その、次の日。
その、次の日。
マリアは箒を手に、教会の前に立っていた。
土曜日に教会の掃除の手伝いをするのが、最近のマリアの習慣。昨日付き合いで飲んだ少しのお酒で少し二日酔い気分があるが、このボランティアはマリアが決めた、小さい頃にお世話になった教会への恩返し。サボるわけにはいかない。
表の掃除が終わったので、裏へ回る。
すぐに。聞き知った声に、マリアは思わず近くの茂みに身を隠した。この声は、……昨夜聞いた。茂みを少しだけかき分け、声のした方を見る。
昨夜は娘がお世話になりまして
予想通り、教会の裏手にあるソウの家を訪ねている、ハルカ先輩の母親の姿が見えた。先輩の母親の後ろには、当のハルカ先輩が小さくなっている。
いえいえ
一方。応対するソウの母親の後ろに、ソウ自身が立っていることに気付く。
隠れて見ていることが恥ずかしくなり、マリアはそっと立ち上がると音を立てないよう、誰にも気付かれぬよう用心しいしい教会の表まで戻った。
明るいところで、自分の格好を見る。マリアが見たハルカ先輩は、柔らかな色合いのワンピースにカーディガンを羽織ってとても女らしく、可愛らしく見えた。対して自分はどうだろう。父にねだって譲ってもらった男物のダッフルコートにジーンズという、掃除には相応しいがソウと会うには相応しくない格好をしている。それが、少し、恥ずかしい。
そこまで考えて、はっとする。何故自分は、ソウやハルカ先輩のことを気にしているのだろうか? ハルカ先輩なら、可愛いし、お嬢様だから、医院の御曹司であるソウには、自分よりも似合っているように、思える。そして。……それで、問題ないではないか。
そう思うのに、この心の痛みは、何なのだろうか?
その日の午後。
マリアは、街のオープンカフェでのんびりと通行人を見詰めていた。
テーブルの上には、温かいコーヒーと甘いケーキ。そして買ったばかりの語学テキスト。英語も必要だが、将来を考えると中国や東南アジアなどアジア圏の言葉も知っておいた方が良いだろう。そう思い、お小遣いを叩いて買ったもの。CD付きだから、帰ったら携帯プレーヤーに落として聞いてみよう。テキストをぱらぱらめくりながら、マリアはそんなことを考えて、いた。
と、その時。
見知った影が、目の端を横切る。
……
あれは……ソウ? でも、まさか。今日は勉強会があるって言ってなかったっけ? そして、その横で楽しげにソウと話しているのは。
……
ハルカ先輩!
叫びそうになるのを、ギリギリで堪える。楽しげなハルカ先輩の手には、ソウが行きたそうにしていた恋愛映画のパンフレットがある。ハルカ先輩の母親が、先輩を映画に連れて行ってくれるようソウに頼んだのだろうか? 映画好きとはいえ、安請け合いするソウもソウだ。
次の瞬間。別の声が、マリアの心に響く。
良いじゃない
別に、ソウが誰と映画に行っても
それもそうだ。ふっと息を吐く。マリアは映画が苦手だ。だがソウは一人で映画館に入ることが嫌であるらしく、しばしばマリアを映画館へと引っ張って行く。それが苦痛であったことを、今更ながら思い出した。ハルカ先輩の趣味は映画鑑賞だと聞いたことがある。気の合う者同士、上手くやれば良い。気を取り直して、マリアは冷めかけたコーヒーに手を伸ばした。
と。
……
マリアの方をちらりと見たソウが、不意に、ハルカ先輩の腕を引いてその身体をソウ自身に密着させる。そしてそのまま、ソウはハルカ先輩と共に、人ごみの中へと、消えた。
コーヒーを飲む余裕は、もう無い。
マリアは呆然と、ソウが消えた方向を眺めて、いた。
その次の週の月曜日。
……
……ソウ
英語科の校舎を出たマリアは、校舎の玄関前に腕組みをしたソウが立っているのを認めた。
ソウにどう対応するかは、昨日決めた。今朝も、マリアの家の前に止まっていたソウの車を無視し、歩いて大学に行った。決めた通り、マリアはソウを無視すると、校舎の裏口から帰ろうとくるりと踵を返した。
不意に、目の前が塞がる。見上げると、マリアのすぐ傍に、ソウの何時になく厳しい顔が、あった。
一緒に、帰らないか?
たどたどしく、ソウが口に出す。
断る
マリアの答えは、単純明快だった。それでも、声の震えを止めるのは、難しい。
私の他に、いるでしょ?
助手席に乗せるのに相応しい人
何とかそれだけ、マリアは言った。
次の瞬間。ソウの腕が、マリアの肩を掴む。
マリア!
何をされるかマリアが理解する前に、ソウの唇がマリアの唇を奪った。
いやっ!
ありったけの力で、ソウを突き飛ばす。そしてそのまま、マリアはソウの横をすり抜け、全速力で走った。
気が付くと、マリアは教会の中にいた。
教会入り口傍の、昔かくれんぼに使っていた暗がりに、座っていた。
……ユキ
涙が、止まらない。ソウの唇の感触が、生々しく残っている。その感触に、覚えたのは、間違いなく嫌悪感。
ユキ……
呟きが、漏れる。ユキと交わした、あの冷たい口づけの方が、ずっと良い。
どのくらい、泣いていただろうか。
マリア、見つけた
幼い声に、はっと顔を上げる。まさか。でも、この声は、確かに。
マリア
暮れかけた陽を背に、マリアの前に立っていたのは、ユキ。
やっぱりここに居たんだ
かくれんぼの時はいつもここだね。そう言いながら、ユキは、驚きで何も言えないマリアの横に座る。そして。
ごめんね
囁く声が、マリアの耳を打つ。
僕は、何もできない
マリアを泣かせるばっかり
ううん
そんなことは、無い。ユキは、マリアに、こんなちっぽけな自分に『優しさ』を、くれた。それだけで、良いのだ。ただ一つ、言うとすれば。
私は
一緒に、居て欲しかった。それだけ、呟く。我が儘だとは分かっているが、それが、マリアの本心。
今でも、居るよ
徐に、ユキがマリアの胸元を、その小さな指で差す。
そして。現れたときと同じように唐突に、ユキはマリアの前から姿を消した。
……ユキ
再びの涙が、頬を濡らす。
そうだ、ユキは、マリアと一緒に居る。
……マリアの、胸の中に。
だから。
その、次の日。
大学で自習する為に家を出たマリアの前には、ソウが立っていた。
……マリア
昨日とは打って変わって、ソウの身体が小さく見える。
だが、ソウを許したわけではない。許す許さないの問題ではないのだ。……私は、ソウの気持ちに答えることが、できない。ソウが嫌いだからではない。ユキの方が、ずっと好きだから。
だから。
昨日は、ごめん
頭を下げたソウを、昨日と同じように無視する。
でも、僕は
バイバイ
ソウが言いかけた言葉を、マリアはぴしゃりと、封じた。
そしてそのまま、雪が降りそうな空の下を、大学まで歩く。
私ニハ、恋ハ、必要無イ。