礼儀作法のお勉強というのは、とにかく……『気疲れ』が大きい。

困り顔の先生の溜息には、相変わらずなれない。

エーファ

はぁ……。

ぼんやりと庭を眺めながら……先生の溜息を思い出しての、溜息。

グレゴール

おや、お疲れでございますか?

エーファ

あっ!? いえその……。

誰も居ないとばかり思っていた。

気が抜けていたのか、それとも注意力散漫になっていたのか。

エーファ

ダメダメだなぁ……。

これは、お小言の一つでも……と覚悟した時のことだった。

グレゴール

王女殿下、ご容赦くださいませ。教育係の者らが些か急いておりましたのでしょう。

困った連中ですな、と笑うグレゴール執事長。

咎められなかった、という事実も驚きだ。

エーファ

……あれ? 気遣ってくれているの?

だが、それよりも。

なによりも。

……ちょっと、びっくりしすぎて言葉もないとはこのことだ。

グレゴール

誠に無礼な連中ですが、『王女殿下』には教え甲斐があると。いやはや、口うるさい礼法やらなんやらの連中が賞賛してばかりでした。


内緒ですぞと声を潜めつつの言葉。

エーファ

……気休めでも、ちょっと嬉しいかな。

グレゴール

ふーむ、王女殿下におかれては我が言葉をお疑いですかな?

エーファ

あ……いえ、その?

グレゴール

はっはっはっ、これは失礼を。ご婦人の胸中を覗こうなどとは我ながら不届きこの上ない。


茶目っ気たっぷりな執事長さんは、そこで、大真面目な表情を作るなり声を震わせ頭を下げてみせる。

グレゴール

おお、王女殿下。なにとぞ、このご無礼の程をご海容頂ければと思うばかりでございます!

エーファ

敵いませんね。これ、断わってしまうとまるで、私が悪者じゃないですか……。

くすり、と返したところで気が付く。

エーファ

あれ? 大分、気が軽くなってる?

グレゴール

おお、稀代の悪女であらせられますね!

エーファ

ははは、私が悪女なら、貴方は何なのかしら、グレゴール?

グレゴール

ううむ、そうですね。黒幕でしょうか?

エーファ

く、黒幕ですって!? 貴方が?


ああ、おかしい。

グレゴール

ええ、内緒の内緒ですぞ?

実は、宮中のお茶セットは私の支配下にあるのですぞ?


茶目っ気たっぷりに笑う執事長が黒幕だとすれば。
きっと、世界というのはもっと悪戯と笑いに満ちているんだろう。

ん?

ああ、そっか、とエーファは笑う。

エーファ

ありがとう。大分、気が楽になります。

グレゴール

いえいえ、王女殿下の気さくな一面に触れられたことを思えば役得ですとも。

気さくに応じてくれる執事長。

……だから、というべきだろうか?

気安い雰囲気に甘えて、エーファはずっと胸中で燻っていた疑問をぽつりと訪ねていた。

エーファ

……ねぇ、執事長。私は、何を求められているの?

グレゴール

何、とはまた……奇妙なご質問ですな。

エーファ

え?

グレゴール

余人ならばいざ知らず、私は執事長なれば。王女殿下、どうして、私が求めることがありましょうか。

エーファ

聞き方を変えても、良い? 貴方ではなくて、ほかの人が、ということだけど。

グレゴール

おお、そればかりは平にご勘弁を。執事に求められる資質の一つは、口が堅いことなのです。

エーファ

……まぁ、そうだよね。やっぱり、気を使ってもらっているなぁ……。

分かっているけれど、口には出せないこともある。

……そういうことなのだろうなぁとエーファは胸中で苦笑するほかにない。

グレゴール

ところで、王女殿下。宜しければ、本日を『休養』に宛がわれては如何でしょうか?

エーファ

え? お休みにしてしまうの?

それは、ちょっとした驚きだった。

詰め込まれているスケジュール。

……お休みにしてしまって、大丈夫なのだろうか?

グレゴール

お疲れの模様でしたので。折角です。王宮の見所を、ご案内いたしましょう。

グレゴール

(……さて、上手く行くと良いのですが)

宮殿というのは、存外、住んでいても足を向けないと気がつきもしない区画がかしこにある。

グレゴールがエーファを案内したのは庭園はずれの小さくも、雰囲気の素敵な教会だった。

木漏れ日のまぶしさと、どこか草木の香りが漂う静かな隠れ家。

グレゴール

如何ですか? いささか、本館から距離があるので普段使いされては居ませんが……離れの教会というのも、中々風情があるかと思うのですが。

エーファ

なんか、ちょっとだけ……懐かしいな。

こう、大きな部屋じゃなくて……こじんまりとした普段使っていたような……。

グレゴール

王女殿下?

エーファ

あっ、ごめんなさい。

つい物思いに耽っていたエーファの声に、グレゴールはいえいえと笑い返す。

気を抜いていただけたのであれば、何よりです、と。

グレゴール

いえいえ。お疲れになられておいでだったのでしょう。こっそり用意しておいた、お茶でも如何でしょうか?

