突然、母が僕を訪ねて来た。



お嬢と一緒に庭の手入れをしていると、門の向こう側に母が立っていた。





『必ず迎えに来るから、
 待っていてね』





僕が最後に見た、あの時の姿で。





「今さら何ですか?

 僕は貴方を母親だと思っていませんから」



やっぱり僕は母を許せなかった。



母を待つには、あまりにも時間が長すぎた。



母を待っている間、母に言いたかった言葉、聞きたかった言葉が募っていった。





「僕の前に二度と現れないでください」





募り過ぎて溢れ出た言葉は、恐らく母を一番傷付けるものだ。



門の向こう側で微笑んでいた母の表情が、悲しみに崩れていく。





ふと隣を見ると、お嬢が今にも泣きそうな顔で僕を見上げていた。



お嬢は僕の過去を知らない。



「違う……。

 違うんだ、お嬢」



 

今ここに、お嬢の父さんや母さんが現れたら、お嬢はどんな反応をするだろう。





「父さん、母さん。

 ずっと待っていたよ!」





そう言いながら嬉しそうに両親の元へ駆け寄り、僕達を置いて、この屋敷から出て行ってしまうだろうか。





「待って、お嬢……」



お嬢が麦わら帽子を置いて行ってしまったあの時と同じように、僕の傍から離れていく。





あの時、何故僕はお嬢を追いかけなかったのだろう。



追いかけて抱きしめて『お嬢は家族だよ』と言えていたら、お嬢と僕は本当の家族になれただろうか。





「お嬢、待って!」





お嬢の腕を掴もうとした瞬間、目の前に広がっていた景色が真っ白になって、いつの間にか僕は、自分の部屋の天井を見ていた。





夢か……。


あれから僕はどうしていただろう。



「ごめんね、青田。

 私が我が儘を言っている事は分かっているよ」



そう言って行ってしまったお嬢を引き止められなかった事への後悔でなかなか寝付けず、一人で酒を飲んでいた事は覚えている。





喉がカラカラに渇いていたから、水を飲みにキッチンへ向かうと、小さな鍋で牛乳を温めている黒川君がいた。



「……黒川君。

 具合はどうだい?」



「ああ。青田君。

 昨日は迷惑を掛けたようで
 済まなかった。

 それよりどうした?

 こんな時間に」


「途中で目が覚めてしまったから喉が渇いて……。

 君の方こそ、何をしているの?」



「俺も喉が渇いてキッチンへ行こうとしたら、お嬢がバルコニーにいたから、温かい飲み物でも持って行ってやろうと思ってな」



「こんな時間に?」



「ああ。

 また風邪を引いて、皆にウイルスを撒き散らすつもりかって怒鳴ったら、珍しくへこんでいたよ」





黒川君が静かに笑いながら言った。





「青田君。

 俺は青田君のように優しく接する事が出来なくて、いつもお嬢を怒鳴ってばかりだ」


黒川君がお嬢のお気に入りのマグカップに温めた牛乳を注ぐ。





「まあ、青田君が飴で俺が鞭。

 それでバランスが取れているなら、構わないけどな」



黒川君が温めた牛乳の中にハチミツを入れてスプーンで混ぜ、マグカップを小さなトレーに乗せた。



「……僕は、黒川君が羨ましいよ」



「ん?」





僕が呟くと、キッチンから出て行こうとした黒川君の足が止まった。



「僕は黒川君が羨ましい。

 いくらお嬢に優しくしたって、結局お嬢は黒川君の元へ行く」



「……青田君。

 君からそんな人間臭い言葉を聞くとは思わなかった」





黒川君が驚いた顔で僕を見る。





え……?

