アリシア

『アベル』

わたしは最初、彼を見て恐怖した。こんなにも人間に見えるのに、人間ではないという事実に。

今まで人形師であるおばあちゃんのそばで星の数ほどビスクドールを見てきたはずなのに、ここまで精緻な人形は初めて見たのだ。

確かにこの人形の瞳は空虚で、そこには何も詰まっていない。生命も夢も、感情でさえも――。にもかかわらず、誰もが精巧な造りのそれに、心を奪われた。もちろんのこと、わたしもだ。

ただ、そんな魅力的な彼には唯一の欠点があり、そこで人々の購買意欲がそがれているようなのだ。

彼には、右目がない。
そう、ぽっかりと目玉のない目が、ブラックホールのような闇を彷彿とさせる。通りがかる人々はそれこそ一瞬は彼の美しい容姿に見ほれるが、その欠陥を見てすぐに目をそらす。

アリシア

こんなにも美しいのに、なんで……

遠慮がちにショーケースへ両手を置き、睫毛がガラスにつくほど目を近づけた。うん、やっぱり人間そっくりだ。陶磁器でできているはずの肌はなぜかみずみずしく、頬に赤みがさしているように見える。今にも動き出しそうだ。

アリシア

欲しいなぁ

無意識に呟いた言葉に、自分自身が一番驚いた。その拍子でショーケースから後ずさり、彼の左目から目をそらす。
――いけない、もしかしたら彼の目に魔力が宿っていて、そのせいで魂を奪われかけているのかもしれない。

その日は逃げるように踵を返した。夕陽によって紅く燃え上がる石畳がとても眩しく、久しぶりに世界が色づいて見えた日であった。

アリシア

あれ、いない……?

彼のいる骨董品屋に日参すること数か月、ついに変化が現れた。そう、いつもショーケースに居座っていた彼がいないのだ。
手にあるものを握りしめたまま、呆然と立ちすくむ。

アリシア

やっと、売れたのね

売れて良かったではないか……。いや、違う。なんだろう、もやもやした感じ。
この骨董品屋の窓辺に彼が居座ることが日常と化していたわたしにとって、彼との別れは空虚感さえ感じるものだった。

緋色の夕陽が反射する窓に右手を置き、嘆息した。はたから見ると、まるで恋している少女のようだろう。

アリシア

誰に買ってもらえたのかしら
成金のお嬢さんとかでなければいいけど

心内に潜む違和感を振り払うように、右目にかかる長い前髪をはらった。
ふと、握りしめていたお金を垣間見る。これは、今まで贅沢せず貯めてきたなけなしのお金であった。ここ数か月、花売りの少女に1フランで花と交換することさえ躊躇していた。良心が痛みつつも、それくらいの気概で貯めてきたのである。

――もちろん、こんな雀の涙ほどのお金で足りるとは思っていなかったけど。それでも勇気を出して店主に頼み込もうと決心したちょうどその時に旅立っているだなんて……。
全身から力が抜けて腕をダランとおろした、その時であった。

いきなり開く、骨董品屋の扉。
重そうな扉なのに、どうやら勝手に開いたらしい。口を開かせたまま、忍び足で扉に近づく。久しぶりに心臓が早鐘をうち、お金を握りしめた手を胸にあてた。

好奇心のあまり入ってみると、想像以上に薄暗くて気味の悪い内装で尻込みしそうになる。今までなんとなく入ることを躊躇していた店内は、趣味を疑う程の深紅の絨毯とタペトリーで不気味に統一されており、居心地の悪いところであった。

見回してみるとやはりどれも年季の入った骨董品ばかりであった。これぞまさしく想像通り。色とりどりのコンパスや鍵だけでなく、いかにも胡散臭い壷やオルゴール、中には処刑道具のようなものまで置いてあり、頬を引きつらせた。

アリシア

あの、どなたか……



どうやら今のところ店主はいないようだ。 
仕方なく、周りに気を配りつつもゆっくり店内を歩く。万が一とはいえ、壊してしまったら大変だ。一生かかっても払いきれない程の高価な代物も含まれているに違いない。
そんななか、挙動不審にあたりを見回していると、それこそ店の角にお目当ての存在を発見して息がつまる。

アリシア

あ!

