マリアの背後、すぐ近くで、高い声が響く。
カラオケ行きたい
ねえ、マリア、行こ!
マリアの背後、すぐ近くで、高い声が響く。
振り返る前に、マリアの背に温かいものが覆い被さってきた。
ねえ、マリアってば~
背後霊のようにマリアに抱きつくハルカ先輩は、いつもの香水の上にアルコールの匂いを纏わせている。追いコンで大分飲んだのだろう、かなり酔っぱらっているようだ。こんなに酒癖の悪い先輩だったのか。普段のきりっとした状態とは打って変わった醜態に、マリアは思わず溜め息をついた。
ねえ、行くの? 行かないの?
助けを求めるように、くるりと辺りを見回す。だが、金曜日の夜の喧噪に満ちた路地に佇むのはマリアとハルカ先輩のみ。二日連続の卒論発表会の後に行われた追いコンに参加していた他の先輩達や友人達は既に解散したか二次会会場へと向かったのだろう、知り合いは誰も居なかった。
二次会会場の場所を、マリアは知らない。興味が無かったし行く気も無かったので、聞いていなかったのだ。
どう、しよう……
「カラオケ行きたい」を連発する先輩の声を背に、正直、途方に暮れる。カラオケボックスがある場所を知らないし、第一マリアは、カラオケが苦手なのだ。
と、その時。
マリア!
助けを求めるマリアの心の叫びを聞いたかのような、ソウの声に、ほっと胸を撫で下ろす。顔を上げると、路地に入って来た車からソウの顔が覗いた。
あら、カッコいい
車から降り、マリアの方へ近付いてきたソウを見て、ハルカ先輩が声を上げる。
一緒にカラオケ行きましょ
え?
そしてそのまま、ハルカ先輩はソウに抱きついた。ソウも、酔っぱらいだと分かっているのだろう、迷惑そうに身体を動かすが、あえてハルカ先輩を突き放そうとはしない。
その光景に、ちくりと心が痛むのを感じる。これは、……嫉妬、なのか?
と。
あらあの人もカッコいい
ハルカ先輩の声に、向こうを見る。路地の暗がりから出て来た顔に、マリアは思わず嫌悪の表情を作った。
なにやってんだ、道の真ん中で
そのマリアの嫌悪に気付かないのか、その男、セツナはいつも通りのぶっきらぼうな声を出した。
井川セツナ。ユキの、友人だった男。ユキを振り回し、あげくの果てにユキの命を縮めた、張本人。でも。……ユキは、この男と意気投合していた。それは、確かなこと。そして、マリアにとっては疑問の一つ。
この男、セツナが、雪の日にユキを病室から連れ出した夜のことは、今でもはっきり覚えている。
約束を、果たしただけだ
翌朝、眠っているユキを連れて病院へと戻ったセツナは、はっきりとそう、言った。
『約束』の内容を、マリアは知らない。どうせ下らないものだったのだろうと、思う。だが、セツナが連れ出したユキは、眠ったまま、二度と目覚めなかった。そのことが、マリアには悔しくてならない。セツナが連れ出さなければ、ユキは、もう少し、生きられたはずなのだ。……ほんの、少しだけ、だが。
マリアの感情には、全く構わず。
こっちも、良い男ねぇ
ソウにしがみついていたハルカ先輩が、ソウの腕を掴んだままセツナの方へ身体を移動させる。
確かに、和風顔のソウとは違い、セツナは、最近人気急上昇中の俳優に似ているとか似ていないとか、とにかく端正な顔立ちをしている。だが結構な大男で、しかも話し言葉はぶっきらぼう。女性と付き合っている噂など、全く耳にしない。性格の点で考えれば、ソウの方が上だ。マリアはそんなことを考えて、いた。いやいや、そういうことではなく。問題は。
あなたも、一緒にカラオケ行かない?
酔っぱらって醜態を見せているハルカ先輩を、どうにかしなくては。マリアが対応策を考えつくより早く。
別に良いけど
ソウとマリアの方を見て、セツナが言葉を紡ぐ。
もう全部満席だぜ、この辺のカラオケボックス
追いコンの客ばっかりで
セツナ自身、卒論発表会を終えたゼミの先輩達を近くのカラオケボックスに押し込んできたばかりだという。
なら
セツナの言葉を、ソウが継ぐ。
郊外のカラオケボックスに行きましょう
車、ありますし
まあ、嬉しい
ソウの言葉に、ハルカ先輩が華やかな笑みを浮かべるのが、見えた。
ソウの車に、四人が乗り込む。
いつもは助手席のマリアだが、今回はハルカ先輩と共に後部座席に座った。よく分からない男であるセツナを酔っぱらったハルカ先輩と一緒にするわけにはいかない。男二人で前部座席が多少キツくなり、ソウには我慢してもらう他ないが、先輩の為だ。
車が出発してすぐ、ハルカ先輩はマリアの膝を枕にして寝てしまった。
家まで送って行った方が良いな
マリア、家、分かる?
ちらりと後ろを向いたソウの言葉に、マリアはハルカ先輩の住所を教えた。その住所を、助手席のセツナが器用にカーナビに打ち込む。
ソウとセツナ、そしてマリアで車の中にいるなんて、なんだか変な気分。マリアはふっと息を吐くと、車の後部に投げるように置いてあったフリース毛布を先輩の身体に掛けた。マリアとユキ、そしてソウの三人でドライブした時も、マリアの膝の上で眠ってしまったユキの身体にこんな風に毛布を掛けてあげたことがあったっけ。そう、マリアが思った刹那。
ここで、良いのか?
ソウの声に、我に帰る。窓の外には、広い庭を持った四角い邸宅が見えていた。
うん、多分
服装や香水から推測はしていたのだが、やはりハルカ先輩はお嬢様だったか。邸宅の広さに、息を呑む。実業家の父と多趣味な母とで慎ましく暮らすマリアとは、別の世界の人間だ。
家に着いたのだから、とにかく、先輩を起こさなければ。だが、マリアが強く揺さぶっても、ハルカ先輩は呻くだけ。起きようとすら、しない。
とにかく、呼び鈴を押してくれ
僕が運ぶから
ソウの言葉に頷いて、車を降りる。
表札の傍にある呼び鈴を押すと、すぐに「どなたですか?」という、優しげな女の人の声がした。
大学の後輩です
ハルカ先輩、酔っぱらってしまって
すぐに、玄関が明るくなる。門を押して玄関先まで入ったマリアと、ハルカ先輩を抱えたソウを、おそらく先輩の母親だろう、ハルカ先輩に良く似た女の人が出迎えた。
あらあら、ごめんなさいね
この子、飲むと限度を知らなくて。そう言った母親の瞳が、ソウで止まる。
あら、あなたは。……早木医院の息子さん?
ハルカ先輩の母親は、専業主婦であるソウの母と同じ習い事をしているらしい。親しげになった口調が、マリアの気分を苛立たせた。
ちょっと部屋まで、娘を運んでくださいません
あ、はい
ハルカ先輩の母親に誘われ、ハルカ先輩を横抱きにしたまま家の中に消えていくソウを、静かに見送る。
……嫉妬、してるだろ
いつの間に現れたのか、セツナの声が背後で響き、マリアはびくっと背を震わせた。
図星、だ。
してないわよ
殊更はっきりとそう言って、セツナを睨みつける。
そのやり取りの間にソウが戻ってきてくれて、マリアは二重の意味でほっとした。
だが。
また、来てくださいね
ハルカ先輩の母親の声に、思わずソウを見上げてしまう。
暗いからか、ソウの表情は、マリアにはよく見えなかった。