礼儀作法のお勉強というのは、とにかく……『気疲れ』が大きい。
困り顔の先生の溜息には、相変わらずなれない。
礼儀作法のお勉強というのは、とにかく……『気疲れ』が大きい。
困り顔の先生の溜息には、相変わらずなれない。
はぁ……。
ぼんやりと庭を眺めながら……先生の溜息を思い出しての、溜息。
おや、お疲れでございますか?
あっ!? いえその……。
誰も居ないとばかり思っていた。
気が抜けていたのか、それとも注意力散漫になっていたのか。
ダメダメだなぁ……。
これは、お小言の一つでも……と覚悟した時のことだった。
王女殿下、ご容赦くださいませ。教育係の者らが些か急いておりましたのでしょう。
困った連中ですな、と笑うグレゴール執事長。
咎められなかった、という事実も驚きだ。
……あれ? 気遣ってくれているの?
だが、それよりも。
なによりも。
……ちょっと、びっくりしすぎて言葉もないとはこのことだ。
誠に無礼な連中ですが、『王女殿下』には教え甲斐があると。いやはや、口うるさい礼法やらなんやらの連中が賞賛してばかりでした。
内緒ですぞと声を潜めつつの言葉。
……気休めでも、ちょっと嬉しいかな。
ふーむ、王女殿下におかれては我が言葉をお疑いですかな?
あ……いえ、その?
はっはっはっ、これは失礼を。ご婦人の胸中を覗こうなどとは我ながら不届きこの上ない。
茶目っ気たっぷりな執事長さんは、そこで、大真面目な表情を作るなり声を震わせ頭を下げてみせる。
おお、王女殿下。なにとぞ、このご無礼の程をご海容頂ければと思うばかりでございます!
敵いませんね。これ、断わってしまうとまるで、私が悪者じゃないですか……。
くすり、と返したところで気が付く。
あれ? 大分、気が軽くなってる?
おお、稀代の悪女であらせられますね!
ははは、私が悪女なら、貴方は何なのかしら、グレゴール?
ううむ、そうですね。黒幕でしょうか?
く、黒幕ですって!? 貴方が?
ああ、おかしい。
ええ、内緒の内緒ですぞ?
実は、宮中のお茶セットは私の支配下にあるのですぞ?
茶目っ気たっぷりに笑う執事長が黒幕だとすれば。
きっと、世界というのはもっと悪戯と笑いに満ちているんだろう。
ん?
ああ、そっか、とエーファは笑う。
ありがとう。大分、気が楽になります。
いえいえ、王女殿下の気さくな一面に触れられたことを思えば役得ですとも。
気さくに応じてくれる執事長。
……だから、というべきだろうか?
気安い雰囲気に甘えて、エーファはずっと胸中で燻っていた疑問をぽつりと訪ねていた。
……ねぇ、執事長。私は、何を求められているの?
何、とはまた……奇妙なご質問ですな。
え?
余人ならばいざ知らず、私は執事長なれば。王女殿下、どうして、私が求めることがありましょうか。
聞き方を変えても、良い? 貴方ではなくて、ほかの人が、ということだけど。
おお、そればかりは平にご勘弁を。執事に求められる資質の一つは、口が堅いことなのです。
……まぁ、そうだよね。やっぱり、気を使ってもらっているなぁ……。
分かっているけれど、口には出せないこともある。
……そういうことなのだろうなぁとエーファは胸中で苦笑するほかにない。
ところで、王女殿下。宜しければ、本日を『休養』に宛がわれては如何でしょうか?
え? お休みにしてしまうの?
それは、ちょっとした驚きだった。
詰め込まれているスケジュール。
……お休みにしてしまって、大丈夫なのだろうか?
お疲れの模様でしたので。折角です。王宮の見所を、ご案内いたしましょう。
(……さて、上手く行くと良いのですが)
宮殿というのは、存外、住んでいても足を向けないと気がつきもしない区画がかしこにある。
グレゴールがエーファを案内したのは庭園はずれの小さくも、雰囲気の素敵な教会だった。
木漏れ日のまぶしさと、どこか草木の香りが漂う静かな隠れ家。
如何ですか? いささか、本館から距離があるので普段使いされては居ませんが……離れの教会というのも、中々風情があるかと思うのですが。
なんか、ちょっとだけ……懐かしいな。
こう、大きな部屋じゃなくて……こじんまりとした普段使っていたような……。
王女殿下?