ふんわりとした絨毯を踏みながら近づく。すると、売れてしまったと思い込んでいた彼――アベルがいたのだ。鈍く胸にあふれる何かに戸惑いつつも、遠慮がちに彼に歩み寄る。

やっと、窓辺で見た時よりも鮮明に人形を見ることができた。
等身大の見目麗しい人形、アベル。 この人形はなぜこんなにも寂しそうな目をしているのだろう。長い睫毛の下にあるサファイアの瞳は、どことなく悲壮感を漂わせていた。

アリシア

こ、こんにちは……?



なんでわたしは人形に挨拶しているの!
思わず頬があつくなり周りを見渡すが、もちろん誰もおらず、ほっと胸を撫で下ろす。
少しだけいいだろうか。思わずその金糸のようなさらさらとした髪を指で掬いたくなる。


ほんとう、なんて綺麗なのだろう。この世のものではないみたいだ。
たかが少年の姿を象った人形だと分かっていながらも、確実にわたしは心を奪われていた。きっと、この人形の作り主は溢れんばかりの愛情を注ぎこんだに違いない。仮にも人形師の孫であるわたしはそう確信した。

おや、マドモアゼル。いらっしゃい

アリシア

きゃ!

背後から嗄れた声が聞こえて振り返る。するとそこには人の良さそうな中年の男性が佇んでいた。白髪混じりの髪は後ろで纏められており、目尻の皺は彼の穏やかな人格を表しているように見えた。あまりにもこの怪しげな雰囲気の骨董品屋に似合わない店主だ。

アリシア

こ、こんにちは



無理やり微笑んで最低限の挨拶をすると、彼はまるで品定めをするような目で、わたしの頭の頂点から足のつま先まで視線を巡らす。
むっとした顔で見ていると、彼は、

うむ

とひとりで納得したように頷き、白い歯を見せた。

マドモアゼル、どうかな? 
そこの人形に興味はないかな?

アリシア

え、はい?

唐突の質問に目を丸くさせていると、彼は

所持金はいくらかね?

と追い詰めるように質問を投げかける。

視線を泳がせつつ握りしめていたお金を見せると、彼はさらに表情を緩めて何回も頷いた。

マドモアゼル、そこの人形を買わないかい? 今なら安くするよ

予想だにしなかった提案に狼狽えた。こんな好機は生まれて初めてかもしれない。
ごくりと息をのみ、乾いた声で、

アリシア

いいんですか

と尋ねると、店主は首が折れそうなくらいにうなずいて見せた。

この人形は可哀想なんだよ、マドモアゼル
今までまともなマスターに巡り逢えなかったようでね

アリシア

え?

ああ、いや……何でもない
だがね、マドモアゼル
君ならこの子を大事にしてくれるだろうと思うんだよ



あまりにも必死の形相に後ずさる。
その際、後ろにあったアベルにひじが当たった。
先程の衝動で視線の向きが変わったらしく、今度はそのドールアイはわたしを真っ直ぐ見つめているような体制になった。

例えこの人形を買ったとしても、こんなにも大きな等身大の人形の置き場に困るといった現実的な悩みが今更思いうかぶものだが、この機会を逃してしまったらもう他の手に渡ってしまうかもしれない。

アリシア

……分かりました。では、買わせてください

その一言でわたしの人生が180度変わることになるとは、この時思いもよらなかったのだ。

あら、アリシアじゃなくて?

その気取った甲高い声にぎくりと肩を震わせた。しかもタイミングが悪い。ちょうど先ほどこっそりと購入したアベルを布にくるんだ状態でこそこそと歩いていたからだ。
ゆっくりと振り返る。すると、灯柱のガス灯に照らされた声の主の顔がゆらりと動いた。

アリシア

べ、ベル……な、何でこっち(左岸)に!?

