翌日、小さな事件が起こった。
二階にある広いバルコニーで桃とお嬢が泣いていた。
このバルコニーは、お嬢がこの屋敷の中で一番気に入っている場所で、お嬢の姿が見えない時にここへ来ると、大抵、バルコニーで空を眺めているお嬢に会えた。
「お嬢、ごめんね。
だから泣かないで。
誰か来て!
黒川君! お嬢が……、
お嬢を助けて……」
黒川君と白石君と僕が、大声で泣き叫ぶ桃の声に、バルコニーへ向かうと、二人は床にぺたんと座り込み、泣いていた。
黒川君は真っ先にお嬢に駆け寄り、お嬢を抱き上げた。
……仕方がない。
普段から口の立つ桃と、何も喋らないお嬢。
誰だって、お嬢を守ってやらなければならないと思うだろう。
恐らく桃は、黒川君が自分の元へ来てくれなかった事に傷付いている。
ずっと人の顔色ばかりを見てきた人間は、他人の些細な言動に敏感だ。
「桃、こっちにおいで。
一体何があったの?」
桃はいつものように、その場を凌ぐための嘘をつくだろう。
たとえ桃が嘘をついても、怒るつもりはなかった。
桃は自分を守りながら生きていくのに一生懸命だったから。
「ボク、
この屋敷から追い出されるのかな……」
桃が俯いたままポツリと呟いた。
桃は屋敷から追い出される事を覚悟しているようだった。
「誰も桃を追い出したりしないよ?」
「でも……。
お嬢を泣かせたのはボクだ。
ボクがお嬢に酷い事を言ったから……」
僕は桃の言葉に驚いた。
桃なら『お嬢が勝手に転んで泣いた』と嘘をつくことだって出来た。
嘘をついても、お嬢が反論しない事ぐらい、桃は分かっていたはずだ。
「桃……」
桃を抱き締めると、桃は小さく震えていた。
「ごめんなさい……。
ボクは悪い子だ……」
「……桃はいい子ですよ。
本当に悪い子なら、反省なんかしませんから」
白石君が静かに言った。
「フフッ……」
「……どうしたのですか?
青田君。
俺、
おかしな事を言いましたか?」
「いやいや。
全然おかしくなんかないよ」
「……?」
多分、大丈夫だ。
皆、この屋敷で上手くやっていける。
これから僕達で、居心地の良い場所を作っていけばいい。
桃とお嬢の事件がきっかけで、お嬢は少しずつ会話をするようになっていった。
相変わらずお嬢は、黒川君から逃げる毎日で、僕は黒川君から逃れたお嬢が僕の所へ来てくれるのを楽しみにしていた。
「青田君。
お嬢を見なかったか?」
「さあ?
もし見たとしても、僕はお嬢の味方だから言えないな」
「よし、ならば。
お嬢!
三秒以内に出てこなければ、お前にやろうと思っていた、この塩大福を食うぞ」
「あッ! 黒川、待って!」
トウモロコシの茂みから、慌ててお嬢が飛び出す。
「あー。お嬢。
後で煎餅をあげるから、黒川君の誘惑に負けないでって言ったのに」
僕は笑った。
「ごめんね、青田。
今の私は煎餅より大福気分なのです。
……あれ? 黒川、塩大福は?」
「ハハハ!
嘘に決まっているだろう?」
「うわー、酷い!
嘘をついたら駄目だって、
いつも黒川が言っているくせに!」
「ハハハ!
そんな事、言ったっけな?」
「青田ー。
やっぱり煎餅をくださーい。
後で貰いに行きますからねー」
お嬢が黒川君に引きずられていく。
「フフッ。
沢山用意して待っているよ」
「全く……。
青田君が羨ましいよ……」
黒川君がブツブツ呟きながら、お嬢を引っ張っていく。
「フフ……」
……黒川君。
僕は黒川君が羨ましいよ。
そんな事は口が裂けても言えないけれど。