「お嬢。
またここにいたのか」
お風呂上がりにバルコニーでアイスクリームを食べながら月を見ていると、後ろから声がした。
振り返ると、黒川がドライヤーを持って立っていた。
「黒川……」
「髪を乾かさないまま外に出ると風邪を引くといつも言っているだろう?
早く部屋に入れ」
黒川がドライヤーをコンセントに差しながら溜め息をついた。
部屋に入り、窓辺の椅子に座ると、黒川がドライヤーを手渡してきた。
黒川……。
もう髪を乾かしてくれないんだ……。
佐藤ミサとの一件以来、私と黒川の間に微妙な距離が出来ていた。
黒川からドライヤーを受け取り、スイッチを入れた。
「黒川もお風呂上がりですか?
髪が濡れていますよ?」
「ああ。俺はすぐ乾くから」
黒川はそう言って、肩に掛けていたタオルで自分の髪を乾かし始めた。
「ん?
何か焦げ臭くないか……?
あ、お嬢。
ドライヤーを近付け過ぎだ」
慌てて黒川が私の手からドライヤーを取り上げた。
「ドライヤーはこのぐらい離さなければ駄目だろう。
お前、自分でドライヤーを使ったことがないのか?」
ドライヤーの温風と、私の髪をわしわしと乾かす黒川の手が心地いい。
「仕方がないですよ。
黒川が私を甘やかすからです」
『髪なんて乾かさなくていい。
放っておいても乾くから』
「お前、小さい頃から髪を乾かすのが嫌いだったな」
「ドライヤーが怖かったのですよ」
「ああ……。
俺がドライヤーを持って来ると、逃げ回っていたな」
黒川が笑った。
「ドライヤーの音と熱い風が出てくるのが怖くて。
黒川が持つと、悪魔とその手先に見えて怖さ倍増でした」
「お前……。
そんな風に思っていたのか……」
「この屋敷に来るまで、ドライヤーの存在を知りませんでしたからね」
私がそう言うと、黒川がドライヤーのスイッチを切った。
「父さんと母さんがいた頃、家にドライヤーが無かったから。
私の髪は、いつも父さんがタオルで乾かしていました」
黒川はドライヤーをテーブルの上に置き、椅子に座って、再び自分の髪をタオルで乾かし始めた。
「父さんは力加減が分からなくて。
私の頭がグラグラするたび、母さんに怒られていました。
『さち子の頭が取れるから止めて』って」
「フッ」
「でも……。
私は父さんの大きな手と良い匂いのタオルに包まれてガシガシされるのが好きでした」
黒川が髪を乾かす手を止めた。
「黒川が髪を乾かしてくれる時、たまにそれを思い出します。黒川の大きな手が、父さんの手に似ていて……」
「お嬢……」
『髪なんて乾かさなくていい。
放っておいても乾くから』
小さい頃から黒川に、ずっと言い続けてきた言葉なのに……。
黒川が乾かしてくれなくなるのは寂しい。
そう思うのは、我が儘かな。
「俺も加減が分からなかったな」
黒川が呟いた。
「逃げるお前を捕まえてドライヤーをかけている間、ずっと不機嫌そうにしているお前を見て。
一度、嫌がるお前を捕まえてまで乾かす必要が無いと思って乾かさずにいたら、翌日お前が熱を出して……」
「黒川……。ごめんね……」
黒川が静かに笑った。
「それからまた逃げるお前を追いかける毎日が続いて。
いつの間にかお前は逃げなくなっていたけれど、それでもドライヤーをかけている間、お前はずっとしかめっ面で」
「黒川。ご迷惑をお掛けして、本当にごめんなさい」
「フッ……。
お前がドライヤーをかけている最中に眠ってしまった時は、妙な達成感があったな。野生の動物が懐いてくれたような」
「野生の動物って……」
「今でも加減が分からなくなる時がある。
少し言いすぎたとか、厳しくしすぎたとか、甘すぎたとか……」
「黒川。私は黒川に褒められた時も怒られた時も嬉しいですよ。
怒られた時は少し落ち込むかもしれないけれど……。
でも、褒めてくれるのも怒ってくれるのも、どちらも私の事を思ってくれるからで。
だから黒川、だから……」
『だから、これからも傍にいて』
そんな事が言えるわけもなく、私は黙って俯いた。
「フッ……。
せっかく髪を乾かしたんだ。
風邪引かないように早く寝ろよ?」
黒川は私の頭をそっと撫で、ドライヤーを持って部屋から出て行った。