彼女はベル・デスタン。アンティークのメガネをかけ、腰まで伸びた栗色の長い髪は、ふわふわと風になびかせているパリジェンヌだ。

彼女はブルジョワの多い右岸、しかも高級住宅が密集している16区に住んでいる。
わたしのほうは左岸の学生街のある5区に住んでいるため、彼女の生活は想像もつかない。

ベルはただのブルジョワだと思われるのが嫌いらしく、いつもブルジョワという単語に過剰反応するのだ。何せ、あの名門貴族デスタン家のご令嬢だから仕方がない。

わたしは彼女に苦手意識をもっているものの、彼女はどうやらわたしに興味があるらしく、見かけたらこうやって話しかけてくるのだ。

わたしとしては、まるで見世物小屋でお金持ちにじろじろと品定めされている感覚で、少々不快だったりする。

なんでって……優雅な夜のお散歩よ

アリシア

お嬢様が夜に一人で散歩って、危険じゃないの

それはあなたにも言えることではなくって?

鼻から抜けるようなつんけんとした物言いに、うっと食い下がることをやめた。溜息をお見舞いして去ろうとするも、彼女は距離をあけたままついてくる。なんだっていうんだ……。

ねぇ、その手に持ってる大きなものはなにかしら? 死体? もし死体ならわたしが標本にしてあげてもいいわよ

アリシア

い、いや、死体じゃないから! ……って、ベル。まだコレクター気質は治らないの?

なぁんだ、死体じゃないのね
ええ、私は集めることが生きがいですもの
それより、ねぇ……

バサッと布の擦れる音が響く。
すぐ背後にまで迫っていたベルに、アベルをくるんでいた布をとられてしまったのだ。

しまった、と思った時にはもう遅くて、ベルは一瞬驚いたように目を丸くさせると笑みを深くさせた。

あらぁ、ビスクドール
しかも優秀な職人さんがつくったのね、いいものじゃない

これは危ない。
わたしの鈍っていた感覚がやっと眠りから覚めたようで、脳へ指令を出した。逃げろ、と。

アリシア

ご、ごめんなさい!!

なぜか謝ってベルから布を取り返し、すばやくアベルをくるみ、自宅へ向かって全力疾走した。

あ、待ちなさいよ! せっかく……

そこまで聞こえたが、わたしは逃げることに必死だったので、冷たい夜風を肺いっぱいに吸い込む以外何も取り込みたくなかったのだ。

笑い声の絶えない家に帰れることは羨ましい。けれども、わたしは違う。お母さんや妹のエリゼが住む家の離れに住ませてもらってるわけで、家族のはずなのに家族の扱いを受けていないわけだ。

除け者状態には慣れたものの、彼女たちの家からこぼれる笑い声、温かい光を見る度に、自分の存在が薄れる感覚が溢れてしまう。下唇を噛みしめつつ、いそいそとアベルを抱えて離れへ移動した。

離れといっても、200年も前に建てられた二階建ての小屋を少々改築したものだから埃臭い。たてつけの悪い扉を両手で開き、持ち運ぶタイプのオイルランプを燈すと、太陽のような包容力のある光がおかえりと言ってくれている錯覚に陥った。


オイルランプを凝視していたものの、はっとわれに返った。今日のわたしはおかしい。いつものわたしは、何も感じず、習慣としてオイルランプを燈すだけなのに……。

夜が深まると感情も深まってしまうものなのかしら、と独り言を漏らしてアベルを抱えて二階へ引き摺りあがっていった。

なんとか、自分の部屋(といっても屋根裏部屋のような場所だけども)にアベルを置いてほっと息を吐いた。
途中でお母さんやエリゼに気づかれてしまったらどうしようかとひやひやしたものだが、皮肉にも彼女たちがわたしに無関心なのが良い方向へ働いたわけだ。

アリシア

アベルがうちへ来ることになるなんて、本当に夢のよう……

雀の涙ほどのお金をもっていったものの、まさか本当に手に入れてしまうとは。

あまり実感が湧かず、未だに昂ぶる鼓動をおさえるのに必死であった。
まだ布にくるんだ状態で壁際に置いているアベルをまじまじと見る。早く布をとればいいのに、今日一日で色んな衝撃的なことを体験したせいで、これ以上の刺激は体が拒否しているのか、明日でいいやと思っている自分がいた。

