爺さんが死んで、僕達とお嬢の関係は少し複雑になっていた。
僕達がこの屋敷で暮らしていた理由は、爺さんから住む場所や生活費や学費を提供してもらう。
ただそれだけだった。
大学を卒業し、その爺さんがいなくなった今、屋敷に留まる必要は無い。
当然お嬢の事は心配だったから、即、屋敷を出て行くつもりは無かったけれど、お嬢と僕達の関係が永遠に続くとも思ってはいなかった。
お嬢が誰かを好きになり、その人の元へ行ってしまったら、僕達は不要な人間になる。
そんな事を言ってしまえば、お嬢が傷付くのは容易に想像出来たから、僕は今まで通り、お嬢に甘く優しい存在でいた。
「青田……。
またテストで悪い点を取ってしまいました。
頑張って勉強をしたつもりだったのですが……」
「答案を見せてごらん。
何処を間違えたの?」
お嬢が俯きながら、小さく折り畳まれた答案用紙を僕に渡した。
「お嬢。
頑張ったのなら今回の結果は仕方がないよ。
戻ってきた答案を見直して、次こそ間違わないようにする。
その積み重ねが大事だよ」
「……うん。
でも黒川は、きっとこの点数を見た瞬間、目眩を起こすと思います」
「フフッ。
黒川君が目眩を起こす所を見てみたいな。
お嬢。この問題は記号で答えるようになっているのに、お嬢は言葉で書いてしまっている。
もし記号で書いていたら、ここは全問正解で、プラス十点もらえていたよ。惜しいなー」
「え。そうなのですか?
でも……。
結果が全ての黒川は、そんな馬鹿みたいなミスを許してくれないと思います」
「一緒に黒川君の所へ行ってあげようか?」
「ううん。大丈夫。
青田に慰めてもらったら、少し元気になりました。
小一時間ほど黒川に怒られてきます」
お嬢はニコッと笑って答案用紙を小さく畳み、黒川君の元へ走って行った。
ある日、お嬢が息を切らしながら畑にやって来た。
「お嬢。
そんなに慌ててどうしたの?」
「青田……、げほっ……、
畑の手伝いを……、ごほっ……、
してもいいですか?」
お嬢が僕の隣にしゃがんだ。
昨日の夜、お嬢の体の上に高熱を出して気を失った黒川君が倒れ込み、その光景を白石君が見て、三人の関係がギクシャクしているのは知っている。
きっとその事で、お嬢は僕の所へ来たのだろう。
僕がお嬢の頭にそっと麦わら帽子を被せると、お嬢は今にも泣きそうな顔で振り向いた。
「お嬢。まだ苗を植えていないところの雑草を抜いてくれるかな?」
「うん……」
お嬢は僕から少し離れた場所へ移動し、草を抜き始めた。
「青田……。
昨日はごめんなさい」
「うん」
「あの後、黒川や白石は何か言っていましたか?」
「気を失っている二人を布団まで運んだだけだから。
何も話していないよ」
「……そう」
お嬢が僕に謝りに来ただけでないことぐらいは分かっていた。
わざわざ聞かなくていい事なのかもしれない。
お嬢は、僕が何も言わず寄り添うだけでいいと思っているかもしれない。
だけど僕達が一緒にいられる時間は、あとどれくらいあるだろう……。
そんな事を考えていると、言葉が勝手に出てきた。
「お嬢は今朝、黒川君達と何か話したの?」
「白石に……。
白石に『家族ではない』と言われました」
麦わら帽子のつばのせいでお嬢の表情は見えなかったけれど、弱々しく震えた声で、お嬢が泣いているのが分かった。
「お嬢。『家族』という言葉は、時に人を束縛してしまう」
僕の家族は……。
僕を捨てた母親だ。
家族だと思いたくはない。
それでも母は、僕の人生を束縛し続けてきた。
必ず迎えに来ると言う母を待ち続け、来てくれなかった母を恨み続け……。
今は、年老いて独り身になった母が、突然僕の前に現れるのではないかと恐れている。
「将来、お嬢が自分の幸せのために、この屋敷を離れることになった時『家族』を捨てて行けるのかな」
もし、僕を捨てた母が僕の目の前に現れたら……。
僕はどんな態度を取るだろう。
『家族だから』と、許すのか
『家族ではない』と、冷たく突き放すのか。
「私は今のままでいい。
皆を捨てなければ得られない幸せ
なんかいらない」
自ら母の存在を断ち切らなければ、僕は永遠に母の束縛から解放されないだろう。
自分の母親を冷たく突き放す僕の姿を見て、お嬢は僕を軽蔑するだろうか。
「お嬢がそんな風に思っても、
誰も喜ばないよ」
「分かっているよ。
でも、面と向かって『家族じゃない』と言われてしまうのは辛いの。
今まで一緒にいた時間全てを否定されたようで、本当に辛いの……」
長年、僕を傷付けてきた母は、僕の『家族ではない』という言葉に傷つくだろうか。
『家族』って何だ?
どうすればお嬢と僕達は家族でいられる?
どうすれば僕は母親から解放される?
「ごめんね、青田。
私が我が儘を言っている事は分かっているよ」
お嬢が麦わら帽子を取って、寂しそうな笑顔を見せた。
それから僕は言葉が続かなくなって、お嬢が置いていった麦わら帽子をずっと眺めていた。