ここはもののけ界。二つの国の一つ、呟国(げんこく)。
辺り一面燃え盛る炎の中、怯える兎の女と子供の前に立つ漆黒の衣を身にまとった褐色肌の鬼。
その後ろには八本の足を生やした土蜘蛛の男がいた。
「今日は収穫不足だが丁度腹が減っていたところだ」と舌なめずりする鬼。
「リク、お前も一匹どうだ?」
リクと呼ばれた土蜘蛛は「いえ、亜我奴様。俺は逃げていった兎たちを追います」
「そうか、そっちは頼んだ」
リクは兎たちの悲鳴を背に下唇を噛み締めてその場を後にした。
炎の中ゆっくり歩を進めるリク。
先ほどの兎たちは食われただろうか……もしあそこで俺が。
できもしないことを考えながら燃え盛る敷地内を抜け、静かな夜道を歩く。
今さら生き方を変えることなどできない。今日も兎狩りを命じられればこうして火を放ち自分が仕える主人にただ従順に従うだけ。
しかし――
逃げていく兎たちを見つけると隠れてただじっと見ていた。
そして見えなくなるまで見届けた。青色混じりの黒髪が風でなびいたとき「誰だ!」
気配に気づいて振り向くとそこには、白い耳に薄桃色の長い髪の女が立っていた。
背後には大きな尻尾が見える。一瞬その美しい容姿に目を奪われたが、白狐か、と我に返る。
「ここでなにをしている。こんな所をうろうろしていると鬼に食われるぞ」
「その鬼を封印しに来ました」とにこりと言う白狐。
はぁ!?嘘だろ、このいかにもひ弱そうな女狐が?
リクはその時、三月前にも鬼を食べに来たという妖怪があっけなく食われる姿を目の当たりにしたことを思い出した。
と、その時、黒い煙が渦を成して近づいてくることに気づく。
逃げろ!と言いかけて言葉をのむ。
すると白狐はにこりと微笑み白い煙と化してその場から一瞬で消えた。
ほっとするリク。
「リク、今ここに誰かいなかったか?」
リクは一瞬躊躇ったが「女の白狐が」
「ほう、俺を食いにでも来たか」
「封印しに来たと言っておりました」
亜我奴は口角を上げて「それは楽しみだ。なにせ狐の住む隣国は結界が張られていて行けぬからな」と機嫌良く歩き出す。
亜我奴の後ろについていくリク。薄桃色の綺麗な長い髪と澄んだ水色の瞳をした白狐の姿がいつまでも頭の中に張りついていた。
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翌日、川原で顔を洗っていると昨夜の白狐がまた現れた。
「お前まだいたのか」
「鬼を封印するまでは帰れませんから」
「誰かの命令なのか?」
「ええ」
こんなひ弱であっという間に食われそうな女狐に鬼の封印を命じるとは一体どこのどいつだよ。
そう思っていると白狐はまたどこかへ行ってしまった。
リクはその白い煙が空の彼方へ遠ざかるのを見ていた。
白狐は次の日も、まとのその次の日もリクの前に現れた。そして一週間が経った頃、
今日は来ないのかと空を見上げてはっと気づいて首をぶんぶん横に振る。
俺は待ってないぞ!あんな自分とは住む世界が違う白狐のことなんて……。
その時亜我奴が空から来た。
「リク」
亜我奴のいつもより低い声にビクッとする。
「誰か待っていたのか?」
「いえ」
亜我奴の顔が近づいてきてまじまじと顔を見られる。
視線を逸らすリクの髪を鷲掴みにして無理やり顔を上げさせる亜我奴。
その時亜我奴の頭上に白狐がいることに気づき目の色が変わるリク。
亜我奴はリクの視線に気づき後ろを振り向いた。
「ほう、この白狐に惚れたか」
「ちがっ」
「なぁリク」亜我奴はもう一度リクの顔に近づき「この間の兎狩り、何匹が逃がしただろ。その前も影でこそこそ手回ししていたな」
リクの顔がだんだん青ざめてきて震えがとまらない。
「知ったところで俺はお前に罰など与えはしない。お前は俺から離れられないのだからな」
「離れられないのはあなたの方では?」
白狐の声に振り向き鋭い目つきで睨みつける亜我奴。
「それを依存というのですよ」とにこりと微笑む白狐。
挑発してんじゃねぇよ!と思いながら白狐を見やるリク。
わなわなと肩を震わせ怒りをあらわにした亜我奴が白狐にかかっていった。
すかさず刀を抜く白狐。
リクは二人の戦いを黙って見てることしかできなかった。
依存、か……俺だってそうだよ。
顔を上げ亜我奴を見る。
俺がここで加勢したら……。
リクは意を決して八本の足を出して亜我奴の背後から絡みついた。
「白狐にそそのかされて狂ったか」
亜我奴はリクの拘束をものともせず頭を強打した。
リクは倒れ込み、薄れていく意識の中で白狐の悲鳴を耳にした。
ああ、食われたんだな、俺もどの道命はないだろう、と気を失った。
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目が覚めると知らない部屋にいた。
頭に痛みを感じ手でおさえると包帯が巻いてあることに気づく。
誰かが手当てしてくれたのか?