エーファ

……驚いたわ。

お茶の黒幕って本当だったの?

グレゴール

これは心外な。秘密を分かち合ったつもりでありましたのに。

お疑いとは……。かしこまりました。直ちに、ご用意いたしましょう。

手際よく、テキパキと何処からともなく取り出されるはティーカップ。

ぽかん、と見守るエーファの前で、グレゴールは香りの豊かな茶葉の入ったポッドからさっと、紅茶を注ぐ。

あっという間の出来事とはこのことだろう。

グレゴール

さぁ、ご賞味くださいませ

悪戯が成功したように微笑む老執事の手品とでもいうべきだろうか?

目の前に差し出されたのは……確かに、紅茶。

エーファ

完敗ね。……ありがたく、頂くわ。貴方も、ご一緒してくれる?

グレゴール

うーむ、王女殿下のお誘いであります。一つ、私も……。

そこで、グレゴールはしかし困った様にちらりと外へ視線をずらしていた。

エーファ

足音?

グレゴール

はてはて、どちらさまが……。

お越しになられたのか、と口に仕掛けたグレゴールは、しかし、そこで動きを止める。

アレク

……うん? グレゴールか。

グレゴール

御意にございます。エーファ王女殿下をご案内しておりましたが……陛下、何故こちらに?

アレク

独りになりたいときもある。下がれ。

ぶすり、とした声。

……いつもの声だ。

エーファ

なんだか、随分と不機嫌な感じ? ああ、でも、私が知っている限りだといつもかな?

グレゴール

しかし、陛下。傍付きの方々が、陛下をお探しあそばされるのではありませんか?

アレク

放置しておけばよかろう。

困惑したグレゴールに怒鳴りちらす声。

アレク

いいから、独りにしてくれ!

思わず、身を竦ませてしまったエーファに気が付かぬように、アレクは去れ、と促す。

グレゴール

陛下、ご命令とあれば。ですが……私としても、宰相様や諸卿に問われればお答えしないわけには

アレク

黙っておけと申している! グレゴール、汝まで、汝まで、私を、私を認めないのか!

グレゴール

陛下、どうぞお声をお潜めください。

目立ちますぞ、とグレゴールが言葉を紡ぎかけたときのことだった。

ローランド

陛下、こちらにいらっしゃられるのですか!?

陛下!?

叫び声に、誰かが気付いたのだろう。

アレク

なっ。 ローランドだ! 面倒なヤツが探しにきたか!?

エーファ

……はぁ、なんか、お子様だなぁ……。

アレク

ぐ、グレゴール。なんとかしてくれ。

グレゴール

何とかと申されましても……、あまり、陛下のお気に召さないかと存じますが。

アレク

この場を乗り切れば、なんでもいい!

グレゴール

はぁ……。やむを得ません。陛下の命とあらば

ほとほと困った声で応じるグレゴール。

エーファ

グレゴールさんも、大変だなぁ……。

グレゴール

エーファ王女殿下、ご容赦くださいませ。

だから、他人事の積もりであった。

エーファ

え?

グレゴール

陛下! 王女殿下! 申し訳ございませんでした!

グレゴールの張り上げる『謝罪』の『叫び声』。

それは、それは、とても大きな声だった。

……それこそ、アレクを探しているであろう外の人間が即座に駆けつけてくるほどに。

ローランド

陛下!? いらっしゃったぞっ……って、おや?

だが、駆けつけてきた捜索隊の面々がみているのは……『婚約者』と『お茶会』を楽しんでいるところに『うっかり邪魔してしまったグレゴール執事長』の謝罪の声。

グレゴール

お二人のお時間に、お邪魔してしまったこと! お怒りの程、なにとぞ!

それは、それは、見事な気迫のこもった謝罪であった。

ローランド

……ひょっとすると?

フランツ

ああ、お二人の時間か……、まぁ、陛下も王女殿下もお二人だけの時間が……

グレゴール

このグレゴール、気が利きませんで!

陛下、お戻りください! とばかりに踏み込んだはずの捜索隊。

その彼らが、二の足を踏むほどに見事な一礼を示し、グレゴールは扉へと向かう。

グレゴール

すぐに退散いたします! なにとぞ、ご容赦くださいませ!

フランツ

馬に蹴られる前に、退散しなければ……

ローランド

逢瀬をお邪魔致しました。陛下、諸卿には我々よりご説明を。

アレク

あ、いや、その……。まて! ちがう!

フランツ

わかっております。わかっておりますとも、陛下。

お二人が、偶然こちらでお会いになられたのですよね?

私共は、紅茶のカップなどみておりませんし……では、失礼致します。

グレゴール

では、陛下、王女殿下、失礼致します。

エーファ

えっ!? ええええ!!!??

第三話 優しい黒幕のお茶目なお茶。

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