部屋に帰るなり、思い切りベッドに倒れ込む。
部屋の主――茂浦徳介は途方に暮れていた。
恋人を失ったあの日、彼は全てを失ったのだ。
部屋に帰るなり、思い切りベッドに倒れ込む。
部屋の主――茂浦徳介は途方に暮れていた。
恋人を失ったあの日、彼は全てを失ったのだ。
……はぁ
ただただ色味の無い世界。彼女だけが茂浦にとっての“世界”だった。そんな彼女の誘いに乗って、駆け落ちなぞしようとするからいけないのだ。家族も捨て、仕事も捨て、彼女だけを守ろうと誓った。いつまでも一緒だと誓った。それなのに、自分はどうして生きているのだろうか。
……初
伊藤初。それが茂浦の彼女の名だった。長い髪に、いつも浮かべる微笑みが印象的な彼女。しかし、まだ19だというのに、ナンバーワンホステスとして働く彼女はただの商社勤めだった茂浦にとっては高嶺の花だ。それでも彼女を射落としたのは、彼の真面目な性格に他ならない。
『ねぇ、徳介さん。どこか遠いところに行きましょうよ』
ある時彼女はそう言った。それは、初からの遠回しの告白だった。その言葉を彼女が口にしたのには、訳がある。
殺風景な自室で過去を回帰する茂浦。そして、突如無音だった部屋に間の抜けたチャイムが鳴り響く。
ああ、来客か。重たい体を起こし、茂浦はドアスコープを覗いた。そこに居たのはスーツを着た真面目そうに見える青年と、長身に細身、不健康そうな青白い肌が特徴的な青年だった。
何だか妙な組み合わせの不審者だろうか、と疑問に思う茂浦だが、インターホンからの声で彼らの正体に気付くこととなる。
警察です。茂浦さん、話を聞かせてもらえませんか
何というか、不思議な部屋だな
恵司と共に茂浦徳介のアパートに来た埴谷は、その部屋の有様に違和感を覚えた。なんとなく、生活感が無いのだ。少し前に自主退職をしている茂浦の経歴もまた引っかかるが、それと相まって最早不気味にも感じた。
茂浦はやってきた埴谷達をすぐに中に通し、「お茶を入れてきますね」と奥の部屋に入ってしまった。
なるほどね、彼が
恵司はそんな埴谷の考えていることを知ってか知らずかふんふんと頷いている。それにしてもこいつの傍若無人ぶりはどうにかならないのだろうか、と埴谷は心底痛感した。茂浦本人がこの場に居ないのをいいことに部屋のものを物色しまくっているのだ。埴谷もいつもの事なので止める気は失せているが、流石に引き出しを開けようとしたときは止めた。
大したものが出せなくて申し訳ないですが
お茶と煎餅の乗った盆を持った茂浦は恵司を気にすることなく、埴谷の前に茶を置いた。恵司は茂浦が戻ってきたので物色を諦めたのか、いつの間にか埴谷の隣に座って出された煎餅を何の遠慮もなく手に取っている。
それで、お話というのはどのようなことを?
埴谷達と向い合せになる様な場所に正座をした茂浦は、礼儀正しい青年という印象だった。整った顔立ちに、その立ち居振る舞い。25歳と聞いているが、服装も相まってまだ大学生にも見える。
最近、女性を狙った殺人事件が多発していることはご存知でしょうか
ええ。当事者に限りなく近いですから
茂浦の言葉に、埴谷は失言を悔やんだ。第一の被害者である伊藤初は、彼の恋人だったのだ。知らないわけがないだろう。
すみません、無神経でしたね
いいえ、構いませんよ。それより、となれば僕から聞きたいのは初の事でしょうか
正確に言えば、恵司がここに行けと言いだしたために、埴谷自身は彼に聞くべきことをいまいちわかっていない。埴谷とてそれが刑事として失格なのはわかっているが、恵司の異様なまでに早い行動力のせいだと自分に言い聞かせていた。
どうしたものかと埴谷が恵司に目をやれば、彼は煎餅を頬張りながらもアイコンタクトで続けるよう促している。伊藤初の事を聞ければいいらしい。
そうです。お辛いでしょうが、どうかお願いします
埴谷の言葉に、茂浦は深呼吸をすると、小さく
わかりました
と呟き、話し始めた。
彼女が亡くなる、ほんの少し前の事です
茂浦は酷くお人よしな人間だった。
泣いている迷子が居れば自分の予定をそっちのけで親を探しに行ってしまうし、捨て犬や捨て猫はすぐに拾って飼い主を捜した。大きな荷物を持った人の事も絶対に助けるし、頼まれたことは断らない。そんな性格が功を為すこともあれば、当然逆の事もあった。
そんな彼が、友人に金を貸してくれと言われたらどうなるだろうか。
頼む、金を貸してくれ。すぐに返すから
白根は、茂浦の親友だった。そんな彼からの頼み、茂浦が断るはずもない。
しかし、それが間違いだった。親友だからと大金を貸し、挙句にそれは戻ってこない。伊藤初の勤める店に通う金すらなくし、落ち込んだ彼は仕事でミスを連発。最早会社にもいられない、そう思った時に偶然初と再会したのだ。
徳介さん! 心配したんですよ、突然お店に来なくなるんですから
初が茂浦に向けるそれは、ホステスが客に向ける営業用のそれではない。声のトーンや表情から、茂浦はそう感じていた。
疲れ切った茂浦は、初に今までの事を話した。お金を取られてしまった事、会社にももう居られない事。それを聞く初の顔は真剣で、茂浦が感じたのと同じくらい、悲しみを感じてくれていたと思うと彼は言う。
そして、彼女は真剣な顔で茂浦にこう言った。
ねぇ、徳介さん。どこか遠いところに行きましょうよ
それは、駆け落ちの誘いだった。
フーン。騙されてたんじゃね
お、おい
あまりにも無神経な恵司の言葉。毎度毎度こいつは人の気持ちも考えて欲しい、と埴谷は心の中で舌打ちをする。自分に素直であるといえばそうなのだが、残念ながら空気は読んでくれない。
茂浦はその言葉に、
そうならよかったですよ
と悲しそうに微笑んだ。駆け落ちの当日になっても待ち合わせの場所に初は来ず、その時にはもう初は事切れていたのではないかと彼は言う。
これで、僕の話は終わりですよ。他の被害者の方とは面識が無いので、話せることはありません。ごめんなさい、刑事さん
深々と頭を下げる茂浦。埴谷は十分ですよ、と慌てて返してしまう。それとは反対に、恵司は「飽きた」とおもむろに立ち上がり、玄関から外に出ようとしていた。そんな自由な恵司の行動に、埴谷は茂浦に頭を下げ、お礼を言った。そして、そのまま慌てて恵司を追いかける。
野郎の部屋で野郎の話を聞いて何が楽しいんだ。次女の子の話がいい
彼の元へ行けと言ったのはお前だろう
ん、そうだったっけ? まぁいいや。早く次次女の子。出来れば死体
お前なぁ……
不思議なことに、恵司の希望通り、女性の死体が見つかったと音耶から連絡が来るのは、その直後だった。