布団から出て部屋の外へ出ると向かいの部屋のドアが開いて老人と鉢合わせた。
長い白髪に口髭と長いあご髭を生やし深緑色の着物を着ていた。
「気がついたか、土蜘蛛の小僧」
「あの」
「こっちじゃ、ついて来い」
亜我奴は?白狐は?どうなったのか、ここはどこなのか、聞きたいことは山ほどあったが落ち着いた老人を見ていると不思議と悪い印象を受けず黙ってついて行くことにした。
老人が開けた部屋のベッドには長い黒髪の女性が眠っていた。
「マキノじゃよ」
「マキノ?」
「なんじゃ、名を知らんかったか。鬼を封印した白狐のマキノじゃ」
「は!?」
驚きのあまり大声が出てしまった。
薄桃色の綺麗な髪は真っ黒になっており耳も尻尾もなかった。
「傷だらけのマキノが気を失ったお前をここまで運んできたのだ」
リクは胸がズキリと痛んだ。
その時マキノが目を覚ました。水色の瞳は黒くなっていた。
「渋然様、と、土蜘蛛さん、ご無事でしたか」と安堵した顔をするマキノ。
「お前も、な」
「ちょっと来い」と渋然がリクを外へ連れ出す。
「お前これからどうする」
俺は、と言いかけて下を向く。
どんな罰でも受ける、と言うべきなのだろうが。
「俺はあの白狐のそばにいたい」思い切って言った。心臓がバクバクうるさい。
「100年じゃ」
「え」
「100年わしの元で罪を償うこと。これでも軽いほうじゃからな」
後で知ったことだが、渋然が上に掛け合って刑を軽くしてくれたとのこと。鬼の封印を命じて耳と尻尾を食われ修行にも行けなくなった娘同然のマキノを想ってのことだった。
リクは渋然の元でほぼ雑用扱いされるのだが不思議と嫌ではなかった。
初めて誰かのために食事を作り掃除をして他愛もないことを話し、そして、
「おお、来たか」渋然が空を見上げて大きな狐に乗ってやって来たマキノを迎え入れる。
時々様子を見に来てくれるマキノと会えることがなによりの楽しみだった。
ある日の昼下がり、リクは海へ釣りに行くことにした。渋然とマキノに魚料理を作るために。
「日が暮れる前に帰ってくるんじゃぞ」
「ガキじゃねぇんだから!」
海へ向かうリクの背を見送りながら
「リク坊、変わったな」
「ええ」とマキノは微笑んだ。
釣りから帰ったリクは懐から拾った貝殻を出してマキノに渡す。
「女はこういうきれいなものが好きだと渋じぃから聞いた」
「ありがとうございます。ではこれでなにか作りますね」と言い、後日マキノが作ったのは貝の瓶詰めオブジェだった。
「一つはリクさん、一つは私」
そしてリクは100年の刑期を終えて新たに命を下されることに。
それはなんでも屋を営みながら罪人の尋問をすること。
散々亜我奴の悪どいことに加担してきた俺が……と戸惑ったがマキノに後押しされて引き受けることにした。
後でマキノに、なんでも屋がなんのためにあるのか教えてもらった。
白狐の春紅様と駆け落ちした野狐との間にできた子供のためだそうだ。
その野狐と子供と長い長い付き合いに、そして新たな出会いが待っているとはまだ知らない。
店の窓辺にはマキノが作った貝の瓶詰めオブジェが置いてある。
それを見ながらリクは、あの100年の穏やかな日々を思い出して柔和な笑みを浮かべた。
おわり