黒川君より僕の方が人間臭いと思うけれど……。



黒川君は一体、僕の事をどう思っているのだろう。



「フフッ……」



黒川君の本気で驚いている顔に、思わず笑ってしまった。


「黒川君。

 牛乳が冷めるから、早くお嬢の所へ持って行ってあげて」



「ああ。

 ……青田君。

 お嬢がこの屋敷のバルコニーを好きな理由を知っているか?」



「え……?」



「この屋敷の中で一番見晴らしが良いあの場所で、お嬢の両親がお嬢を見つけやすいように……、って。

 だから、バルコニーでお嬢を見掛けた時は、声を掛けてやって欲しい」



「……」



「まあ、そんな事を言ったのは、お嬢がこの屋敷に来て間もない頃だから、本人も忘れていそうだが……」



「……黒川君。
 僕はお嬢の涙を見たくはない。

 だから、お嬢が落ち込んでいる時、何て声を掛ければ良いか分からないよ」



「ああ。同感だ。

 だが、俺が一番見たくないのは、お嬢が何も言わず、少し困った顔で笑う姿だ」





黒川君はそう言って、お嬢の元へ行ってしまった。





黒川君。

僕がお嬢の世話係になれなかった理由が、分かった気がするよ……。





僕は施設にいる頃から、小さな子の面倒を沢山見てきた。



自分の感情を抑え、ずっと我慢し続けてきた。


それなのに、誰からも愛されない、誰からも評価されない自分に納得がいかず、回りの人間を羨むばかりだった。





当たり前だ。



今まで誰とも真剣に向き合ってこなかった僕を、誰が愛してくれるんだ……。





白石君が久しぶりに蕁麻疹を出した。

白石君が蕁麻疹を出すのは何年ぶりだろう。



お嬢がこの屋敷に来て、毎日が慌ただしくなって、いつの間にかこの屋敷で他人と生活する事が気にならなくなっていた。


「青田君。お嬢を頼む」





黒川君が白石君を病院へ連れて行く。



相変わらず黒川君は的確に判断し、僕はただ、お嬢を落ち着かせるために、笑顔を作ることぐらいしか出来なかった。



「お嬢。

 白石君は大丈夫だから、心配しないで」



「でも……。

 白石は私のあられもない姿を見てアレルギーを起こしてしまったようです。私のせいで」





お嬢は窓を開け、病院へ向かう黒川君の車を目で追った。



「青田。

 やはり私も病院へ行った方が良かったのではないでしょうか?

 白石の蕁麻疹の原因が私なのだとしたら、私の血液から蕁麻疹を治す薬が作れたかもしれません」





お嬢……。

パンツを見て蕁麻疹が出るなんて、そんな漫画みたいな事が起こると本気で思っているの?





「お嬢。仮にお嬢の血液から蕁麻疹の特効薬が作られたとして、その薬を白石君が大人しく飲んでくれると思う?」


「ハッ……! そうですね。

 私の血液で作られた薬が白石の体内で大暴れしているところを想像しただけで、白石は永遠の眠りについてしまうかもしれません」



「ハハハ!」



それから僕は、お嬢と色んな話をした。



お嬢の話は少し現実離れしていて、小さい頃、施設で読んでもらった物語を聞いているようで楽しかった。





「……お嬢。

 赤井君がお嬢の前で倒れた時の事を覚えている?

 お嬢がこの屋敷に来る前、皆、本当に酷くてね」



「……?」


「赤井君は事あるごとに倒れるし、白石君もなかなか蕁麻疹が治らなくて、マスクと手袋が手放せなかった。

 黒川君は誰とも関わりを持とうとせず、自分の部屋に引きこもっていたし、桃は嘘ばかりついていた」



「皆、大変だったのですね……」





そう。

あの頃は、僕だけがまともな人間だと思っていた。



あれから皆、自分の課題を少しずつクリアしていっているのに、僕だけが全く変わっていない。





僕が静かに笑うと、お嬢が真っ直ぐな瞳で僕を見た。


「青田。

 辛い時や悲しい時は、この部屋で泣いていいですよ?

 絶対誰にも言いません。

 青田と私だけの秘密にしておきますから」





辛い時や悲しい時?

お嬢の前では笑顔しか見せて来なかったのに。



この部屋で泣く?

そんな格好悪い事、出来るわけないよ。



お嬢と僕の、二人だけの秘密……。





お嬢の短い言葉の中に僕への思いやりが詰まっていて、迂闊にも僕の目から涙が落ちてしまった。



「青田……」



お嬢が不安そうな顔をする。


「フフッ。

 ありがとう。今泣きそうだよ」



「え……?」



「嬉し泣き」





お嬢に笑顔を見せるつもりだったのに、涙は止まってくれなかった。



お嬢はしばらく僕を見つめていたけれど、にっこり笑って何も言わず、窓辺の椅子に座って窓の外を眺めた。





「……お嬢」


「ん?」



「フフッ。何でもない」



「そうですか……」





お嬢。



いつか君に僕の本当の気持ちを伝えることが出来たなら、君はどんな顔をするだろうか……。

閑話(青田の過去)その六

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