アリシア

ごめんね、明日あらためて挨拶するからね……。さあて、と

ビスクドール相手に軽く謝罪し、木製のすすけたタンスにしまっていた歌詞と本を取り出した。

大きな出窓から差し込む黄金の月光が、オイルランプよりも頼もしい文字の案内役だ。歌詞のほうは、カルメンの舞台で歌われる『ハバネラ(恋は野の鳥)』で、本のほうはデパートで薄利多売の対象にされた、『オペラ座の歴史』だ。

毎晩か細い声で歌い、本を読んで勉強する。
もちろん、これでオペラ座の女優になれるとは思っていない。ただの慰めのようなものだと言い聞かせているが、月夜のステージの上でくらい、眼裏に染みついた"あの人"のようになりたいのだ。

"あの人"は、パリへ来て間もないわたしに光を与えてくれた。
カルメンの舞台で深紅の衣装を身にまとい、表情をくるくると変えて踊り歌う彼女に、聴衆は男女関係なく虜にされてしまったものだ。

突き抜けるような美声がシャンデリアを揺らし、わたしの心も揺らされる。あまりにも心を奪われたものだから、彼女と話をしたくてこっそりと舞台裏へ忍び込んだっけ。すると偶然にも彼女と鉢合わせになり、緊張のあまり声が発せられなかったわたしへ妖艶な微笑みを浮かべてくれたのだ。

あらまぁ、可愛い野鳥さんが迷いこんだのかしら? だめよ、ここは野鳥さんが来るところではないの

囀るようにやわらかく注意すると、そっとわたしの手を包み込んで裏戸へ連れて行ってくれた彼女。別れ際に思い切って

アリシア

わ、わたし! 
あなたの舞台に感動したんです
どうやったらあなたのようになれますか

と噛みながら尋ねると、彼女はブロンドの髪を耳にかけながら更に微笑んだ。

まずは練習が大事ね
だけど、練習だけでは女優にはなれないわ

まずはね、あのお月様のように真っ暗な闇の中でも自分から光を燈せるようにならないといけないの
わかるかしら?

そう言い残し、彼女は風のように去って行った。あれからわたしは毎晩欠かさず練習をしているものの、どうやったら自分から光を燈せるかはわからずにいた。

アリシア

――L'amour est enfant de Bohême
(恋はジプシーの子よ)

自分の声が窓に反響する。
声だけは自分でもわかるくらいに透き通っていて自信があるものの、客観的に考えてなぜか自分の歌は魅力がない。

違う、こうじゃない。
なんで彼女のような、心を共鳴させるような歌にならないのか。

恋? 恋をしていないからかしら? 
ジプシーのように放浪的で享楽的に愛を追い求めればわかるのかしら。

そんな想いを巡らせながら歌っていると、

という忍び笑いのようなものが耳に入る。

心臓が飛び跳ね、警戒態勢で周りを見回す。しかし、これといった変化はない。すすけた茶色の壁に、月光で姿を現す埃、所狭しとおかれた家具、何も動いていないし、ネズミがいるわけでもなさそうだ。

アリシア

……気のせいかしら

首をかしげながら、再び口ずさむ。
すると、今度は布の擦れる音が聞こえ、口を開いたまま身を強張らせた。な……何の音だろう。警笛が頭で鳴り響くが、人は恐怖を感じるとうまく動かないもので、息さえうまくできない状態になってしまう。

ああ、心臓が皮膚から突き破りそうな感覚。
どうしよう、逃げるべきか? 

そう逡巡していると、カツン、カツンという音がこちらへ迫っていることに気づいた。歌詞の書かれた紙がひらりと膝へ落ちることに気づかないくらい、その音に神経をとがらせる。すると、

アベル

へったくそ。お前はただの楽器かぁ?

耳元で澄んだテノールの囁き。
不覚にも聞きほれてしまう美声のせいで、頭が真っ白になる。

ゆっくりと振り返ると、そこには月光に照らされた金糸に、大きな透き通ったアクアマリンの左目と、闇を取り込む右目が待ち受けていた。

アリシア

!?