あっ、ごめんなさい。
つい物思いに耽っていたエーファの声に、グレゴールはいえいえと笑い返す。
気を抜いていただけたのであれば、何よりです、と。
いえいえ。お疲れになられておいでだったのでしょう。こっそり用意しておいた、お茶でも如何でしょうか?
……驚いたわ。
お茶の黒幕って本当だったの?
これは心外な。秘密を分かち合ったつもりでありましたのに。
お疑いとは……。かしこまりました。直ちに、ご用意いたしましょう。
手際よく、テキパキと何処からともなく取り出されるはティーカップ。
ぽかん、と見守るエーファの前で、グレゴールは香りの豊かな茶葉の入ったポッドからさっと、紅茶を注ぐ。
あっという間の出来事とはこのことだろう。
さぁ、ご賞味くださいませ
悪戯が成功したように微笑む老執事の手品とでもいうべきだろうか?
目の前に差し出されたのは……確かに、紅茶。
完敗ね。……ありがたく、頂くわ。貴方も、ご一緒してくれる?
うーむ、王女殿下のお誘いであります。一つ、私も……。
そこで、グレゴールはしかし困った様にちらりと外へ視線をずらしていた。
足音?
はてはて、どちらさまが……。
お越しになられたのか、と口に仕掛けたグレゴールは、しかし、そこで動きを止める。
……うん? グレゴールか。
御意にございます。エーファ王女殿下をご案内しておりましたが……陛下、何故こちらに?
独りになりたいときもある。下がれ。
ぶすり、とした声。
……いつもの声だ。
なんだか、随分と不機嫌な感じ? ああ、でも、私が知っている限りだといつもかな?
しかし、陛下。傍付きの方々が、陛下をお探しあそばされるのではありませんか?
放置しておけばよかろう。
困惑したグレゴールに怒鳴りちらす声。
いいから、独りにしてくれ!
思わず、身を竦ませてしまったエーファに気が付かぬように、アレクは去れ、と促す。
陛下、ご命令とあれば。ですが……私としても、宰相様や諸卿に問われればお答えしないわけには
黙っておけと申している! グレゴール、汝まで、汝まで、私を、私を認めないのか!
陛下、どうぞお声をお潜めください。
目立ちますぞ、とグレゴールが言葉を紡ぎかけたときのことだった。
陛下、こちらにいらっしゃられるのですか!?
陛下!?
叫び声に、誰かが気付いたのだろう。
なっ。 ローランドだ! 面倒なヤツが探しにきたか!?
……はぁ、なんか、お子様だなぁ……。
ぐ、グレゴール。なんとかしてくれ。
何とかと申されましても……、あまり、陛下のお気に召さないかと存じますが。
この場を乗り切れば、なんでもいい!
はぁ……。やむを得ません。陛下の命とあらば
ほとほと困った声で応じるグレゴール。
グレゴールさんも、大変だなぁ……。
エーファ王女殿下、ご容赦くださいませ。
だから、他人事の積もりであった。
え?
陛下! 王女殿下! 申し訳ございませんでした!
グレゴールの張り上げる『謝罪』の『叫び声』。
それは、それは、とても大きな声だった。
……それこそ、アレクを探しているであろう外の人間が即座に駆けつけてくるほどに。
陛下!? いらっしゃったぞっ……って、おや?
だが、駆けつけてきた捜索隊の面々がみているのは……『婚約者』と『お茶会』を楽しんでいるところに『うっかり邪魔してしまったグレゴール執事長』の謝罪の声。
お二人のお時間に、お邪魔してしまったこと! お怒りの程、なにとぞ!
それは、それは、見事な気迫のこもった謝罪であった。
……ひょっとすると?
ああ、お二人の時間か……、まぁ、陛下も王女殿下もお二人だけの時間が……
このグレゴール、気が利きませんで!
陛下、お戻りください! とばかりに踏み込んだはずの捜索隊。
その彼らが、二の足を踏むほどに見事な一礼を示し、グレゴールは扉へと向かう。
すぐに退散いたします! なにとぞ、ご容赦くださいませ!
馬に蹴られる前に、退散しなければ……
逢瀬をお邪魔致しました。陛下、諸卿には我々よりご説明を。
あ、いや、その……。まて! ちがう!
わかっております。わかっておりますとも、陛下。
お二人が、偶然こちらでお会いになられたのですよね?
私共は、紅茶のカップなどみておりませんし……では、失礼致します。
では、陛下、王女殿下、失礼致します。
えっ!? ええええ!!!??