生

いつもじゃねぇよ

猛虎

その時に寝てようが、マンガ読んでようがゲームしてようが構わんのや。誰にも影響せんからな

夏生

勉強してる時もある!

そんなんどうでもええがな、と猛虎は前足を振って話を続ける。

猛虎

自分みたいなただの高校生風情が世界に与える影響なんてほとんどないわ。せやけど、何がどんな結果に繋がっとるかはワイにもわからん。とにかく夏休みのことをよーく思い出して、他人と関わるときは一挙手一投足、一字一句同じ行動をするようにせなアカンで

そう言い終わると、おすわりしていた猛虎の体が座ったままふわりと浮かび上がった。

猛虎

ほな、覚悟はええな?

夏生

え、ちょっと、ま

僕の頭上三メートルほどまで浮かび上がってぴたりと静止した猛虎から最後の質問。それに答える暇もないうちに、今度は自由落下速度で猛虎が僕の頭に急降下。

避けることもままならないまま、僕の顔面に猛虎がヒット。そのまま河原の砂利の中をすり抜けて、僕の体は真っ逆さまに落ちていった。

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