腰を抜かし、声にならない悲鳴をあげた。
震える指で彼を指さすと、彼は整った顔をピエロのように歪め、不敵な笑みを浮かべた。

アベル

なんだよ、お前が望んで買ったドールにその反応はねぇだろうが、え?

美声に似合わぬ汚い言葉遣いで吐き捨てる。嘘だ、目の前でビスクドールが話をしている……? 奇想天外の出来事に、わたしの出来損ないの頭はついていかない。それに、こういってはなんだが彼の容姿に似合わない喋り方にがっかりしている冷静な自分もいる。

アリシア

え、えっと……アベル?

震え声で呼ぶと、彼は更に口角を上げて腕を組む。どうやら肯定の意らしい。

アベル

皮肉だなぁ。お前、人間のくせに俺より人形らしいじゃねぇか。ここ、空っぽなんじゃねぇの?

ここ、とわたしの頭にぐりぐりと人差し指を押しつけながら言うアベル。ひ、酷い……。よく他人から言われる言葉で慣れているはずなのに、なぜかアベルに言われたら心臓がちくりといたんでしまう。なぜだろう。

アリシア

だって……人形らしくしていないと、愛されないもの……いや、どちらにせよ、愛されていないけど……

目を伏せて弱音を吐く。あのベルにさえ言わない愚痴を、なんでドール相手に吐いてしまうのか自分でも分からなかった。
すると、彼は一拍おいてから、

アベル

ふぅん

と言う。

アベル

なるほど。だーからそんな幸薄そうななりしてるわけ?

うっと言葉につまり、視界がぼやけてきた。なぜ初対面の(といっていいのかわからないが)ドールにこう責められないといけないのか。エプロンドレスの裾を握りしめていると、腕に冷たい何かがふれた。

アリシア

!?

そこには、彼の白い手があった。その手と彼の顔を交互に見やる。すると彼は面倒くさそうに眉間にしわを寄せたまま、わたしの手を引っ張った。
何をするのかと思っていると、ちょうど月光が強く当たる場所へ誘導され、スポットライトの下にいるような感覚に陥ってしまった。

アリシア

な、なにを!?

焦るわたしを見て、彼はニヤリと笑い、右手をわたしの腰に、左手をわたしの右手に当てた状態でステップを踏んだ。こちらはわけがわからず、ただ彼のステップにぎこちなくついていく状態だった。

アベル

『おお、ジュリエット! 
おまえはわたしがずいぶんきっぱりしていて、あらゆる絆の敵だと思うことでしょうね。
――自然の唯一の掟は、大いに楽しみなさい、誰を犠牲にしてもかまわないからというものなのだから』

抑揚のある声調でアベルは語り、度肝を抜かしたわたしが後ろへ傾くと、細いくせに頼りがいのある右手が不自然な恰好でわたしを支えた。

アリシア

えっと、それ……マルキ・ド・サドの……?

アベル

ちっ、面倒くせぇな
そうだ、サドの『悪徳の栄え』でデルベーヌ院長が言った言葉

お前はもっと図々しくなれ
お前の人生はちっぽけでも、お前しか主役はいねぇんだよ

そこまで言うと、またもやピエロのような笑みをこびりつけ、腰をひきよせて正常な体制に戻る。

アベル

主役よ、お前の名前はなんだ?

アリシア

あ、アリシア。アリシア・バレ

誘導尋問のように聞かれて答えると、アベルは愉しそうに手を叩きながら意気揚々としてこう言った。

アベル

さあ、アリシア・バレ
その薄汚いなりと不幸すぎる存在で、このぎらつく光の都市パリをどう震撼させてしまうのか! 
彼女の名演技にこうご期待!

人間よりも人間らしいビスクドール、アベル。彼はコロコロと態度の変わる、口の悪い人形だが、なぜか人を惹きつける魅力がある。

アベルは道化師のような振る舞いと微笑みでわたしへ何かを差し出した。それは、夕闇が息づく不思議な時計状のカギであった。

アベル

さあ、この鍵でパンドラの箱を開けて、未来まで名をはせる名女優となりたまえ

わけがわからなかったが、それでも時計の秒針が進むように、わたしのちっぽけな人生も進んでいっていることを痛感した。

2.人間に似すぎたビスクドール

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